宮原線(みやのはるせん)は、大分県玖珠郡九重町の恵良駅から熊本県阿蘇郡小国町の肥後小国駅までを結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)である。1980年の国鉄再建法の施行を受け、第一次特定地方交通線として1984年に全線が廃止された。なお、線名の宮原(みやのはる)とは、終点の肥後小国駅のある阿蘇郡小国町の大字名である。旅客列車の運転系統としては、豊後森駅 - 肥後小国駅間であり、一時期存在した末端区間折り返しを除く全列車が久大本線豊後森駅 - 恵良駅間に乗り入れていた。1956年11月ダイヤ改正当時は、全線直通が5往復、ほかに夜に宝泉寺駅折り返しが1往復だった。1960年までに旅客列車は気動車に置き換えられて全線直通は6往復に増えたが、1967年10月のダイヤ改正時点では日中の1往復が土曜日のみの運行に、また夜の1往復は宝泉寺駅折り返しとなって毎日運行の全線直通は4往復に減少した。1968年10月ダイヤ改正(ヨンサントオ)では日中の直通1往復が廃止となり、毎日運行の直通列車は3往復(下りが朝1本と午後および夜に2本、上りが朝2本と夕方1本)に減少(ほかに土曜日のみが1往復)、夜の宝泉寺駅折り返し1往復と北里駅 - 肥後小国駅間の区間列車も廃止となった(区間列車は宝泉寺駅折り返しが夕方の1往復と平日のみの朝1往復残存)。以後、1972年までに夕方の宝泉寺駅発上り列車が廃止された以外は路線の廃止まで大きな変化はなかった。車両は、1967年まで豊後森機関区のキハ07形気動車が使用され改正鉄道敷設法別表第113号に規定する予定線の一部で、佐賀県佐賀から福岡県瀬高、熊本県隈府(現在の菊池)を経て大分県森(豊後森)に至るという壮大な計画であった。佐賀 - 瀬高間が佐賀線として、瀬高 - 南関間が東肥鉄道として、大分県側で本路線が開業したが、そのすべてがすでに廃止されている。宮原線は、1937年(昭和12年)6月27日に恵良 - 宝泉寺間が開業したが、、1943年(昭和18年)9月1日に既開業区間も休止された。なお休止区間のレールは戦時中の金属供出に充てられたといわれている。戦後の1948年には復活し、1954年には大分・熊本県境を越えて肥後小国まで延伸され、農林資源の開発や観光路線として期待されたが、盲腸線であるうえ、人口が希薄な県境の高原地帯を走る路線であり、利用は振わなかった。接続路線の事業者名は宮原線廃止時。廃止当初は大分交通が代替バスを設定し、1987年時点では豊後森 - 小国間に5往復(他に宝泉寺折り返しを10往復、ただし豊後森発1便は土曜日運休)運行されていた。その後、1989年に分社化された玖珠観光バスに移管された。2013年4月1日に麻生釣 - 小国間が廃止された。宝泉寺駅付近の線路跡は国道387号のバイパスとなり、痕跡は全くない。宝泉寺駅跡は小さな公園となっており、駅名標が保存される。。これら橋梁は、多くが国の登録有形文化財に指定されている。北里駅はホームが保存され、ホームには上屋とベンチも新設されている。北里 - 肥後小国間の線路跡は大部分が遊歩道として整備されている。元はマウンテンバイクのコースとして使用されたため路面は未舗装のままであり、鉄道時代の面影をよく残す。幸野川を竹筋橋で越え、終点小国の手前で一般道路に合流する。肥後小国駅跡は道の駅小国(ゆうステーション)となり、駅名標などが保存されている。宮原線には、廣平・菅追・堀田・汐井川・堂山・北里・幸野川の竹筋コンクリートアーチ橋が残っていて、2004年2月には国の登録有形文化財に登録された。このうち北里橋梁と幸野川橋梁は前述のように遊歩道となっているため徒歩による通行が可能である。小国町では「旧宮原線跡地活用検討委員会」が有志によって結成され、これらの橋梁遺構を地域資源として活用する取組がなされている。国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスが提供している過去の空中写真(1976年版)
出典:wikipedia
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