豊川稲荷(とよかわいなり)は、愛知県豊川市にある曹洞宗の寺院。正式の寺号は妙厳寺(みょうごんじ)。詳しくは「円福山 豊川閣 妙厳寺」(えんぷくざん とよかわかく みょうごんじ)と称する寺院である。境内に祀られる鎮守の稲荷(吒枳尼天)が有名なため、一般には「豊川稲荷」の名で広く知られる。豊川稲荷は神社ではないものの、商売繁盛の神として知られており、境内の参道には鳥居が立っている。また、日本三大稲荷の1つとされる。北海道・東京都・神奈川県・大阪府・福岡県に、別院(下記)を持つほか、修行道場として僧堂を設置している。豊川高等学校を運営。妙厳寺の本尊は千手観音である。豊川稲荷の「稲荷」とは、境内の鎮守として祀られる吒枳尼天(だきにてん)のことである。吒枳尼天は、インドの古代民間信仰に由来する仏教の女神であるが、日本では稲荷信仰と習合し、稲荷神と同一視されるに至った。妙厳寺では「吒枳尼真天」(だきにしんてん)と呼称する。嘉吉元年(1441年)、曹洞宗法王派(寒巌派)の東海義易によって創建。室町時代末期、今川義元が伽藍を整備した。当時は、豊川(河川名)の近くに広がる円福ヶ丘という高台に伽藍があったが、元禄年間までに現在地に移転した。現存する諸堂は江戸時代末期から近代の再建である。開祖の東海義易は幼名を岩千代といい、9歳の時に、曹洞宗法王派5世の華蔵義曇の元で仏門に入った。そして、東海地方における法王派の拠点となる普済寺(浜松市)で修行し、その後、諸国の行脚に入った。永享11年(1439年)、荒廃した真言宗寺院・歓喜院(豊橋市)を再建し曹洞宗に改め、その2年後、豊川の円福ヶ丘の地に妙厳寺を建立する。存命中に妙厳寺の跡を次世に譲り、再び歓喜院に隠栖した。前述のとおり、豊川稲荷は吒枳尼天を鎮守とする。縁起によると、鎌倉時代の禅僧・寒巌義尹(妙厳寺では法王派の法祖として尊崇)が入宋し、文永4年(1267年)、日本へ船で帰国の途上、吒枳尼天の加護を受けたのがきっかけとなり、この天を護法神として尊崇するようになったとされる。その後、寒巌の6代目の法孫にあたる東海義易が妙厳寺を創建するに際し、寒巌自作の吒枳尼天像を山門の鎮守として祀ったといわれる。豊川吒枳尼天の姿は、白狐の背に乗り、稲束をかついで宝珠を持ち、岩の上を飛ぶ天女の形である。また、俗説であるが、平八狐を祀っているともいわれている。妙厳寺開山の時、平八郎と名乗る翁の姿をした狐がやってきて、寺男として義易によく仕えた。義易が入寂した後は愛用の釜を遺して忽然と姿を消したという。今もこの釜は本殿奥に安置されている。戦国時代になると、三河領主の今川義元、徳川家康から外護を受け、また、九鬼嘉隆などの武将からも帰依を受けた。海上交通の守護神は四国の金毘羅宮が知られるが、毛利水軍の勢力範囲のため、嘉隆は、家康の領内にあり容易に祈願できる豊川稲荷を信仰したのではないかといわれる。江戸時代になると、大岡忠相や渡辺崋山からの信仰を受け、立身出世や盗難避けの神として江戸の庶民からも信仰されるようになり、文政11年(1828年)には、大岡邸の一角を借りて江戸参詣所(後の東京別院)が創建された。皇族においては有栖川家等も帰依し、明治初年に「豊川閣」の篇額を寄進したことから、豊川閣とも呼ばれるようになる。1871年(明治4年)、神仏分離令に基づき、妙厳寺にも神仏区別の厳しい取り調べが及ぶが、翌年には稲荷堂をそのまま寺院鎮守として祀ることが認められる。しかし、それまで境内の参道に立ち並んでいた鳥居は撤去され、「豊川稲荷」「豊川大明神」の呼称も使われなくなった。以降は「豊川吒枳尼真天」と号するようになる(ただし、間もなく通称として「豊川稲荷」と呼ぶことは復活する、現在の鳥居が立ったのは戦後である)。また、江戸時代に全国の寺社に吒枳尼天を勧請していた、愛染寺(伏見稲荷本願所)が廃寺になったことにより、明治以降は豊川稲荷が寺院への吒枳尼天勧請の中心的な役割を担うようになる。全国の稲荷神社は京都の伏見稲荷を総本社としているが、豊川稲荷は神社ではなく寺院であり、上述したように、信仰対象は「稲荷」と通称されてはいるものの、稲荷神そのものではなく、吒枳尼天である。江戸幕府の朱印状には、すべて、三河国宝飯郡豊川村妙厳寺寺領、となっており、豊川稲荷と正式に呼称されていた事実は確認できない。また、明治4年の西大平藩管内三河国豊川村妙厳寺境内豊川明神神仏区別(太政官)において、題名には、妙厳寺または豊川明神と記載されており、本文中に初めて、豊川稲荷、という呼称が登場する。それによると、6、70年以来、土地の名前の由来により、豊川明神または豊川稲荷と呼称、伏見稲荷社の触下にてもない。と説明している。御宝号 南無豊川吒枳尼真天真言 オン シラバッタ ニリ ウン ソワカ正月の初詣期間中は大変な数の参拝客が訪れるため、元旦より1月5日までの9時~17時は豊川稲荷周辺及び門前通りの道路が完全通行止となり、全て歩行者天国となる。年に2回、春季大祭(5月4~5日)と秋季大祭(11月22~23日)に稚児行列が行われる。衣装は一般的だが、化粧は歌舞伎舞踊に近い厚化粧となり、巫女を思わせる熨斗飾りを付ける。毎月22日 (妙厳寺開山の、旧暦11月22日に由来する)8月7 - 8日主に豊川空襲での犠牲者の霊を慰める催し。建築物境内には他に鎮守堂、鐘楼堂、宝雲殿、万燈堂、三重塔(小規模)、弘法堂、大黒堂、奥の院、景雲門などの諸堂がある。その他
出典:wikipedia
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