九六式陸上攻撃機(きゅうろくしきりくじょうこうげきき)は、大日本帝国海軍の陸上攻撃機。九六式艦上戦闘機と並んで、日本の航空技術が欧米と同等のレベルまで進んだことを示した最初の機体である。当時としては高い航続性能を有し、支那事変から太平洋戦争の初期まで第一線で活躍した。なお海軍の命名法によって急降下爆撃ができない本機は爆撃機ではなく攻撃機とされた。後継機の一式陸上攻撃機とともに通称「中攻」と呼ばれた。連合国軍のコードネームは「Nell」。ワシントン海軍軍縮条約は加盟国の主力艦(戦艦・巡洋戦艦)の保有量に制限を設けたが、結果として廃艦となる新造主力艦を改造した大型空母の出現を招いた。このことは航空母艦と艦載機を取り込んだドクトリンの複雑化を招き、空母増勢という新しい方面の軍備拡張競争を招きかねないことから、ロンドン条約では航空母艦の保有量にも制限がかけられた(しかしながら、いったん出現してしまった空母の存在は「敵空母による日本本土空襲」の潜在的脅威でありつづけたこともあり、日本海軍では1935年(昭和10年)の第二次ロンドン海軍軍縮会議では空母全廃に持ち込もうとして失敗することになる)。ロンドン条約のために水上艦の増勢が不可能となったため、海軍航空本部長松山茂中将は長らく暖めていた長距離雷撃機の開発に乗り出した。山本五十六技術部長、和田操技術部主任、のちに参加する山縣正郷総務部員らスタッフを揃え、連日検討した。このような経緯の中で、陸上基地から発進して敵艦船(主として敵空母)を攻撃できる「沿岸用攻撃機」が考案された。この当時、海軍機メーカーの中で大型全金属機の製作能力をもっていたのは広海軍工廠(広廠)と三菱内燃機であったため、まず広廠で「七試特種攻撃機」(「七空攻撃機」とも呼称される、後の九五式陸上攻撃機)の開発に着手、次いで三菱に「八試特殊偵察機」1機の試作が発注された。八試特偵は1934年(昭和9年)4月に初飛行した後、計画が変更され7.7ミリ機銃二挺を搭載する「八試中型攻撃機」へと改称された。さらにこの試作の成果を元に九試陸上攻撃機が計画され、三菱内燃機株式会社名古屋航空機製作所に発注された。設計主務者は八試特偵と同じ本庄季郎技師。試作機は10年6月に完成し、7月(1935年(昭和10年)7月)に初飛行に成功した。11年6月2日に九六式陸上攻撃機として正式採用された。大型陸攻である広廠九五式陸攻が「大攻」、中型の九六式陸攻は「中攻」とみなされた。長距離攻撃機として、空気抵抗と燃費の低減に重点を置いて設計された。機体重量の半分の搭載量を誇る画期的な航空機だった反面、胴体をスマートな形(「魚雷型」)にしたため機内に爆弾倉を設けることができず、爆弾や魚雷は胴体下に吊り下げられて空気抵抗を生じた。また、爆撃機特有の機首風防を廃しているため前方の防御火力(機首銃座)は無く、特に世界的に1930年代後半以降必須となっていた防弾装備も皆無であるなど、軍用機(爆撃機)としては未だ発展途上の機体であった。そのため爆弾倉(爆弾倉扉付)と機首風防(機首銃座付)を設け、防弾装備(防漏燃料・潤滑油タンク。1939年(昭和14年)の初期量産型(I型乙)の時点で装備)を備えより高速な日本初の本格的かつ近代的な爆撃機は、本機の翌年に制式制定された陸軍の九七式重爆撃機の登場を待たなければならない。日中戦争では航続性能を生かして、設計本来の目的ではない、対地爆撃に多用された。まず台湾や九州の基地を発進し、東シナ海を越え、第二次上海事変で孤立する現地部隊を支援する爆撃を行い、帰還した。これは渡洋爆撃として国内に大きく宣伝され名を揚げた一方で敵戦闘機による多大な被害を受けた。その後、基地を中国本土に進め、中国奥地の漢口や重慶等の都市を爆撃した。渡洋爆撃初期から敵地上空で敵戦闘機による損害が続出し、長距離護衛戦闘機の必要性が真剣に検討され、十三試双発陸上戦闘機、後の月光の誕生につながった。なお零戦も陸攻の護衛に活用されたが、それは結果に過ぎず、長距離護衛のために開発されたというのは俗説であり、誤りである。太平洋戦争では、1941年(昭和16年)12月8日の開戦当日から連日 台湾を発進してフィリピンのアメリカ軍飛行場を爆撃し、短期間にアメリカの航空戦力を壊滅させた。さらに12月10日のマレー沖海戦では、一式陸上攻撃機と協同でイギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈し、戦艦に対する航空優位を印象付けた。しかし、1942年(昭和17年)2月のジャワ沖海戦では魚雷が間に合わず、大きな戦果を上げられなかった。また5月の珊瑚海海戦では敵艦に命中弾を与えることが出来ず、効果的な対艦攻撃が出来なかった。1943年(昭和18年)1月のレンネル島沖海戦では夜間雷撃を成功させ、シカゴに2本、ウィチタとルイビルに各1本(共に不発)の魚雷を命中させている。なお、「空の神兵」として国民に広く知られる事となる日本海軍空挺部隊を運搬したのも、九六式陸攻の輸送機版である九六式陸上輸送機である。1942年(昭和17年)1月11日にセレベス島のメナドに二波408人を降下させたのは延べ45機、2月20日に西ティモールのクパンへ二次に渡り700人を降下させたのは28機の九六式輸送機であった。その後は徐々に第一線を後継機に譲り、輸送などの後方任務につくことが多かったが、末期には老朽を押して東海実用化までのつなぎとして電探とKMX磁気探知機を搭載した対潜哨戒機として用いられたり、練習航空隊で使われていた機が夜間雷撃を行うなど再び一線に立った機体もまた少なくなかった。1939年(昭和14年)に九六式陸攻二一型を元に燃料・滑油タンクの増設と武装の削減、機内に8~10人分の座席を備える客室設置などの改造を行った機体を、海軍では九六式陸上輸送機として採用、同様の改造は一一型に対しても実施され、後年には落下傘部隊用の特殊輸送機へ改造したものも登場した。九六式陸上輸送機は民間でも三菱式双発輸送機として大日本航空や各新聞社で輸送や連絡に用いられた。これらの中には世界一周飛行を行った『ニッポン』号など、日本から各国への長距離飛行に供されたものがあった。長距離飛行を行った三菱式双発輸送機の例としては以下のようなものがあった。
出典:wikipedia
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