地政学(ちせいがく、:ジオポリティクス、:ゲオポリティク、:ジェオポリティク)は、地理的な環境が国家に与える政治的、軍事的、経済的な影響を、巨視的な視点で研究するものである。イギリス、ドイツ、アメリカ合衆国等で国家戦略に科学的根拠と正当性を与えることを目的として発達した。「地政学的」のように言葉として政治談議の中で聞かれることがある。歴史学、政治学、地理学、経済学、軍事学、文化学、文明、宗教学、哲学などの様々な見地から研究を行う為、広範にわたる知識が不可欠となる。また、政治地理学とも関係がある。大陸国家系地政学は組織学派の影響が大きく、海洋国家系地政学との差異を生んでいる。地政学、すなわち、地理と政治や軍事との関係性についての研究は、すでに古代ギリシアの時代、ヘロドトスの『歴史』にその起源が読み取れる。彼は民族の命運が地理的な環境と深く関係していることをペルシア戦争の研究から述べている。より「政治地理学」という名称を用い、体系的に政治と地理の関係について論じたのは18世紀のドイツの哲学者カントであると考えられている。この研究はドイツの経済学者フリードリッヒ・リストやドイツの歴史学者ハインリヒ・フォン・トライチュケ、ドイツの地理学者アレクサンダー・フォン・フンボルト、カール・リッターたちを経て地理学者フリードリヒ・ラッツェルによって引き継がれ、スウェーデンの政治学者ルドルフ・チェレン(Rudolf Kjellen)がさらに体系化を加えて「地政学」との名称を与え、20世紀のドイツの陸軍将校であったカール・ハウスホーファーによって国家は国力に相応の資源を得るための生存圏(レーベンスラウム)を必要とするという大陸国家系の地政学の説を唱えた。ドイツにおいてこういった理論が集中的に発展した背景については、ドイツがヨーロッパの中央部に位置し、しばしば外国との戦争によって国土を破壊され、国家の発展がしばしば頓挫した歴史が関係していると考えられる。ドイツの地政学の系譜とは別に、英国や米国で発展した英米系地政学(海洋国家系地政学)の系譜が存在しており、イギリスやアメリカが中心となって発展してきた。19世紀の米国海軍将校であったアルフレッド・セイヤー・マハンはシーパワー理論を打ちたて、イギリス地理学者のハルフォード・マッキンダーはユーラシア大陸の中央部(ハートランド)を制するものが世界を制すると主張して、イギリスの立場からロシアへの対抗を説くランドパワーの理論を構築した。後に、20世紀のアメリカの政治学者であるニコラス・スパイクマンはランドパワーとシーパワーの対立構造をすべての戦争に当てはめることは乱暴な単純化であると批判し、大陸縁辺部(リムランド)を定義した。アドルフ・ヒトラーが率いたナチス・ドイツと大日本帝国の帝国主義的な拡張政策に一定の影響を与えたと考えられている。事実、ハウスホーファーの副官であったルドルフ・ヘスがナチス党に入党しており、『わが闘争』の口述筆記を行い、後に、ナチスの副総統となっており、『わが闘争』にもハウスホーファーの理論がある程度影響していると考えられている。また、日本においても、昭和初期に、ドイツとの地理的な類似性からドイツ地政学の影響を大きく受けており、小牧実繁が『日本地政学宣言』(弘文堂書房、1940年)を著し、「大東亜共栄圏」の概念を形成し、また、岩田孝三の『国防地政学』(帝国書院、1943年)においても、その地政学理論を日本の拡張政策に結びつけるべきであるとの記述がみられる。地政学の理論が当時の政策立案に決定的な影響を与えたことを立証することはできないが、このような地政学の姿勢というものは、日本では軍国主義の理論として差別的に排斥された。特に、国際関係を地理的要因、軍事的要因のみで分析する地政学的アプローチは、経済、通商、投資関係が国際関係を説明する極めて重要な要素であることをまったく無視していることからして致命的欠陥がある。また、確かに国家は現在でも国際関係における基本的アクターではあるが、20世紀後半以降、国際機関や大規模多国籍企業を始めとして、NPOなど国際関係におけるアクターの多様化が顕著になっていったにもかかわらず、そのような変化に対応できなかった。しかも、国家内部においても利害関係は多様であり、政策決定は重層的かつ多様なものとなる。そして、かかる意思決定過程が国際関係に影響を及ぼすにもかかわらず、「一枚岩の国家」というありもしない前提を元に議論を構築しているという欠陥がある。大戦に勝利したアメリカにおいては、マハンの理論は勝者として賞賛された。1944年、ピーティ教授は北極圏を中心とした半島環状地帯、島嶼内側環状地帯、島嶼外側環状地帯に分類しようとした。また、1973年にはサウル・コーヘンが特定地域に地戦略的な同質性は存在しないとし、世界を海洋世界と大陸世界と破砕帯に大別して呼称した。1988年に、国立政策研究所のグレイ所長は東欧と中東がソ連の防壁または米国の前進基地の二面性があり、これは地戦略的な見地によると考えた。そして、冷戦期における欧州での米国の脅威は領土を巡る紛争ではなく、ソ連の軍事力が西側諸国へ与える間接的な影響であると論じた。また、核兵器の時代になると、従来のランドパワー至上主義、シーパワー至上主義に加えて、新しくエアパワー至上主義が登場することにもなった。日本では、戦後地政学が公的には議論し難い環境があり、また研究の歴史も浅いために研究の成果は限定的であるが、小牧門下の足利健亮、藤岡謙二郎、神尾明正(かんお・あきまさ)らが、小牧地政学の学統を歴史地理学や先史地理学として発展継承し、地理学と歴史学、考古学の境界領域的な研究で業績をあげた。フリードリッヒ・ラッツェルはドイツの政治地理学者である。ビスマルク時代における植民地獲得の外交政策の理論的根拠として用いられた。ラッツェルは国家を単なる国民の集合ではなく国土と国民から形成される生命体として考え、国力はその国土面積に依存し、国境は内部同一性の境界線であり、同時に、国家の成長にしたがって流動的に国境が変化するなどの前提を打ち立てて、以下のような法則性を導いた。ルドルフ・チェレンはスウェーデンのウプサラ大学での政治学者、歴史学者であり、また、地理学者でもあった。ラッツェルの理論を継承し、国家は高度な生命組織体であり、それは国土に依存していると考え、その理論をさらに発展させ、大陸国家系地政学の発展をもたらした。そして、以下のような新しい理論を展開した。ドイツ陸軍将校であり、第一次世界大戦では旅団長として従軍し、後に、ミュンヘン大学の地理学と軍事学の学部長となったカール・ハウスホーファーは、ラッツェルらの従来の大陸国家系地政学の研究を踏まえて自給自足を重視する観点から生存圏の理論を論じた。従来の地政学とは異なる点を以下に述べる。ハウスホーファーの生存圏の理論は、国家が発展するためには小国の権益を武力で奪取することも厭わず、自給自足のためには重要な経済拠点を経済的に支配するという考え方を正当化するものであると現代においては批判される。しかし、こういった政策は彼の独善的な考えではなく、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約においては戦勝国によって行われたことであった。しかし、科学としては彼がドイツ民族を常に念頭において研究を行ったために客観性を欠くところもあると考えられている。米国海軍の将校であったアルフレッド・セイヤー・マハンは『海上権力史論』などの多数の著作を残し、海洋戦略の観点からシーパワー理論を提唱した。その理論の要旨とは以下の通りである。マハンは、海洋、すなわち、海上交通路を制することの国益を、カルタゴ、スペイン、イギリスなどの海洋国家の歴史から、また、工業・商業の大規模化による重要性から非常に大きいものであると評価している。また、大陸国家は隣接する国家との生存競争が常に存在するとの前提に立ち、ゆえに、海洋に進出するための費用が大陸国家には負担できないという考えを示している。彼は、アメリカがイギリスに匹敵する強国となるために、海軍力を増強し、海上交通路を確立する必要があると主張した。この考え方は米海軍の戦略に大きな影響を与え、米国は、パナマ運河やハワイ、グアム、フィリピンなどを支配下にいれ、現代においても強大な海軍の海洋への展開によってアメリカの軍事的優位や海上交通路の確立に貢献している。ハルフォード・マッキンダーは英国の地理学者であった。マッキンダーはマハンのシーパワー理論の対称となるランドパワー理論を提唱した。地上の7割は海であるが、人間生活の基盤は地上にあるので、広大な陸地を支配している勢力をランドパワーと考え、また、世界の陸地の3分の2を占めているユーラシア大陸を「世界島」、世界島の中央部でシーパワーの影響外にある地域を「ハートランド」と名づけ、ランドパワーの中心地はハートランドを基盤に世界島へ展開されると考えた。また、ハートランドの外側に二重の半月型の地域をそれぞれ「内側のクレセント」と「クレセント」として分類し、内側のクレセントにおいてランドパワーとシーパワーが対決するという国際情勢の長期的な構図を論じた。これらの理論と当時の第一世界次大戦後という国際情勢から、ドイツという大陸国家のランドパワーのハートランドへの拡張を警戒し、「東欧を制するものはハートランドを制し、ハートランドを制するものは世界島を制し、世界島を制するものは世界を制す」という有名な言葉を第一次世界大戦後の講和会議に出席する英国の委員に対して述べた。また、第二次世界大戦においてマッキンダーは、当時の国際情勢の変化に適応して、ハートランドの範囲を一部変更して北米大陸を含めた「拡大されたハートランド」とし、世界島の外部に米国という大きなパワーの出現を考慮し、世界島を制しようとする脅威は東欧ではなくハートランドから生じるものと考え直した。米国のイェール大学で政治学の教授であったニコラス・スパイクマンは、ランドパワー理論やハートランド理論を踏まえてリムランド(ユーラシアの沿海地帯)理論を提唱した。その理論を踏まえ、彼は米国の政策に以下の提案を行っている。スパイクマンは、現代(当時は第二次世界大戦中)の船舶技術において、アメリカをとりまく大西洋も太平洋も「防波堤ではなく、逆に高速道路である」と認識しており、現代の兵器技術において、いかなる国のパワーも地球上のいかなる場所であれ、「地理的距離とは無関係に投入できる」と見抜いており、アメリカの孤立主義(モンロー主義)の不毛と危険を警告し続けた。この提言を基にして大戦後のアメリカの国家戦略が実行されており、これからのアメリカの戦略、国際情勢を予測する上で大きなヒントとする専門家もいる。従来の近世から近代にかけて研究されてきた地政学は、主に、マキャベリの現実主義的な国際関係観に立ったものであり、国際協調主義が一般化している現代においては、主観性や前時代的な性質、イデオロギー性が現れている。大陸国家系地政学(ハウスホーファーやチェレン、ラッツェルなどの地政学)は、国家の自給自足を重視し、国際関係は常に生存競争の状態にあると考え、国家を一個の生命体とみなして発展し続ける必要性があると定義し、そのためには拡張政策をも正当化する。ゆえに、ナチスにより政策の理論的支柱として利用されたとの批判が強い。また、地政学に対する立場が政治的な立場が強く影響するために、その客観性には常に疑問が持たれるとの根本的な懐疑もある。しかし、ドイツで生まれた大陸国家系地政の発展の過程にもドイツの歴史的背景が深く関わっている。ドイツ国土を破壊した三十年戦争、北方戦争といったドイツ国土を蹂躙した戦争の歴史、また、三度にわたる分割による隣国ポーランド王国滅亡の悲劇、ナポレオン戦争の勃発など、ドイツの陸上の国境線が長く、欧州列強と隣接しており、外国軍による国土の破壊を何度も経験してきた歴史がドイツの地政学の発展をもたらし、大陸国家系地政学を排他的、拡張主義的な性格を持つように育てていったことは注目すべき点であり、第二次世界大戦の侵略正当化の道具として構築された理論としてのみ見ることは側面的な視点である。また、実証性が薄く、非常に観察者の主観性が強いことを批判されることもある(ただし、これは社会科学全般にいえる)。地政学という学問が、その基礎的な理論が確立され、長期間にわたる総合的な研究がまだ行われていない未熟な学問であることも注目すべき点である。また、地政学が体系化される以前から地理的な条件と政治の関係性がある程度認められることは古代から近代にかけての歴史的な事実である。人間の営みと地理との間に深い関係性が存在することは否定しがたい事実であり、世界各地には生存適地と資源地域が局地的・不平等に存在しており、それに関連して、人口密度も国家発展の度合いも一律ではない。人間の適応能力は限定的であるため、地域の特性は人間の行動への影響には一定の法則性が存在することは歴史をみても明らかである。近年は人口増が急速に地球規模で進み、各国の経済発展によるエネルギー需要が増加し、また、国際関係は様々な問題に直面しつつある。人文地理学の一分野である政治地理学(political geography)との関係はとても深く、取り扱うテーマも20世紀前半まではほぼ同一視されていた。現代においても地政学と政治地理学とを厳密に区別する人と、曖昧に扱う人がいる。しかし、歴史の項でもみるとおり、政治地理学はイデオロギー的な内容でタブーに近いものとして、第二次世界大戦後は日本やドイツなどの敗戦国のイデオロギー色の強い高等教育機関の学者の間で公的には議論し難い環境があったが、地理学者らが中心となり地道な努力により、政党などの政治集団や自治行政といった政治色のない分野の計量的な分析を取り入れたり、社会や経済などの概念も取り入れたりし、地政学からは距離を置いて独自の道を歩もうとする傾向がある。しかし、マクロな視点では地政学とは不可分な関係でもある。政治地理学は現在では再び人文地理学の重要な一分野として認知されているが、地政学と政治地理学との明確な境界線を引くことは難しいのが現状である。
出典:wikipedia
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