乙一(おついち、男性、1978年10月21日 - )は、日本の小説家、自主映画監督。日本推理作家協会会員、本格ミステリ作家クラブ会員。山白朝子(やましろ あさこ)や中田永一(なかた えいいち)の別名義でも小説を執筆している。本名は安達 寛高(あだち ひろたか)。1978年(昭和53年)10月21日、福岡県田主丸町(現・久留米市)に両親と2歳上の姉がいる4人家族の長男として生まれた。町立川会小学校、町立田主丸中学校を卒業。小学校高学年からは60kgを超す肥満児となり、周囲からはそのことを揶揄され、コンプレックスから独りでゲームに没頭するようになる。14歳のときに一念発起してダイエットを成し遂げ、中学3年ではクラス委員に選ばれるようになったものの、依然として同級生たちのなかには溶け込めず、自分は「キモい」存在だという劣等感は払拭されなかった。1994年(平成6年)、久留米工業高等専門学校に入学。高専の5年間を「人生で一番鬱屈した時代だった」と語るが、15歳ごろの夏休み、友人から借りた神坂一のライトノベル『スレイヤーズ』第1巻を読んだことで小説を読むことの楽しみを知り、ゲームや漫画だけでなくライトノベルにも手を出すようになった。それから1年半ほどはライトノベルを読み漁り、また友人や姉から借りた我孫子武丸『殺戮にいたる病』、綾辻行人『十角館の殺人』、島田荘司『御手洗潔シリーズ』などで本格ミステリや叙述トリックにも出会った。自分で小説を書くようになったのは16歳のとき。富士見ファンタジア小説大賞に応募するための異世界ファンタジー長編を書き始めたものの上手くいかず、次に舞台を地元周辺の田舎町にして書いたものが、1996年(平成8年)に第6回ジャンプ小説大賞を受賞してデビュー作となった『夏と花火と私の死体』である。賞の選考では、審査員を務めた栗本薫が強く推したという。17歳(執筆時は16歳)での作家デビューであった。1999年(平成11年)に久留米高専を卒業、豊橋技術科学大学工学部エコロジー工学課程に編入学、愛知県豊橋市で一人暮らしを始める。大学ではSF研究会所属。2002年(平成14年)、豊橋技科大を卒業。この年に出版された『GOTH リストカット事件』で翌年の第3回本格ミステリ大賞を受賞。2003年(平成15年)、豊橋市から東京都目黒区(学芸大学駅付近)に転居、さらに数か月後には川崎市中原区(武蔵中原駅付近)に転居。ある時、編集者から押井守監督作品『イノセンス』(2004年公開)の整音現場の見学に誘われ、そこで押井の娘で、編集者・ライターをしていた押井友絵と出会い、2006年(平成18年)に結婚した。2007年(平成19年)2月に川崎市から転居。2010年(平成22年)には第1子が誕生している。初期は、奇抜なアイディアの短編小説やハートフルなライトノベルが中心であったが、『GOTH リストカット事件』はミステリー小説として、本格ミステリ大賞を受賞するなど高く評価された。また初期の作品はホラー小説寄りのものと切ないストーリーに大きく分かれていたため、それぞれ「黒乙一」「白乙一」と呼ばれていた。乙一名義では主に集英社、角川書店(現 KADOKAWA)、幻冬舎などで小説を執筆している。2005年ごろから、メディアファクトリー(現 KADOKAWA)の怪談専門誌『幽』で山白朝子として、また祥伝社の恋愛小説アンソロジーや恋愛小説専門誌『Feel Love』で中田永一として、それぞれ別名義での執筆活動を開始した。当初、同一人物だということは伏せられており、2007年発行『死者のための音楽 山白朝子短篇集』巻末(238ページ)には「1973年、大分県生まれ。出版社勤務を経てフリーライターになる。」という乙一本人のプロフィールとは異なる情報が記載されていた。2011年6月30日に、山白朝子や中田永一の別名義で活動していたことを乙一(安達寛高)のtwitterで明らかにした。2012年11月には、中田永一名義の『くちびるに歌を』が選ばれた小学館児童出版文化賞の贈呈式に出席し、毎日新聞がこの別名義の件を報じた。そのほか、8人の作家がそれぞれ名前を伏せ越前魔太郎名義で1冊ずつ執筆する『魔界探偵冥王星O』というシリーズの企画(2010年)にも参加している。本名の安達寛高名義では自主映画の制作を行っており、2015年までに4本の作品を発表している。2004年には『ゴーストは小説家が好き』で第5回宝塚映画祭・映像コンクールに上位入選している。2016年には乙一、中田永一、山白朝子、越前魔太郎による短編集(解説は安達寛高)という、5人分の名義が並んだ『メアリー・スーを殺して』を刊行、その巻末でさらに枕木 憂士名義でも映画エッセイを寄稿していることを明かした。『ダ・ヴィンチ』2016年5月号では「奇跡の鼎談が実現」と銘打って乙一・中田永一・山白朝子という別名義同士の鼎談企画も実施した。小説の執筆にあたっては、まずストーリー展開を決めたうえで、それにあったキャラクター設定を作る方法をとっている。また、デビューからまもない頃に『シナリオ入門』という本で勉強した映画の脚本作りの技術を取り入れている。特に、物語のちょうど真ん中で転換点を迎えるという手法(ミッドポイント)を多用し、全体の構成が4分割、16分割までされているものも多い。妻の押井友絵は乙一の制作への姿勢について「小説にも映画にも執着してないんじゃないか」といい、本人も「作品が形になっていくのがとにかく楽しくてやっている感じ」だと述べている。2012年に『このミステリーがすごい!』大賞の優秀賞を受賞し作家デビューした友井羊は、「重度の乙一ファン」だと自称しており、乙一作品を読み漁って勉強することで小説家になったと語っている。ライトノベルとは、出版界において特殊な位置づけがされている。乙一自身「付き合いのある編集者の中でライトノベルを読んでいる人はいない」と述べている。これは、乙一が出版界で活動をしてはじめて知った「ライトノベルの地位の低さ(差別)」にも繋がる事実である。乙一がデビューした当時(17歳)、ライトノベルに授けられる賞はひとつもなかった。自らがライトノベルで本を出すことによりライトノベルしか読んでいない人にもミステリーという形式を知ってもらい、いろんなジャンルの本を読んでもらおうと思った乙一は『GOTH』というミステリー小説を最初、ライトノベルというジャンルで出版した。しかしその後ライトノベルという形式から一般書の形式に変更した。本人はそれを「ライトノベルのままでは手にとってもらえない客層がいるという事実を覆せなかったという点では、ある種の敗北である」とハードカバー版の『失はれる物語』のあとがきの中で述べている。アニメ、ゲームや漫画、映画鑑賞が趣味。最も好きな映画監督はアンドレイ・タルコフスキー。スタジオジブリ作品のファンであることを公言しており、特に好きな作品は『天空の城ラピュタ』のようである。また、藤子・F・不二雄作品のファンでもあり、『ドラえもん』(原作・アニメ版共に)からは多大な影響を受けており、『F先生のポケット』および『スモールライト・アドベンチャー』ではドラえもんの道具が登場する。16歳の頃から伊集院光と爆笑問題のラジオ番組を愛好しており、東京に移住したのもラジオの電波が入りやすいという理由からであった。高専時代は友達がいなかった(なぜか人との接触を拒んでいた)ため、一人で本を読んでいる事が多く、「ダメでもいいんだ」というラジオの声に勇気付けられたと話す。ちなみに出身地である福岡県はRKB毎日放送にてずっと伊集院光と爆笑問題のラジオを放送している数少ない地域でもあった(愛知県では放送がなく、東京などの放送波を遠距離受信する必要がある)。また乙一は1人で遊べるという点からDance Dance Revolution(ダンスダンスレボリューション)というダンスゲームが好きであり、最高のレベル10まで踊れると述べている。高校生の時85キロあった体重は大学での一人暮らしにおける肉体改造ともいえるダイエットとDance Dance Revolutionのおかげで現在65キロまで落ちている。ジャンプ ジェイ ブックス出身の作家では定金伸治と松原真琴と特に仲が良く、3人でトルコを旅行し2006年に3人の共著で『とるこ日記』を出版している。また『ファウスト』の若手執筆陣、佐藤友哉、西尾維新、滝本竜彦らと交友がある。妻の押井友絵は映画ライターとして活動しており、乙一の監督映画で主演も務めている。また友絵の父は『うる星やつら』などで知られる映画監督の押井守であり、乙一から見ると義父にあたる。候補などを含む。文芸誌掲載時から単行本・文庫本収録までのあいだに大幅な改稿が入っているものがいくつかある。たとえば『ZOO』収録の「Closet」は細部や結末が変わっており、同「カザリとヨーコ」も友井羊によれば「別作品といってもいいくらい」、『天帝妖狐』にいたっては全面改稿によって「正真正銘別の作品」(友井)となっている。映像作品においては、本名の「安達寛高」名義で作品を発表している。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。