秋山 虎繁(あきやま とらしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐国武田氏家臣で譜代家老衆。武田信玄・武田勝頼期に活動が見られる。武田二十四将にも数えられる。諱は『甲斐国志』による「信友(のぶとも)」や、近世の軍記物に拠る「春近(はるちか)」「晴近(はるちか)」「信近(のぶちか)」とする説もあったが、近年は『戦国遺文』『山梨県史』の編纂事業に伴う文書調査によって武田家臣の実名の確定作業が行われ、確実な諱は署判部分の写により「虎繁」であることが指摘されている。「虎」は武田信虎からの偏諱であると考えられている。また、実名の誤伝のうち「晴近」は虎繁の同心である「春近衆」が訛伝したと考えられている。『甲斐国志』によれば、父は秋山信任(新左衛門)とされるが、「信」は武田家の通字であるため、『国志』の記す虎繁の父親の実名に関しては疑問視されている。確実な初見史料は天文18年(1549年)5月とされ、左近士親兵衛尉に対し、一月に馬三匹文の分国諸関諸役免許を与えた武田氏朱印状の奏者として見られる。『高白斎記』によれば、天文22年(1553年)4月に落城した信濃国葛尾城(長野県坂城町)に在城して戦後処理を担当し、御一門衆の武田信繁が虎繁に対して上意を伝達している。虎繁は大島城(長野県松川町)の城代を務め、信濃国のうち伊那郡の守備を任されたという。『甲陽軍鑑』によれば、虎繁ははじめ高遠城(伊那市高遠町)で「上伊那郡代」(郡司)であったが、永禄5年(1562年)に信玄四男の諏訪勝頼(武田勝頼)が高遠城主となると、飯田城(長野県飯田市)へ移ったという。ただし、虎繁が高遠城に在城した痕跡は見られないことが指摘される。年未詳8月18日武田晴信書状において、信濃大島城に在城していた室住虎光(豊後守)と「秋山善右衛門尉」が、美濃国の斎藤道三が国境付近において軍勢を動かした際に、大島城において情勢を晴信に報告し、晴信から指示を与えられている。同文書は永禄4年(1561年)の川中島の戦いで戦死している室住虎光の没年から永禄初年頃、あるいは弘治元年(1555年)に推定されており、「秋山善右衛門尉」は虎繁を指すと考えられている。なお、この時には美濃の国衆・遠山氏支援のため美濃苗木城(岐阜県中津川市)に在番していた可能性が指摘される。これ以後も大島城に在番し続け、永禄2年(1559年)12月には伊那郡の春近衆・赤須昌為の所領紛争の解決などに携わっている。虎繁は主に伊那郡において美濃・遠江・三河方面の軍事・外交に携わっており、『甲陽軍鑑』では虎繁を「伊那郡代」としている。永禄2年から永禄8年(1565年)頃に受領名「伯耆守」を受ける。同年には尾張国の織田信長との同盟交渉においては取次を務める。永禄11年(1568年)には岐阜へ赴いたという(『甲陽軍鑑』)。なお、「秋山善右衛門尉」と「秋山伯耆守」は活動時期から同一人物であると推定されており、後に織田信長が打ちとった敵将・攻略した城郭を記した「信長公御一代合戦之覚」(徳川林政史研究所所蔵古案)では、長篠合戦以前に、虎繁を指していると考えられている「秋山善右衛門」の名が見られる。永禄11年(1568年)12月、武田氏は駿河国今川領への侵攻を開始する(駿河侵攻)。武田氏は駿河侵攻に際して三河国の徳川家康に同盟を持ちかけていたが、『三河物語』によれば徳川方は同盟締結の国分において駿河を武田領、遠江を徳川領と理解していたと考えられており、虎繁が信濃衆を率いて遠江へ侵攻しすると、これに対して抗議している。晴信は虎繁を撤退させることを約束しているが、この事件以後に武田・徳川同盟は崩壊している。元亀2年(1571年)2月には下伊那郡諸郷の人足を動員し、大島城の普請を命じられており、大島城の城代であったことが確認される。元亀3年(1572年)10月、信玄は「西上作戦」を開始する。『当代記』によれば、虎繁は山県昌景とともに別働隊を率いて奥三河へ侵攻する。虎繁は三河の奥平氏・菅沼氏らの国衆の諸城を陥落させた後、信玄本隊と合流している。同年末には東美濃国衆の遠山氏が織田信長から離反して武田氏に帰属すると、虎繁は美濃方面を担当する。元亀4年/天正元年(1573年)3月6日、信玄の命で東美濃に向かい、前年に武田方に寝返っていた岩村城(岐阜県恵那市岩村町)に入城した。以後、虎繁は大島城代と岩村城代を兼任する立場となる。「武田法性院信玄公御代惣人数事」『甲陽軍鑑』では虎繁は岩村在城で50騎を率い、坂西氏・知久氏・座光寺氏ら下伊那国衆を指揮し305騎を統率したと記しており、この時期の虎繁を指すと考えられている。なお、『甲陽軍鑑』『三河物語』によれば、虎繁は開城に際して前城主・遠山景任の未亡人で信長の叔母に当たるおつやの方(岩村殿)を正室として迎えたとされるが、これは誤りであることが指摘されている。また遠山家の養子として送られていた信長の五男・御坊丸(後の織田勝長)を保護して甲斐に送っている。同年4月12日、武田信玄は信濃伊那郡駒場において死去し、武田勢は甲斐へ撤兵した。信玄の死後は後継者の勝頼に仕える。「秋山家文書」によれば、天正元年12月25日には武田家の譜代家老である金丸筑前守(虎義)の三男・惣九郎(昌詮)を娘婿とし、養子に迎える。金丸氏が養子を迎えた背景には、岩村城代を兼任する立場から子息に恵まれないことを危惧したとも考えられている。なお、昌詮は天正7年(1579年)7月23日に病死し、筑前守の七男・源三郎(親久)が秋山氏を継承した。天正3年(1575年)5月21日、織田・徳川連合軍と武田勢の間で行われた長篠の戦いで武田軍は大敗し、織田・徳川勢は武田氏に対する反攻を強めた。織田・徳川勢は奥三河の諸城を陥落させると、6月25日には三河武節城(愛知県豊田市武節町)を陥落させた。信長は嫡男の織田信忠に命じて岩村城を包囲させた(『信長公記』)。虎繁は春近衆・岩村衆を率いて防戦し、勝頼に対して救援を要請し、「諸州古文書」によれば、7月19日には武田信豊・小山田信茂が後詰として出陣することを連絡されるが、勝頼は遠江方面の防戦にも忙殺されていたため、実現には至らなかった。8月10日には日向虎頭が大島城へ派遣され、虎繁の同心衆は小山田昌成・保科正直の下知に従うことを伝えている。同年11月に勝頼は岩村城へ出兵するが、これに対して織田勢も岩村城への攻勢を強め、虎繁は城兵の助命を条件に信忠に降伏した。織田氏はこれに対し城兵を殺害し、虎繁は11月21日に捕縛されると岐阜へ連行され、11月26日に長良川で磔に処された(『信長公記』)。享年49。『本土寺過去帳』や『甲斐国志』所引の秋山氏の菩提寺・清運寺過去帳によれば法名は浄国、『開善寺過去帳』では虎繁の命日を正確に記し、法名を「秋伯忠義禅門」としている。金丸筑前守の子・秋山昌詮は虎繁の養子となるが天正7年(1579年)7月23日に病死し、筑前守の七男・源三郎(吉千代)が昌詮の遺言により秋山氏を継承する。「秋山家文書」によれば、源三郎は伊那郡の国衆・下条兵庫助の娘と婚姻した上で秋山氏を継承しており、兵庫助に虎繁の娘が嫁いでいたとも考えられている。源三郎は天正10年(1582年)3月11日に織田・徳川連合軍の武田領侵攻に際して、勝頼に従い戦死している。『寛永諸家系図伝』によれば、源三郎には三歳の男子がおり、母方の縁を頼り伊豆大平の土屋氏のもとへ落ち延びたとする伝承を記している。さらに、この男子は与兵衛を名乗り、伊豆国君沢郡安久村へ土着し、寛永13年(1636年)に死去したという。一方、秋山氏の家伝文書を伝えた子孫家とされる家に秋山平太夫家があり、譜代大名・水野氏に仕えている。同家には「秋山家文書」(山形大学附属博物館寄託)が伝わっているが、系図では昌詮・源三郎の記述がないことが指摘される。「秋山家文書」に含まれる宝永6年(1704年)の先祖書や『甲斐国志』に拠れば、伯耆守(虎繁)の子孫に秋山民部右衛門(『甲斐国志』では式部右衛門尉)がおり、民部右衛門の孫・秋山平太夫が家伝文書を水野家に仕えたとしている。民部右衛門に関しては世代的観点から虎繁の父もしくは兄弟と見る説もある。また、『新編会津風土記』には天正8年(1580年)の史料に見られる「秋山式部右衛門尉」の存在を記しており、民部右衛門とは別人もしくは子息であると考えられている。
出典:wikipedia
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