鳥居 元忠(とりい もとただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。下総香取郡矢作藩(千葉県香取市矢作)の藩祖。天文8年(1539年)、松平氏の家臣・鳥居忠吉の三男として三河碧海郡渡郷(愛知県岡崎市渡町)に生まれる。父は岡崎奉行などを務めた老臣で、元忠も徳川家康がまだ「松平竹千代」と呼ばれて今川氏の人質だった頃からの側近の一人で、天文20年(1551年)から近侍した。柴裕之は元忠が13歳(天文20年)から家康に仕えていたとする『寛政重修諸家譜』の記事が正確であることを前提として、弘治元年(1555年)に家康が14歳で元服して今川義元から偏諱を与えられて「松平元信」を名乗った際に3歳年上の元忠も同時に元服・偏諱授与の栄誉を受けたのではないかと推測している。家康の三河統一後、旗本先手役となり旗本部隊の将として戦う。長兄の忠宗は天文16年(1547年)の渡の戦いで戦死し、次兄の本翁意伯は出家していたため、元亀3年(1572年)に父が死去すると、家督を相続した。永禄元年(1558年)の寺部城攻め、元亀元年(1570年)6月の姉川の戦い、元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦いに参加。諏訪原城合戦では斥候として敵陣に潜入し、敵に発見されて銃撃で足に傷を負い、以後は歩行に多少の障害を残したものの、天正3年(1575年)5月の長篠の戦いにおいては石川数正とともに馬防柵の設置を担当する。続いて、天正9年(1581年)の高天神城の戦いに参戦した。天正10年(1582年)の天正壬午の乱では、家康の背後を襲おうとした北条氏忠・氏勝軍の別働隊10,000を甥の三宅康貞・水野勝成ら2,000の兵で撃退し北条勢約300を討ち取り(黒駒合戦)、戦後家康より甲斐都留郡(山梨県都留市)を与えられ、初め岩殿城に入り、やがて谷村城主となる。この地域は武田氏統治時代においても小山田氏が独自の支配体制を確立していた上、北条氏との国境地域であったことから特に重臣である元忠が配置されたとみられる。なお、都留郡でも小山田氏の支配の及んでいなかった北部地域などは元忠の支配から除外され、徳川氏に従った甲斐国衆の支配下に置かれていたとみられている。元忠には朱印状を含めた印判状の発給が許されたり、家康直属の奉行人と言えども元忠本人の了承なしに領内の統治に関与できないなど、家康からは一定の排他的自律性に基づく支配が認められていた。天正13年(1585年)、上杉景勝へ通じた真田昌幸を討伐しようとした上田合戦では、大久保忠世・平岩親吉と共に兵7,000を率いて上田城を攻撃するものの大きな損害を受け、撃退される。天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加し、岩槻城攻めに参加した。戦後家康が関東に移封されると、下総国矢作城4万石を与えられる。元忠の配置は常陸国の佐竹氏や東北地方の諸大名の南下に対する備えであり、引き続き強い支配権限が与えられていたとみられ、その位置づけは元忠没後の鳥居氏の東北地方要地への移封につながったと考えられている。矢作城に入ったが、城の狭隘を理由に、岩ヶ崎へ新城を築き移り住む。岩ヶ崎城は佐原市岩ヶ崎字城山にあり、元忠は岩ヶ崎城を本格的に築城するため普請奉行を決め仕事に着手したが、完成をみずに廃城となった。慶長4年(1599年)、検地を行う。矢作領八四か村にわたる合計高約四万石で、一名「矢作縄」といわれ、それ以前より二倍半の増盛がなされた苛酷なものであった。慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝の征伐を主張し、諸将を率いて出兵すると(会津征伐)、伏見城を預けられる。6月16日、家康は伏見城に宿泊して元忠と酒を酌み交わし「我は手勢不足のため伏見に残す人数は3000ばかりにて汝には苦労をかける」と述べると「そうは思いませぬ。天下の無事のためならば自分と松平近正両人で事足りる。将来殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要である。もし変事があって大坂方の大軍が包囲した時は城に火をかけ討死するほかないから、人数を多くこの城に残すことは無駄であるため、一人でも多くの家臣を城から連れて出てほしい」 と答えた。家康はその言葉に喜び、深夜まで酒を酌んで別れたと伝わる。家康らの出陣中に五奉行・石田三成らが家康に対して挙兵すると、伏見城は前哨戦の舞台となり、元忠は松平家忠・近正・内藤家長らと1,800人の兵力で立て籠もる(伏見城の戦い)。元忠は最初から玉砕を覚悟で、三成が派遣した降伏勧告の使者を斬殺して遺体を送り返し、戦い続けた。13日間の攻防戦の末、鈴木重朝と一騎討ちの末に討死した。享年62。元忠の首級は京橋口に晒されたが、親交のあった京の商人佐野四郎右衛門が知恩院の内である長源院に葬ったといわれている。その忠節は「三河武士の鑑」と称された。このときの伏見城の血染め畳は元忠の忠義を賞賛した家康が江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせた。明治維新による江戸城明け渡しの後、その畳は明治新政府より壬生藩鳥居家に下げ渡され、壬生城内にあり元忠を祭神とする精忠神社の境内に「畳塚」を築いて埋納された。床板は「血天井」として京都市の養源院 をはじめ宝泉院、正伝寺、源光庵、宇治市の興聖寺に今も伝えられている。墓所は京都市左京区の百万遍知恩寺のほか、福島県いわき市平の長源寺。家康は忠実な部下の死を悲しみ、その功績もあって嫡男・忠政は後に磐城平藩10万石を経て山形藩24万石の大名に昇格している。また元忠の孫にあたる忠恒と玄孫の忠則とが、江戸時代にそれぞれ不行跡として改易の憂き目にあった際、いずれも元忠の勲功が大きいとして減封による移封でいずれも断絶を免れた。元忠は家康の絶対の忠臣であったと言われている。幼少の頃から家康に仕えて幾度となく功績を挙げたが、感状をもらうことは無かった。天正19年(1591年)に家康が感状を与えようとしたが、元忠は感状などは別の主君に仕えるときに役立つものであり、家康しか主君を考えていない自分には無用なものであると答えて受け取らなかった。また天正14年(1586年)に家康に従って上洛した際、秀吉からの官位推挙の話が度々あったが「某は才無き者でござれば、秀吉公と家康公の両君の恩恵を受けて、二君へ忠を尽くす術を知りませぬ。殊に三河譜代者にて、万事粗忽でござれば、秀吉公の御前に出仕するべき器量もござりませぬ」と言って受けなかった。また伏見城に立て籠もる際には既に討死を覚悟しており、「我、ここにて天下の勢を引き受け、百分の一にも対し難き人数をもって防ぎ戦い、目覚ましく討死せん」と述べたと伝わる(『名将言行録』)。これは元忠が嫡子の忠政に言い残した遺戒とも伝わり、他に「徳川の家風は守るところの城を明け、難を逃れて命を惜しみ、敵に弱みを見せぬ者ぞ」「徳川の御家と盛衰安危を共にし、外に主を取らぬ筋目、寝ても覚めても忘れてはならぬ。また1度の不満に旧恩を忘れ、仮にも別心する事は人の道ではない」と遺したと伝わる。一方で家康の下に退くか逃げることもできたが、元忠の遺戒では「何十万の兵に包囲されても難なく囲みを破って逃げる事はできるが討死するまで戦うのが武士の志であり忠節である(我等においては城踏へ、速やかに討死すべき覚悟なり。何十万騎にて攻め寄せ、千重に囲むといふとも、一方を打破って退ぞかんに手間取るべからず。夫は武士の本意にあらず。忠節とはいひ難し)」と述べている。元忠は家康への忠義を見てわかるように頑固で融通の利かない一面があったのも事実である。だが思いやりもあったようだ。高天神城攻めの際、味方の小荷駄隊の到着が遅れて徳川軍は飢えに苦しんだ。そこで家臣が周囲で略奪した飯を元忠に食べさせようとしたが、元忠は「未だ食事が届かず、将兵の飢える時、我が衆と共に労苦を共にして進まずば、何をもって功をなすことができようか。士卒と共に餓死する事を厭わぬ」と言って箸を取らず飯を投げ捨てた。これを知った士卒は感激して飢えを忘れて節義に励んだと伝わる。武田氏の滅亡後、重臣である馬場信春の娘の情報が家康に届き、元忠に捜索を命じる。しかし元忠は娘は見つからないと報告し、捜索は打ち切られる。しばらくして、その娘が元忠の本妻になったという話を聞き、家康は「抜け目のない男よ」と高笑いで許した。元忠と馬場氏の間には3男1女をもうけたと伝えられている(『岩淵夜話』)。これは家康が元忠の行為を笑って許せるほど信任していた証とされている。家康は元忠の事を「ゆからぬ者(万事に抜け目のない者)」と評した。元忠は猛将としてのイメージが強いが、実際は父の時代からの鳥居家の「ワタリ」としての情報力を活かしての情報収集、経済支援に努めており、家康にとって元忠はまさにゆからぬ者だった。元忠の4男・鳥居忠勝(水戸藩士)の娘が赤穂藩家老・大石良欽に嫁いでいる。その夫婦の孫が元禄赤穂事件(忠臣蔵)において主君に忠死した大石良雄であった。他に瀧廉太郎作曲の『箱根八里』の作詞者である鳥居忱も子孫にあたる。元忠の出生地は愛知県岡崎市渡町(元の矢作町)で、「鳥居氏發祥地」の石碑が建っている。その碑を管理しているのが鳥居元忠の生家で、今では鳥居家の本家として受け継がれている。鳥居元忠の関係の子孫の多くは関東を中心に東京、栃木、神奈川、千葉、岩手、群馬、茨城、長野等に散らばっている。400年以上過ぎた今でも、元大名の鳥居家や本家を中心とした鳥居家一族の会(鳥居会)を作って時代の検証を続けている。小説
出典:wikipedia
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