千葉ロッテマリーンズ(ちばロッテマリーンズ、)は、日本のプロ野球球団。パシフィック・リーグに所属している。千葉県を保護地域とし、同県千葉市美浜区にあるQVCマリンフィールドを専用球場(本拠地)としている。また、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は埼玉県さいたま市南区にあるロッテ浦和球場である。1949年9月、毎日新聞社を親会社とする毎日球団が設立され、「毎日オリオンズ(まいにちオリオンズ)」が結成された。毎日新聞社はもともと昭和初期にセミプロ野球チーム『大阪毎日野球団』を組織していた。戦後、正力松太郎からの勧誘を契機に球団結成の気運が高まり、戦前の大阪毎日野球団を基礎に、自ら主催する都市対抗野球の有力選手をスカウトして球団を結成。9月21日、日本野球連盟に加盟を申請。リーグ拡大の機運にも乗って加盟を申請したが、毎日新聞のライバル会社であった読売新聞社(読売ジャイアンツの親会社)・中部日本新聞社(中日ドラゴンズの親会社)が強く反発。交渉は平行線を辿り、毎日オリオンズと電鉄系を中心とした毎日オリオンズ加盟賛成派の阪急ブレーブス・南海ホークス・東急フライヤーズ・大映スターズ・西鉄クリッパース・近鉄パールスの7球団からなる太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)と毎日オリオンズ加盟反対派の大阪タイガース・読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズ・松竹ロビンス・大洋ホエールズ・広島カープ・西日本パイレーツ・国鉄スワローズの8球団からなるセントラル野球連盟(セントラル・リーグ)が結成される「2リーグ分立騒動」に発展した。この騒動の中、大阪タイガースの主力選手であった若林忠志・別当薫・土井垣武・本堂保次・呉昌征が毎日に移籍した。加盟賛成を表明しながらリーグ分立直前に態度を翻した大阪に対し、毎日が意趣返しに大量の選手引き抜きを行ったといわれた。1950年のパ・リーグ公式戦開始より参入。本拠地は後楽園球場。毎日新聞東京本社運動部長で、戦前は明治大学のエースから前述の大毎野球団の一員となった湯浅禎夫を総監督、前大阪監督の若林忠志を監督(選手兼任)とする二頭制をとり(実質的には湯浅が監督権限を掌握し、記録上の監督も湯浅である)、大阪からの移籍組に、大洋漁業(後の大洋ホエールズ)から獲得した河内卓司・戸倉勝城を加えて「ミサイル打線」を形成、投手では前年の都市対抗野球を制した別府星野組のエース荒巻淳や、大洋から獲得した野村武史が活躍。10月25日、対東急戦に勝利して、活動1年目にしてリーグ優勝、日本シリーズでも松竹ロビンスを4勝2敗で圧倒し、初の日本シリーズで優勝を達成した。打者では別当薫が本塁打、打点王の二冠王を獲得し最優秀選手となり、投手では荒巻淳が最多勝、最優秀防御率の二冠王で新人王となっている。1951年は首位南海と22.5ゲーム差のリーグ3位に終わる。1952年7月16日、福岡・平和台野球場での対西鉄ライオンズ戦で、雨天と日没を悪用し故意に試合をノーゲームにするという毎日側の策略に観客が激怒し暴動が発生(平和台事件)。7月27日、責任を取り総監督の湯浅、監督の若林が2人とも更迭される。この年は南海と争うものの2位に終わる。シーズン終了後に若林、湯浅がそれぞれ復帰。1953年、西宮球場での対阪急戦が、NHKによるプロ野球初のテレビ中継となる。1954年チームは3位に終わる。オフには別当薫が選手兼任で監督就任。1955年、榎本喜八が入団初年度から新人王を獲得する活躍を見せる。チームは3位に終わる。1956年は4位に終わる。1957年、シーズン成績は3位に終わる。11月28日、成績が低迷していた大映ユニオンズ(大映野球)と対等合併し「毎日大映オリオンズ(まいにちだいえいオリオンズ)」に改称。略称は「大毎オリオンズ(だいまいオリオンズ)」。新会社「毎日大映球団」が設立。大映社長の永田雅一がオーナーに就任。毎日オリオンズ時代のユニフォームはホーム用がニューヨーク・ヤンキースタイプで、ビジター用がロサンゼルス・ドジャースタイプだった。1950年の優勝以後、西鉄と南海に水をあけられていた。1950年代後半には、西日本に本拠を置く両チームがリーグの覇権を握り、関東の球団で集客を期待されたオリオンズが優勝できないことがパ・リーグの不人気の原因であるとする指摘が複数なされるほどだった。1958年、大毎の初年度は4位となり、オフには、この年セ・リーグの首位打者となった田宮謙次郎がA級10年選手の権利で阪神より移籍する。翌1959年は、優勝した南海と6ゲーム差の2位に浮上。1960年、西本幸雄が監督に就任。新監督のもと榎本喜八、山内和弘、田宮謙次郎らを擁す破壊力抜群の「ミサイル打線」で10年ぶり2回目のリーグ優勝。結果的に2位の南海と4ゲーム差の僅差だった。しかし、大洋ホエールズとの日本シリーズでは、4連敗で敗退。その時のバント戦法が永田オーナーの逆鱗に触れ、西本は1年で解任される。その後はBクラスに甘んじた(1961年・4位→1962年・阪急と同率の4位→1963年・5位)。1960年をもって毎日新聞社は球団から役員を全員引き上げ、経営から事実上撤退。永田が球団経営を掌握する事になる。パシフィック・リーグ誕生時には、毎日新聞は「リーグの広報」役を期待されていた。毎日の撤退は、その戦略が潰えたことを意味した。毎日新聞社史『毎日新聞百年史』(1972年)ではオリオンズについての記述が著しく少ないという指摘がある。1962年より本拠地は永田が私財を投じて荒川区南千住に建設した専用球場・東京球場に移転。1964年、球団名を「東京オリオンズ(とうきょうオリオンズ)」に改称。現在で言うところの地域密着策というわけではなく、東京都を保護地域とする他球団が「東京」を名乗っていないことに永田が目を付け「東京を本拠地とする球団の中でも、“東京”を名乗る我がオリオンズこそが、東京を代表するチームである」と発案したのがきっかけだった(チーム名に「東京」を冠した球団は当時歴代通算4球団目。この他、ヤクルトが2006年から東京ヤクルトスワローズに改称している)。だが、この改称は毎日新聞社側への根回しがないまま行われたため、毎日側が不快感を示した挙句、毎日新聞社の資本も翌1965年1月に引き上げ、なおかつ後援も1966年度シーズンをもって打ち切っている。これによって球団は完全に永田が掌握することになったが、会社名は「毎日大映球団」を維持した。優勝した翌1961年以降、チームは7年連続Bクラスと低迷する。原因として、主砲の山内一弘や、葛城隆雄といった主力選手をトレードで放出し、田宮謙次郎が引退するなど、それまでのミサイル打線を解体して守りの野球を作ろうとしたが、本拠地がそれまでの後楽園球場より狭い東京球場に移った事で、方針としては逆行しているという指摘が多くあったとされ、1964年から1967年にかけてはチーム本塁打より被本塁打の方が多いという状況で、1968年にジョージ・アルトマン、アルト・ロペスなどを獲得してようやくこの数字を逆転し、チームも8年ぶりのAクラス、3位入りしている。1969年1月18日、永田は友人である岸信介の斡旋により、ロッテをスポンサーに迎えて業務提携を結び、球団名を「ロッテオリオンズ」に改称。ただ、正式な球団買収ではないので球団の経営は従来通り毎日大映球団(=永田側)が行って、ロッテは球団名の冠スポンサー(現在に置き換えれば命名権の制度に近い)を取得する形としてとどまった。このため、ロッテ本社からの人材の派遣は行われなかった。1970年、10年ぶり3回目のリーグ優勝。東京球場での優勝決定時には、観客が次々とグラウンドになだれ込み、そのまま真っ先に永田を胴上げした。しかし、初の同一都道府県内のみでの開催となった日本シリーズ(東京シリーズ)は巨人に1勝4敗で敗れる。1971年1月25日をもって永田は球団経営から撤退。ロッテが正式に球団を買収して親会社となり、会社名も球団名と同じ「ロッテオリオンズ」になる。以来40年以上にわたりロッテは球団を保有し続けているが、これはパ・リーグに現存する6球団では最長である。1971年7月13日西宮での対阪急戦で江藤愼一のハーフスイングの判定をめぐり濃人渉監督が猛抗議、放棄試合を宣告される。10日後、その責任を取る形で濃人が監督を解任され2軍監督に降格、後任に大沢啓二二軍監督が就任。この年は、優勝した阪急と3.5ゲーム差の2位。39本塁打したジョージ・アルトマンなどチーム193本塁打は1963年の南海が記録した183本を抜いて日本プロ野球記録となった。翌1972年は、一転Bクラスの5位に転落。本拠地・東京スタジアムは永田と共通の友人である児玉誉士夫の斡旋で国際興業社主の小佐野賢治が経営を引き継いだが、小佐野は経営不振を理由に単独企業での球場経営の継続は困難であると判断。球団と球場は一体であることが望ましいと考え、ロッテに対し球場の買い取りを要求。しかしながら、ロッテ側は費用対効果の面で難色を示し、賃借継続を要請して交渉は平行線を辿る。結局、1972年シーズンオフに監督に就任した金田正一が「あそこは両翼の膨らみが無くて本塁打が入りやすい。投手泣かせの球場を買い取る必要はない」と猛烈に反対したことなどから交渉は決裂。東京球場は閉鎖され、ロッテは本拠地球場を失った。1973年から宮城県仙台市の県営宮城球場(現:楽天koboスタジアム宮城=東北楽天ゴールデンイーグルス本拠地)を中心に(1974年から保護地域も宮城県に暫定移転)、首都圏では後楽園球場、明治神宮野球場、川崎球場を転々としつつ主催試合を行った。特定の本拠地を持たない状況は1977年まで続き、この5年間は「ジプシー球団」などと揶揄された(歴代本拠地参照)。同じ年、日拓ホームフライヤーズから合併を持ちかけられるもこれを拒否。このためフライヤーズは日本ハムに売却されることになった(現:北海道日本ハムファイターズ)。また、1971年からオーナーを務めた中村長芳が西鉄ライオンズ(→太平洋クラブライオンズ)の経営に参画・福岡野球株式会社を設立するため、プロ野球協約の一個人・団体(企業)による複数球団保有を禁じる規定に従い、中村が保有していた株式はロッテに譲渡された。この年からパ・リーグは前後期制度を導入。成績は前後期ともに2位で総合では3位に終わる。1974年に金田監督の下で有藤通世、山崎裕之、弘田澄男、投手では成田文男、村田兆治、木樽正明らが活躍して後期優勝。プレーオフでは、前期優勝の阪急ブレーブスを3連勝で破りリーグ優勝。中日との日本シリーズでは4勝2敗で日本一になった。この時の日本シリーズの主催3試合は施設上の問題から仙台ではなく後楽園で行われた(この年と1977年度のパシフィック・リーグのプレーオフは宮城で開催されたが、1977年の日本シリーズにロッテが進出していた場合も、ロッテ主催試合は後楽園で行われることになっていた)。また日本一を決定した後の凱旋パレードも、東京・銀座から新宿にかけて行われたのみで仙台では行われず、これらの行為は仙台市民や一部のスポーツ新聞から「地元無視」と批判されたこともあった。1975年、前年の優勝から一転して前期最下位。後期は2位に浮上するも総合4位に終わる。1976年は前後期ともに3位で総合でも3位に終わる。1977年、前期は5位に終わるも後期は優勝。プレーオフでは前期優勝の阪急と対戦。最終戦までもつれ込んだが3勝2敗で敗退。総合3位に終わる。1977年、神奈川県横浜市で横浜スタジアムの建設が始まったのに伴い、すでに横浜への移転が内定していた大洋と共に本拠地として使えるよう折衝を行ったものの、横浜使用については折衝に失敗。その後川崎市から誘致を受け、翌シーズンから川崎球場への本拠地移転が決定。10月4日に保護地域を神奈川県に移転することが承認された。1978年から正式に川崎球場を本拠地として使用(なお、県営宮城球場でも引き続き年間10試合前後の主催公式戦を開催)している。移転1年目は、総合4位に終わる。1979年、山内一弘が監督に就任。就任1年目は、総合4位に終わるも、1980年には山内の下、レロン・リー、レオン・リーのリー兄弟、投手陣では仁科時成、水谷則博、倉持明が活躍し前期優勝したが、プレーオフで後期優勝の近鉄に3連敗で敗退した。翌1981年はエース村田の大活躍もあり2年連続前期優勝。プレーオフで後期優勝の日本ハムと対戦、1勝3敗1分で2年連続プレーオフ敗退。1982年、山本一義が監督就任。しかし1982年は5位、翌1983年は球団史上初の最下位となり、山本は同年限りで解任。翌1984年から稲尾和久が監督就任。なお、稲尾は「埼玉県所沢市に移転したライオンズに替わり、ロッテを数年以内に福岡県に移転させる」という条件で監督要請を受諾したが、移転は行われることなく1986年限りで退任。1982年以降は投手陣が振るわず、チームが低迷する。特に1985年は落合博満の三冠王以外にも西村徳文、レロン・リー、新人の横田真之が打率3割をマークしてチーム打率1位になったものの、投手陣は肘の手術から復帰した村田が活躍したのみにとどまった。マスコミからは広岡率いる西武の管理野球に対し稲尾の「無手勝流野球」と賞賛され、1984年と翌1985年は2年連続で勝率2位を確保したものの、1985年はリーグ優勝した西武から15ゲームも離された。1986年は、一転Bクラスの4位に終わる。1985年と1986年には落合が2年連続で打撃部門三冠王を達成している。1987年、有藤道世が監督就任。「稲尾さんのいないロッテに自分はいる必要がない」と発言した落合博満を牛島和彦・上川誠二・平沼定晴・桑田茂の4選手との1対4トレードで中日に放出。落合の著書によると有藤が「監督を引き受ける条件の一つに私(落合)をトレードで出すのが条件」と記している。また、同年には女性向けのフリーペーパー「URE・P(ウレピー)」を発行。URE・Pはロッテリアなどで入手でき、本拠地を千葉に移転するまで発行された。これにより観客動員数が10万人ほど増えたという。なおこの年は、やはり落合の抜けた打線は迫力に欠け、トレードで獲得した牛島は期待通りの活躍はするも、首位の西武と20ゲーム差の5位に終わる。1988年、この年は最下位だったが、10月19日の近鉄とのダブルヘッダーがパ・リーグの優勝のかかった大一番となり注目を浴びた(詳細は10.19参照)。1989年、二軍の本拠地が東京都青梅市の青梅球場から埼玉県浦和市(現:さいたま市)のロッテ浦和球場に移転。5月13日の対日本ハム戦に勝利し、村田兆治が通算200勝を達成。1989年も最下位で球団初の2年連続最下位に終わり、有藤が監督を退任。後任には、金田正一が2度目の監督就任。しかし、チーム成績は1990年は5位、1991年は首位の西武と33.5ゲーム差の最下位。1991年に内外野全面への人工芝敷設、スコアボードの電光化など川崎球場の改修工事を実施。「テレビじゃ見れない川崎劇場」をうたい文句にファン拡大作戦を実施した(同年の新語・流行語大賞表現部門で「川崎劇場」が金賞に選ばれた)。この年、観客動員は102万1千人で、球団史上初めて100万人を突破、当時の既存12球団では最後の達成となった。球団成績は低迷していたが、毎年タイトルホルダーが現れた。1984年には石川賢が最高勝率、西村が1986年から4年連続で盗塁王、1990年には首位打者になり、1987年は落合とのトレードで中日から移籍してきた牛島和彦が最優秀救援投手(1988年にもセーブ王に輝く)、1988年は高沢秀昭が首位打者・小川博が奪三振王、1989年は村田が防御率1位、1991年は平井光親が首位打者を獲得。1991年9月4日、翌1992年から保護地域を川崎から千葉県、専用球場を同県千葉市美浜区の千葉マリンスタジアムに移転する事がオーナー会議によって承認、発表された。移転に伴う新しい球団名は一般公募により改称される事になり、同年11月21日、新しい球団名は「千葉ロッテマリーンズ(英語で海兵隊)」に決定した。この年のオフ、金田が監督を解任された。後任に球団OBの八木沢荘六が就任。本拠地移転や球団名変更に伴い、ユニフォーム・球団旗・ペットマーク・マスコットを一新。1992年、本来開幕権はオリックスブルーウェーブが持っていたが、オリックスから開幕権を譲渡され、新生千葉ロッテは本拠地で開幕を迎えた。4月は首位で終えたが、その後は失速、千葉移転初年度は昨年続き最下位に沈んだ。それでも移転景気に恵まれ、観客動員が130万人を記録するなど順調な滑り出しを思わせた。しかし1993年も5位に終わると移転景気も潰え、観客動員も93万人に激減。千葉県民の目も徐々に冷ややかになっていった。こうして、川崎時代から続く「12球団最低レベルの観客動員数」という大きな問題点には千葉移転後も苛まれることとなる。この年のオフ、当時パ・リーグ会長だった原野和夫はロッテのチーム力の低下と観客動員数の低迷を強く懸念。重光オーナー代行に対し「もっと努力してほしい」と注意を行った。1993年は5位に終わる。1994年、開幕当初よりチームは低迷し、八木沢は8月1日をもって休養。その後は、中西太が代理監督を務め、5位に終わる。1995年、日本球界初のGM(ゼネラルマネージャー)として広岡達朗が就任すると、広岡はメジャーリーグでの監督経験のあるボビー・バレンタイン監督を招聘。序盤は出遅れるが、2年目ながらトップバッターに起用された諸積兼司、リーグ打率2位の堀幸一、打点王を獲得した初芝清、外国人ながら本人のプレイだけではなくチームの精神的支柱も担ったフリオ・フランコ、伊良部秀輝、小宮山悟、エリック・ヒルマンの先発三本柱、河本育之、成本年秀のダブルストッパー等投打のかみ合った1年となり、結果的に貯金10の2位で10年ぶりのAクラス入りを果たす。翌年の優勝を期待するムードが大きく高まったが、バレンタインが広岡との確執から解任される。1996年、バレンタインの後任にはコーチとして入閣していた江尻亮が昇格したものの広岡の大学の後輩ということで「広岡の傀儡政権」と陰口を叩かれる。またチームも投手は伊良部が最優秀防御率・ヒルマンが防御率2位・成本が最優秀救援投手を獲得、河本も前年同様の働きをしたがそれ以外が計算出来なかった。野手は外国人が活躍出来ずに、初芝もマークが厳しくなり勝負強さが発揮できず、堀が孤軍奮闘するが焼け石に水で結局5位に沈み、広岡は契約を一年残して解任され、江尻もこの年限りで辞任。伊良部が球団と衝突し半ば強引な形で大リーグ・ニューヨーク・ヤンキースに移籍。ヒルマンも巨人へ移籍。1997年、藤田元司がロッテのフロントから「立て直し役に最適な人はいないか」と相談された近藤昭仁(89年から3年間巨人の監督だった藤田の下でヘッドコーチ)を推薦し、近藤が監督に就任。伊良部・ヒルマンの抜けた穴は大きく、去年不振だった小宮山が奮闘し最優秀防御率を獲得、黒木知宏が初の二桁勝利、薮田安彦が初の規定投球回数をクリアしたが、ストッパー成本が大怪我でリタイア。野手では新人の小坂誠が新人王に輝き、投手から打者に転向した福浦和也が台頭したが、外国人は長打不足、初芝・堀も不振。また、前年まで多くのマスクを被っていた定詰雅彦・田村藤夫が相次いで移籍し、ドラフトで大学ナンバーワンと評価された清水将海が開幕戦でスタメンマスクに抜擢されたがプロの壁は厚く苦戦を強いられた。結局投打に渡り駒不足で最下位に終わる。1998年、フリオ・フランコが3年ぶりにチームに復帰。ストッパーの河本が離脱しリリーフ陣が崩壊。日本プロ野球ワースト新記録となる18連敗(途中1引き分けを挟む)を喫した(詳細は後述)。ロッテはこの18連敗の間、シーズン通算23勝43敗1分、勝率.358まで戦績を落として最下位へ転落し、借金は一気に20まで膨れ上がった。全18敗のうち逆転敗戦は9、サヨナラ敗戦は4であった。連敗脱出後はリリーフとして新外国人のブライアン・ウォーレンが加入、河本も戦線復帰でブルペンが強化されチームは復調し、シーズン最終成績は61勝71敗3分、勝率.462。借金10まで盛り返したものの最下位からは脱することができず、結果的にこの18連敗が大きな痛手となった。また、総得失点差でプラス(チーム打率もリーグトップ.271。チーム防御率リーグ2位3.70)でありながら最下位となった。近藤は、シーズン終了後の監督退任会見では「今度やるときはもっと強いチームでやりたい」と発言した。1999年、山本功児が二軍監督から一軍監督へ昇格し、投手陣の充実、新人獲得の地元出身者偏重の解消などチームの構造改革に取り組むも、球団の資金難や貧打線、黒木知宏頼みの投手陣(2001年まで)を克服できず定位置のBクラスからは抜け出せなかった(その黒木が故障離脱した2002年は開幕11連敗とまたしても大型連敗を経験した)。この年のオフにそれまでチームを支えていた小宮山がFA権を行使する意向を球団に伝えた結果、自由契約となった。しかし、この時期にドラフトで獲得した清水直行、渡辺俊介、今江敏晃、西岡剛らは二軍生活を経て後のAクラス入り、日本一に大きく貢献している。2002年オフには2000年限りで横浜ベイスターズを退団したロバート・ローズを獲得するが、翌2003年の春季キャンプ中に、野球に対する情熱がなくなったため退団している。2002年と2003年は特に秋に好成績を収めており、両年とも8月末まで5位に低迷していたのが9月から一気に調子を上げ、日本ハムをかわし4位に浮上している。2003年オフ、韓国・三星ライオンズから李承燁を獲得。山本は5年間監督を務めたがすべてBクラスに終わり、2003年に解任された。バレンタインが「全権監督」として復帰。サンデーユニフォーム(白地に黒のダンダラ模様を入れた上着を着用。パンツは通常のストライプ)を採用。4位で迎えたシーズン最終戦はプレーオフ進出をかけ西武と対戦。3者連続ホームランで逆転し、西武に勝利するも、3位だった日本ハムも勝利したため、0.5ゲーム差で4位が確定。プレーオフ進出を逃した。しかし、シーズン全体では勝率5割を記録した。今江敏晃、西岡剛の台頭もあり好スタートを切る。上位から下位までどこからでも点を取る打線は、1998年の横浜ベイスターズの「マシンガン打線」になぞらえて「マリンガン打線」と呼ばれ、4番にサブローを起用する打線が機能する。サブローはまったく新しいタイプの4番打者としてチームに貢献した。3月26日の千葉マリンでの開幕戦では、新球団東北楽天ゴールデンイーグルスと対戦し3-1で敗れ、楽天の公式戦初試合初勝利を献上したが、翌日には2リーグ制以降最多得点差となる26-0で楽天に圧勝している。この年から導入されたセ・パ交流戦では24勝11敗で優勝。「セ・パ交流戦初代チャンピオン」となる。8月17日の対埼玉西武ライオンズ戦に勝ち、10年ぶりの勝ち越しを決めると同時に、34年ぶりの貯金30を達成。8月28日の対オリックス戦で勝利し、プレーオフ進出と10年ぶりのAクラスを確定。9月19日、34年ぶりの80勝を達成し(最終的には84勝)、シーズンを2位で終えた。プレーオフ第1ステージで西武、第2ステージで福岡ソフトバンクホークスを破り31年ぶりのリーグ優勝を果たした。10月22日からの日本シリーズでは阪神を4連勝で下し、31年ぶり3度目の日本一に輝く。11月10日から東京ドームで行われた第一回アジアシリーズに出場。決勝で韓国の三星ライオンズを5-3で下して勝利し優勝している。二軍ではファーム日本選手権で阪神を下し優勝しており、この年は一軍・二軍合計で年間6冠を達成している。11月20日に千葉市中心部と幕張地区の2カ所で行われた優勝パレードでは合計27万人を動員し、同年の阪神の来場者数・18万人を上回る盛り上がりを見せた。この年のボビー政権は、変則的に打線が入れ替わる日替わり打線などを駆使していた。また、その采配がしばしば成功するので、ボビーマジックと言われた。この年、渡辺俊介(15勝)、小林宏之(12勝)、ダン・セラフィニ(11勝)、清水直行(10勝)、久保康友(10勝)、小野晋吾(10勝)が2ケタ勝利を挙げた。また久保の新人10勝の記録は毎日時代の1950年の荒巻淳(26勝)・榎原好(16勝)以来球団史上3人目のことだが、荒巻と榎原は左投手なので、右投げの新人投手が2ケタ勝利を挙げたのは球団史上初である。小坂誠と李承燁が巨人へ金銭トレードされ、セラフィニがオリックスへ移籍。交流戦は2年連続となる優勝となったが、夏場以降は急失速し、最終的にシーズンを4位で終えている。オフには、福岡ソフトバンクホークスを退団したフリオ・ズレータを獲得。3月24日の開幕戦(千葉マリンの対北海道日本ハムファイターズ戦)が降雨コールドで引き分け。翌日も延長12回で引き分け。投手陣は、中継ぎ陣が藤田宗一の防御率10点台を超える乱調や、小林雅英の度重なる救援失敗により、事実上YFKは崩壊したが、38HPで最優秀中継ぎ投手賞を獲得した薮田安彦が、シーズン終盤に抑えに回り、2年目の川崎雄介と新人の荻野忠寛が活躍し、強固な中継ぎを維持できた。先発陣はエース清水直行が6勝どまりだったものの、渡辺俊介が不振から脱却し、援護が無いものの安定した防御率を残し、小林宏之が自己最多の13勝。そして成瀬善久が16勝1敗、防御率1.817で、最優秀防御率と最優秀投手の2冠を獲得する大活躍を見せた。この3人が柱となり、前年を上回る成績を残した。一方野手陣は福浦和也、今江敏晃、フリオ・ズレータの故障による離脱・不振などでシーズン通して安定した攻撃力を維持できず、早川大輔の台頭もあり得点はリーグトップだったが、首位日本ハムとは2ゲーム差の2位に終わった。クライマックスシリーズ1stステージではソフトバンクを2勝1敗で勝利したが、2ndステージでは日本ハムに2勝3敗で敗退した。先発投手陣が揃って不調に陥り、さらに開幕直後に捕手の里崎智也・橋本将・田中雅彦が同時期に故障し、前半戦は一時期最下位に沈んだ。後半戦は不調の先発陣をリリーフ陣が支え、打撃陣がチームを牽引し勝率を5割以上としたが、首位西武と4.5ゲーム、3位の日本ハムと0.5ゲーム差の4位となっている。チーム防御率はリーグ最低となった。野手陣に故障者が多く、復活を期待されていたズレータの不振や今江の骨折による長期離脱なども重なり、チーム打率は前年より上昇したものの打撃力は安定しなかった。投打がうまくかみ合わず、大量得点しても大量失点してしまうという試合が多かった。12月21日、球団はバレンタインと5年目以後の監督契約は結ばず、4年目の2009年シーズン限りとする旨を発表。ロッテが東京オリオンズのスポンサーとなって40周年を記念したマークを導入。5月21日、淑徳大学とパートナーシップ包括協定を締結。シーズン中に、バレンタインの監督退任騒動が浮上。その影響もあってチームは低調な成績に終わり、2年連続Bクラスの5位でシーズンを終了。バレンタインの後任にはヘッドコーチの西村徳文が監督に昇格。韓国・ハンファ・イーグルスからFA宣言した金泰均を獲得。序盤はルーキー荻野貴司や金泰均らの活躍で快調なスタートを切ったものの、荻野貴と唐川侑己の長期離脱など相次ぐ主力の故障や夏場の金泰均の打撃不振などが続き、交流戦以降は徐々に調子を落としたが、上位5チームによるAクラス争いの中で終盤まで首位戦線に食い込み、首位ソフトバンクと2位西武からは2.5ゲーム差、4位の日本ハムと0.5ゲーム差の3位でシーズンを終えた。クライマックスシリーズのファーストステージでは、西武に2連勝。ファイナルステージでは、ソフトバンクに王手をかけられながらその後、3連勝で4勝3敗で連破し、クライマックスシリーズを制覇。通期での勝率3位から日本シリーズに進出したのは、前後期制時代の1973年南海ホークス以来37年ぶりとなった。日本シリーズでセリーグ優勝の中日を4勝2敗1分で下し、5年ぶり4度目の、日本一となり、パリーグ初のリーグ優勝せずに日本シリーズを制した球団となった。3位からの日本一は史上初めてである。11月13日、日韓クラブチャンピオンシップではSKワイバーンズを3-0で降して日韓王者に輝いた。12月27日、本拠地の千葉マリンスタジアムがテレビショッピング専門チャンネル・QVCジャパンによる命名権導入に伴い、名称を「QVCマリンフィールド」に改めることを発表した。オフには小林宏之が阪神へ、西岡が大リーグ・ミネソタ・ツインズへそれぞれFA移籍している。3月11日に発生した東日本大震災では、本拠地・QVCマリンフィールドに目立った外傷はなかったが周辺が液状化現象を起こすなどあり、この年のQVCでのオープン戦はすべて中止となっている。また開幕が当初予定の3月25日から4月11日に延期となったことから、開幕戦はQVCでの楽天戦となり、6対4で敗れ開幕戦は6年連続敗戦となった。5月19日の対中日戦(QVC)の敗戦で勝率5割として以降は借金生活となり、6月8日の対阪神戦(QVC)の敗戦で最下位に転落。交流戦は8勝14敗2分の10位。6月29日にはサブローが工藤隆人プラス金銭で巨人にトレードされる。前半戦は借金1の3位で折り返す。しかし後半戦に入ると連敗するなど、最下位を独走してしまい、9月7日の対西武戦(西武ドーム)に勝利し球団通算4000勝達成するが、終盤戦に入っても低迷は続き、9月29日には9年ぶりの11連敗を記録、翌日対日本ハム戦(QVC)に勝利連敗を止めるものの、この日3位オリックスが勝利してBクラスが確定、10月9日の対楽天戦(Kスタ宮城)に敗れたことで最下位が確定。前年日本一のチームが最下位になるのは日本プロ野球3度目、パ・リーグでは初めて。最終的には54勝79敗11分、首位ソフトバンクと33.5ゲーム、3位西武と13ゲーム差、5位楽天と10ゲーム差。得点は球団史上最低記録となる432、チーム本塁打は46本で球団史上最少、50本以下だったのは1959年の近鉄以来。2桁本塁打の選手がいなかったのは球団史上初。この年の本塁打王の西武中村剛也の48本を下回り、1959年の近鉄以来の記録となった。金泰均が打撃不振や怪我がありシーズン途中9月に帰国、退団している。12月23日、この年6月に巨人に移籍したサブローがFA移籍で半年でロッテに復帰。開幕戦から1952年以来の60年ぶりの4連勝をするなど、序盤から首位争いをし5月11日に対ソフトバンク戦(QVC)に6対4で勝利し首位浮上。交流戦は12勝7敗5分で3位。前半戦を42年ぶりの首位で折り返した。しかし後半戦は7月31日の対日本ハム戦(QVC)に5対3に敗れ、2カ月半ぶりに首位陥落し。8月31日からは途中球団ワースト記録となる6試合連続1得点以下もあり、9連敗するなど順位を落とし、ソフトバンク、楽天とクライマックスシリーズ進出を争うが、10月3日に対オリックス戦(京セラD)に2対1で敗れたことで2年連続のBクラスが確定し、最終的に62勝67敗、優勝した日本ハムから10ゲーム、3位ソフトバンクと3.5ゲーム差の5位に終わる。角中勝也が首位打者を獲得、独立リーグ出身の打者としては初めてとなった。二軍はイースタンリーグ優勝、ファーム日本選手権でもソフトバンクを3対1で下し2年ぶり3度目の日本一になっている。益田直也が中継ぎとしてリーグ2位、新人最多記録の72試合に登板し、新人記録となる41ホールド、43ホールドポイントを挙げ最優秀新人賞を獲得。10月8日、西村が監督退任、10月15日にはヘッドコーチの高橋慶彦ら8コーチも退団。10月18日、監督に伊東勤が就任。5月9日に7年ぶりの8連勝で首位に立ち、交流戦は13勝10敗1分の5位に終わった。7月3日に2位の楽天に敗れ、首位に並ばれると6日には4連敗で2位に、前半戦を2位で折り返した。9月26日の対日本ハム戦(札幌ドーム)に5対6で敗れ、楽天が対西武戦(西武ドーム)に4対3で勝利したことで楽天の優勝が決まり優勝を逃すが、10月4日にソフトバンクが対日本ハム戦(札幌ドーム)に4対5で敗れたため、この日試合のなかったロッテの3年ぶりのクライマックスシリーズ進出が決定した。10月8日に西武ドームでの西武とのシーズン最終戦は共に勝った方が2位確定となったが敗れて3位となった。クライマックスシリーズファーストステージ(西武ドーム)は西武に2勝1敗で勝利したが、ファイナルステージ(Kスタ宮城)は楽天に1勝4敗で敗れて敗退した。オフに西武のエース、涌井秀章をFAで獲得した。開幕から5連敗を喫し、チームは5月のルイス・クルーズから始まり6月の荻野、7月のブラゼルと主力選手の怪我による離脱、成瀬・涌井・唐川といった主力の投手の不調などが響き、思うように順位を延ばすことができず、夏には最下位争いを繰り広げる羽目になった。シーズン途中にキューバ出身でメキシカンリーグの大砲・アルフレド・デスパイネを獲得、9月25日の対日本ハム戦(QVC)に敗れ、Bクラスが確定しロッテのクライマックスシリーズ進出の可能性がなくなった。最終結果は4位に終わった。里崎智也が現役を引退し、成瀬がFA権を行使してヤクルトに移籍した。チームは開幕当初はAクラスの2位・3位に立つこともあったが4月中盤には徐々に脱落し、それ以降はソフトバンク・日本ハム・西武の3強の後塵を拝する状態が続いた。交流戦では一時は首位に立つも最終結果は10勝8敗の5位に終わった。7月13日、この日のオリックス戦に敗れ6連敗となりロッテの自力優勝の可能性が消滅した。その後、連敗を7で止めるも前半戦を4位で終えた。7月9日にデスパイネが母国・キューバの大会に出場するため離日するのを球団が発表、7月30日に独立リーグのベク・チャスンを獲得した。後半戦から終盤戦にかけては西武との激しい3位争いを繰り広げ、特に終盤はCS進出をかけて争うこととなった。10月2日の対日本ハム戦(札幌ドーム)に勝利したことにより、西武に代わって3位に浮上した。そして10月4日の対日本ハム戦(QVC)に5-3で勝利し3位が確定され、2年ぶりのCS進出が決定した。クライマックスシリーズのファーストステージはシーズン2位の日本ハムと対戦し、2勝1敗でファイナルステージ進出を決めた。ファイナルステージではレギュラーシーズン1位のソフトバンクと対戦し、ファイナルステージでは3度目の組み合わせで過去2回はいずれもロッテが勝利しており、しかもそれが5年周期であったことから「下克上」・「ゴールデンイヤー」と銘打ったものの、3連敗(アドバンテージ分除く)で敗退となった。オフに今江がFAで楽天に、クルーズも巨人に移籍した。一方でソフトバンクからジェイソン・スタンリッジを獲得した。2月21日、新外国人のヤマイコ・ナバーロが銃弾を隠し持っていたとして逮捕され、4月まで出場停止の処分を受けた。開幕当初は首位に立つこともあったが、5月に入るとソフトバンクに首位を奪われてしまう。以降、ソフトバンクの後塵を拝する状況が続き、後半には日本ハムにも抜かれてしまう。しかしながら、その後は3位をキープし続け、9月24日にリーグ3位が確定、クライマックスシリーズ進出が決定。クライマックスシリーズでは、リーグ2位のソフトバンクと対戦。対戦成績は2戦全敗。2年連続のファイナル出場はならず。角中が首位打者・最多安打の2冠を獲得。また石川歩が2.16で最優秀防御率を初受賞。※1974年は阪急とのプレーオフを制して優勝(併せて、前・後期通算での年間勝率首位=.580を達成)。以来、41年間年間勝率首位がなく、12球団で最もリーグの年間勝率首位から遠ざかっている球団である。また、これは横浜DeNAベイスターズの大洋ホエールズ時代から続く1961年 - 1997年の37年間を超え、NPB最長記録となっている。現在のマスコットであるマーくんは4代目でカモメがモチーフ。ペットマーク等に使用されているほか、千葉県や千葉市のキャンペーンなどにも起用されている。同じオーナーのもとにある兄弟球団にあたる韓国のロッテジャイアンツにもマーくん・リーンちゃん・ズーちゃんと類似のマスコット(イラストではユニフォーム・キャップなどの色違い)が制定されており、日本のマーくんにあたるヌリがペットマークに使用されている。いずれも基本的にはしゃべらないが、キャラクターショーでは野球マスコットにしては珍しくしゃべる(声優不明)。また、イベント限定キャラクターとして、まれにコアラの「チャンスくん」(「コアラのマーチ」にちなむ。「戦」ユニフォームで背中に顔シルエットと“CHANCE”の文字)が登場する。コスチュームの基本は上述の通りだが、夏には4人とも浴衣を着たり、アロハシャツに半ズボン・麦藁帽子姿になったりする。瀬戸山隆三が球団代表に就任し、ボビー・バレンタインが監督に復帰した2004年以降、千葉マリンスタジアムの「ボールパーク化構想」が方針付けられ、積極的なファンサービスに尽力するようになった。プロ野球再編問題によりロッテが千葉を去る可能性が取りざたされたことをきっかけに地元行政側との協力関係が結ばれるようになると、地域密着型のファンサービスがより積極的に展開された。セ・パ交流戦の際にこれを見た阪神タイガース前オーナーの久万俊二郎は「これこそファンサービス」と感動したという。また、京葉線の最寄り駅の海浜幕張駅の発車メロディも2005年3月26日から「We Love Marines」に変更するなど、スタジアム周辺の随所で地域との共存がアピールされ続けている。一連のファンサービス向上には、荒木重雄事業本部長(当時)の貢献が大きく、荒木の在任時には、「12球団の中でファンサービスが一番良いのはマリーンズ」と評されていた。「ボールパーク化構想」の最大の障害となっていたのは、球団側と行政側との溝であった。千葉移転以降のロッテの観客動員数の伸び悩みや市の財政難などにより、千葉市など行政側は施設の改修や増設にあまり積極的ではなく、球団がファンサービスの企画を立案しても行政側が条例を盾に認可を渋るケースが多々あった。また、千葉マリンスタジアムは球場内が千葉市、幕張海浜公園の一部である駐車場などの球場外の敷地が千葉県の管理となっていた。そのため、過去には売店の設置やフェンスの企業広告掲出が一切出来ず、球団に収益が全く入らない状態だった。2004年以降は県と市の協力を得てこれを改善し、スタジアム敷地内に売店や屋台等を設置したり、動物とふれあう場所を作ったり、スタジアム内でもフェンス広告の掲出を開始したり、スタンド内にベビーベッドが設けられるなどの展開があった。2004年のプロ野球再編問題における10球団構想では、ロッテとダイエーを合併して「福岡ロッテホークス」とする案が取り沙汰された。ロッテが千葉を去る可能性から行政側には危機感が生まれ、県と市は条例の改正などで千葉マリンスタジアムの使用規制を大幅に緩和し、さらに2006年度からは指定管理者制度を導入して、球団を千葉マリンスタジアムの指定管理者に指名して運営を委託するなど、現在では球団と行政とが一体となって地域密着策を展開している。プロ野球球団が本拠球場の指定管理者になるのは、ロッテが初のケースとなった。この他2009年には、広島東洋カープが同年開場した本拠地のMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島の指定管理者となった他、都市公園法に定める「管理許可制度」の適用による運営体制を導入しているケースとしては、オリックス・バファローズが2004年まで本拠地(2005年以後は準本拠地)としていたほっともっと神戸と、2005年以後の東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地のフルキャスト/クリネックス/楽天koboスタジアム宮城の例がある。また、2016年には、管理許可のもとで横浜スタジアムを運営していた第三セクターの株式会社横浜スタジアムを、横浜DeNAベイスターズが友好的TOBにより買収している。ロッテは2005年から「360度全席自由席」と銘打って、本拠地の千葉マリンスタジアムの場内全席を自由席としてチケットを均一料金に割り引くファンサービス企画を、毎年夏の2試合を対象に行っている。そもそも、この全席自由席企画は2005年6月28日と6月29日に予定していた韓国での公式戦(対福岡ソフトバンクホークス)が中止となったことから(後述)、その代替企画として打ち出されたものである。韓国での開催が中止となった2試合は千葉マリンで代替開催することになったものの、週末に比べて動員力の低い平日のナイトゲームで、更に韓国開催を前提にシーズンシートの契約対象外としていたことから、球団営業部はイベントの実施を決定した。こうして立案されたのが「来場者に色々な席で、様々な角度からゲームを見てもらえるように」という発想からスタンドを全席自由席とし、入場料も大人1500円、子供500円の均一料金にするという、NPB12球団の一軍公式戦としては初の試みだった。加えて当日の企画案を検討した結果「夏前のフェスティバルのノリで、ビアガーデンのように盛り上がれる企画」という方向性が決まり、ビールを通常の半額(1杯300円、ソフトドリンクも200円に割り引き)で販売するなどのサービス実施を決定、企画タイトルは「360度ビアスタジアム」と銘打たれた。結果、2日間とも通常の平日のナイターを大幅に上回る観客を集め、概ね好評だった。「ビアスタジアム」は翌2006年シーズンも6月27日の対日本ハム戦、8月30日の対ソフトバンク戦の2度実施され(ただしドリンク類はブースのみでの販売とし、売り子の巡回販売は行わず)、6月の試合では観衆の一人単位までの発表を開始してから当時最多の29,152人を記録した。2007年はイベントのアイディアを一般ファンから募集し、全席自由席企画を「応援スタジアム」と「ビアスタジアム」の2本立てとして実施することとなった。まず「応援スタジアム」は7月3日の対オリックス戦で実施。通常の外野スタンド右翼側だけでなく内野スタンド一塁側も応援席とし、イニング間には応援ボードコンテストなどを実施。また、ゲストとして渡辺真知子を招聘するなど(一部後述)、さまざまな企画が行われた。恒例となった「ビアスタジアム」は7月31日の対楽天戦で行われ、全席自由席企画では最多となる30,016人の観客を集めた。この全席自由席企画においては、スタンド内を全席自由とすることによって観客の動向が通常時と大きく異なることから、球団営業部では開催当日の場内を細やかにリサーチしている。調査項目は「スタンドのどの席にニーズがあるのか」「どのような観戦スタイルをしているか」など細部にわたっており、調査結果は今後のファンサービスや座席設定など、球団の営業戦略に反映されている。マリンスタジアム場内に設けられている特別シートは、この企画を実施する際の対応が異なっている。一・三塁側のファウルエリアに設けられた「フィールドウィング・シート」のチケットを希望する場合は、あらかじめ前売入場券を購入した上で抽選に申し込む必要があり、当選者に限り座席指定券が発行される。また内野1階席三塁側の「ピクニックボックス」のチケットを希望する場合も抽選に申し込む必要があり、当選者に限りチケットが販売される(販売価格は通常の15000円が7500円となる。定員5名であるため、1人換算1500円)。この措置は観客の安全性を確保する上で、両座席については規定の定員を遵守しなければならないため「指定席」の扱いとなることによるもので、これら抽選の申込受付はマリーンズオンラインチケットショップで開催日の3週間前に行われる。但し、ネット裏のプレスブースに隣接する「マリーンズ・プレスシート」は座席設定・価格とも対象外で、通常時と同じ設定となっている。球団公式ファンクラブ『TEAM26』があり、プレミアムゴールド・ゴールド・レギュラー・カジュアルレギュラー・ジュニア(いずれも有料)・マリーンズ(無料)の6コースがある。前売りチケットやグッズの購入でMポイントを貯めることが出来る。かつての「TEAM26」会員証は楽天Edy機能搭載のAMCカード一体型だった。2007年10月1日のプロ野球運営実行委員会で、球団社長(当時)の瀬戸山隆三は、5 - 8人程度の育成選手を獲得した上で、独立リーグである四国アイランドリーグ(現:四国アイランドリーグplus)の徳島インディゴソックスに派遣する構想を表明した。当日の委員会では結論が出ず、継続審議の扱いになった。一部球団からは「イースタン・リーグの混成チームであるフューチャーズの活用が先ではないか」といった意見が出された。その後、社会人野球側から「育成選手制度の本来の趣旨と異なる」という指摘がなされ、NPB内部の他に社会人野球側とも調整が必要な状況となった。2007年11月6日のプロ野球運営実行委員会でも合意には至らず継続審議となったが、次回の委員会の前にドラフト会議を迎えるため、来季の派遣については困難という報道がなされた。2007年のドラフト会議で獲得した育成選手5名(池田健、宮本裕司、小林憲幸、白川大輔、大谷龍次)は、支配下登録を受けた1名(宮本)を除き2009年のシーズン終了後に戦力外通告を受けて退団。このうち、アイランドリーグから指名された小林は同リーグに所属していた長崎セインツへ入団し、白川と大谷は徳島へ入団した(池田は引退)。約4年半が経過した2012年3月1日にNPB実行委員会が、育成選手に限り四国アイランドリーグplusとベースボール・チャレンジ・リーグへ選手の派遣を認めた。ただし、ロッテはこの制度による選手派遣を実施していない(2013年現在、派遣実績がある球団は広島東洋カープとオリックス・バファローズのみ)。2014年3月にベースボール・チャレンジ・リーグの福井ミラクルエレファンツと業務提携を行い、ロッテ球団職員の荘勝雄がトレーニングコーチとして派遣されることになった。「千葉ロッテマリーンズ」となった1992年にチームのイメージカラーとしてピンクが登場、球団旗・ペットマーク・ユニフォームに採用された。明るいパステル調のこのピンクは「サンライズピンク」と名付けられ、「陽気さ・親しみやすさ・楽しさを表し、未来へと広がる千葉のイメージをも表している」と説明された。またビジター用ユニフォームの地色となった水色も「カレントブルー」と名付けられ、「千葉県沖合における親潮と黒潮のぶつかり合い」と定義付けられた。2012年8月17日 - 8月19日の日本ハム戦(札幌ドーム)で、日本ハムがブラックを基調とした特別ユニフォームを着用するのに伴い、普段のブラックのビジター用ユニフォームではなく、ホーム用のストライプユニフォームを着用。「ブラックブラックナイト」と呼ばれる、ホームの試合で普段のホーム用のストライプユニフォームではなくビジター用ユニフォームを着用する試合を毎年1試合程度行っている。(例外として2014年は2試合(4月4日と7月31日で、対戦相手は両日ともに同じ北海道日本ハムファイターズ戦であった)。2015年・2016年の対戦相手だった福岡ソフトバンクホークスはビジター用ユニホームがマリーンズのそれと同じ配色だった為、ホーム用ユニホームでプレイしている。※太字は優勝達成監督2015年現在永久欠番は無い。21世紀に入ってからの千葉ロッテは、2005年と2010年の2回、下位からポストシーズンを勝ち上がり最終的に日本一に輝いたことで、西暦年下一桁が0ないしは5の年に、5年周期で日本一になるというジンクスが生まれた。これは「ゴールデンイヤー」と称されており、里崎智也が2014年9月に自身の引退セレモニーにおいて「来年(2015年)は21世紀に入ってロッテが最も輝く、5年に1度のゴールデンイヤーの周期が来る」と発言して以降ファンの間で定着した。そのため、「ゴールデンイヤー」の命名者は里崎とされている。また20世紀においても、初優勝となった1950年を含めて西暦年下一桁が0か5の年に度々Aクラス入りを果たしており、これも5年周期説を裏付けているとの見方もある。ただし、所属選手やコーチの中にこのジンクスを気にしている者は2015年当時1人もおらず、中でも井口資仁は「ゴールデンイヤーと言われるが、それではいけない。本当は5年に1度では恥ずかしいこと」とまで言い切っている。1969年10月10日、日本生命球場での近鉄バファローズ戦のダブルヘッダー第2試合は試合時間が5時間15分(4-4のまま決着付かず延長13回、当時の規則に基づき時間切れ引き分け)となり、当時の最長試合時間となった。5時間超えは当時の日本プロ野球史上初の出来事でもあった。その後、この日本最長記録は更新(全てセントラル・リーグ、またはセ・パ交流戦)されているが、2009年7月2日、西武ドームでの埼玉西武ライオンズ戦では、セ・パ交流戦を除いたパ・リーグの公式戦では当時歴代最長となる延長12回、5時間42分を戦い9-8で勝利した。また、ポストシーズンでは1981年のプレーオフ、川崎球場での日本ハムファイターズとの第1戦では9回の最長試合時間記録である5時間17分を戦い4-4の引き分けに終わった。2010年の日本シリーズ、ナゴヤドームでの中日ドラゴンズとの第6戦では延長15回、5時間43分を戦い、2-2で引き分け、日本シリーズにおける歴代最長試合時間記録を35年ぶりに塗り替えている。現在の千葉ロッテマリーンズの前身である毎日オリオンズは1949年に創設され、1957年に大映ユニオンズと合併し、その後経営権の移転や改称などを経て現在に至るが、同年以降、プロ野球再編に絡むなどして球団合併構想に巻き込まれたことが2度ある。1973年、ロッテオリオンズはジプシー時代最初のシーズンを終えた。一方、ロッテと同じく東京都を保護地域としていた東映フライヤーズはオーナー企業の経営難等により、同年2月7日に球団の経営権が東映から日拓ホームに譲渡され「日拓ホームフライヤーズ」に改称したが、同年もパ・リーグは観客動員の面では苦戦を強いられた(ただ同年、ロッテはパ史上最多の観客動員を記録している)上、プレーオフを制して日本シリーズに進出した南海ホークスも読売ジャイアンツ(巨人)の前に1勝4敗で散り、巨人のV9を許した。この当時の状況に、日拓のオーナー・西村昭孝はシーズン終了後「パ・リーグに将来性はない」と判断、日拓とロッテを合併し、更に1リーグ制への移行を画策し始めた。前述の通り、当時ロッテはジプシー生活を強いられていたため首都圏で常時主催試合を開催できる環境を求めていた。またロッテのオーナー・重光武雄も球団経営にあまり執心がないと憶測されたことから、合併調印は時間の問題といわれていた。さらには関西でも球団合併構想が取り沙汰され、「10球団1リーグ化へ」などと先走った報道もなされた。しかし重光はこの合併を否定。結局、合併そのものも程なく破談となり、球界に嫌気がさした西村は球団経営権を日本ハムに売却、事態は収束した(この一連の詳細はプロ野球再編問題 (1973年)を参照)。また2004年には、大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併構想に端を発し、1リーグ制移行に加え、球団数が奇数となるため更なる球団数削減が取り沙汰される再編問題が勃発した(詳細はプロ野球再編問題 (2004年)を参照)。この過程でロッテは、当時親会社ダイエーの経営難から球団の維持が困難といわれていた福岡ダイエーホークスに合併を申し入れたことが判明。オーナー企業はロッテ、本拠地は福岡ドーム、二軍の本拠地に千葉マリンスタジアムとし、球団名は「福岡ロッテホークス」とするなど、具体案についても報じられたが、結局実現には至らなかった。また、ロッテと西武ライオンズを合併して、「ロッテライオンズ」、東京ヤクルトスワローズと合併して「ロッテスワローズ」とする構想もあったが、これも西武とヤクルトが単独での球団保有を表明したため実現しなかった。結局同年オフ、ダイエーは産業再生機構の支援を受けて経営再建を図る事となり、ホークスはソフトバンクに売却されて福岡ソフトバンクホークスとなった。ロッテ本社は1971年から球団を保有しており(球団名のスポンサーとしては1969年から)、2012年現在パ・リーグの現存6球団の中では最も古くから経営権を所有している。なお福岡移転問題はこれが最初ではなく、川崎球場時代の1984年に稲尾和久が監督に就任した際、平和台球場への移転の実現を前提として就任を受諾したとされているが、この時も本拠地の移転は実現しなかった。1998年、6月13日から7月8日までの19試合で、日本プロ野球ワースト新記録となる18連敗(途中1引き分けを挟む)を喫した。球団公式サイトのチームヒストリーでも「悪夢の18連敗」と記されている。2005年の開幕2連戦、ロッテはこの年から活動を開始した新球団である東北楽天ゴールデンイーグルスを地元・千葉マリンに迎えて対戦した。開幕戦となった3月26日の1回戦は1-3で敗れ楽天に球団初白星を献上。だが翌27日の2回戦はロッテが一方的にゲームを展開し、26-0で圧勝した。打っては楽天の6投手から24安打14四死球をマークし、とりわけ2回には10者連続得点を含んで一挙11点を挙げるなど終始攻撃の手を緩めず、守っては先発の渡辺俊介が相手打線を1安打1四球に抑え込んだ上、その許した走者をいずれも併殺で退け、結局打者27人で完封勝利を記録した。26点差での完封勝利は1946年7月15日、富山県の高岡工業専門学校グラウンドでの公式戦で近畿グレートリングがゴールドスターを相手に同じく26-0で大勝して以来、完封試合では実に59年ぶりとなる日本プロ野球史上最多得点及び得点差のタイ記録で、2リーグ分立後初の快挙となった。また、1試合最多得点の球団記録も、毎日時代の1950年5月31日に対東急フライヤーズ戦で記録した23得点を55年ぶりに更新した。ロッテと福岡ダイエーホークス(当時)は日本プロ野球の東アジアでの市場拡大を視野に、2004年シーズン中から韓国と台湾での公式戦開催について検討を行ってきた。その結果、翌2005年シーズンの6月28日と29日の2日間、日本プロ野球史上2度目となる日本国外での公式戦として韓国での開催が決定。カードはロッテ主催の対福岡ソフトバンクホークス2連戦とし、釜山の社稷(サジク)野球場、ソウルの蚕室(チャムシル)総合運動場野球場で各1試合を開催する予定だった。しかし、首都のソウルでの試合が予定されていた蚕室野球場での開催が困難となり(韓国プロ野球のLGツインズと斗山ベアーズの2チームが本拠地として使う球場のため、全く空き日がない)、代替としてソウルの衛星都市である仁川の文鶴(ムナク)野球場での開催に変更したものの、当時の韓国プロ野球人気の低迷から採算が取れないと判断され、開催は断念せざるを得なくなった。だが、この開催中止がきっかけとなり、同年夏に新たなファンサービス企画「360度全席自由席」が生まれることとなる(詳細は前述)。ロッテは2009年6月11日の
出典:wikipedia
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