エレバン(Երևան、Yerevan )は、アルメニア共和国の首都である。イェレヴァン、エリバン(Erivan)、エレブニ(Erebuni)、エレウン(Ereun)と呼ばれていたこともある。「Erewan」、「Ayrivan」、「Erevan」などの表記も見られる。ロシア語ではかつて"(エリヴァニ)と表記されていたが、1930年代頃から原音に近い"(イェレヴァン)と綴られるようになった。人口約106万人(2004年)。機械製造や金属業、ワイン、ブランデー製造、たばこ製造業が盛ん。フラズダン川が市内を流れる。南にアララト山を臨む。現存する世界最古の都市の一つとされており、また創世記に語られている「エデンの園」が存在していたという伝承のある地でもある。紀元前8世紀ごろにはすでにウラルトゥのエレブニ要塞がアルギシュティ1世によって、北カフカースからの攻撃に備え、この地に築かれていた。紀元前4世紀までにはアケメネス朝のアルメニア・サトラップの主要な町になっていた。ヨーロッパと中央アジア、インドを結ぶ交易路の中継地であったため、658年、アラブによって征服される。その後、アルメニア人のバグラト朝の中枢として栄える。1387年、ティムールによる包囲、略奪に遭う。イルハン朝の中心都市の一つともなる。以後、オスマン帝国とサファヴィー朝の角逐の場となっていく。1604年にはアッバース1世の命により、多くの市民がペルシアに連れ去られた。1679年には大地震に見舞われた。サファヴィー朝では、エレバン・ハン国に編入される。1827年、第二次ロシア・ペルシア戦争においてロシア帝国がガージャール朝を撃破し、1828年のトルコマンチャーイ条約でロシア領となった。その後、エレバンには多くのアルメニア人がペルシアから帰還してくる。1854年以降、都市計画がなされ、多くの大学が設立され、ギュムリやトビリシ、アゼルバイジャン方面への鉄道建設がなされた。ロシア帝国が崩壊すると、1918年、中世以来の独立国家となったアルメニア共和国において、エレバンは首都となった。1920年にアルメニアが共産化し、1922年にソビエト連邦構成共和国を構成する共和国の一つとしてアルメニア・ソビエト社会主義共和国が誕生した際にも、エレバンはその首都となり続けていた。エレバンはアルメニア人建築家アレクサンドル・タマニアンの都市計画に基づき、近代都市へと作り変えられていった。1965年、アルメニア人虐殺50周年を巡るエレバンでの抗議運動は、ソ連における最初の大規模な反ソ運動へと発展した。1966年に市内のツィツェルナカベルトに虐殺の追悼碑が建立された。1991年9月21日、ソ連崩壊に伴ってアルメニア共和国が独立を宣言した後も、エレバンは首都であり続けている。標高1,000m程で、アララト平野の南東に位置する。三方を山に囲まれ、南はフラズダン川に向かって下降している。フラズダン川が市を2つに分けている。ケッペンの気候区分では湿潤大陸性気候に属する。内陸で盆地的な地形から夏は極めて暑く、40°C近くまで上がることもある。一方、冬季は寒さが厳しく、-15 °C以下になることも多い。積雪も多く、近郊の山々はスキー場となる。ソ連時代は、ロシア人、クルド人、アゼリー人、イラン人も多く居住していたが、1988年のナゴルノ・カラバフ戦争でアゼリー人の人口は消滅し、アルメニア人と入れ替わった。ロシア人の多くも1990年代の経済不況でエレバンを離れた。従って、住民の多くはアルメニア人となったが、ヨーロッパや北米への移民流出が続き、人口は減り続けた。人口が増加に転じたのは、2007年以降である。アルメニアのGDPの過半はエレバンが生み出す。1990年以降、深刻な経済不況が続いているが、石油化学産業、アルミニウム産業等が盛んである。水力発電も盛んである。ワインやブランデー(アルメニアン・コニャック)の生産でも名高い。現在、エレバンは25の姉妹都市を有している:
出典:wikipedia
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