桧山 進次郎(ひやま しんじろう、1969年7月1日 - )は、京都府京都市右京区出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。一部メディアでは、「檜山進次郎」と表記。通算代打起用回数・代打安打数・代打打点数すべて歴代2位記録。1995年から2005年頃までレギュラー、2006年からは主に代打で活躍した。打席に立つたびにスタンドから盛大な声援を受けるほどの人気選手で、代打に定着してからは、メディアやファンから(八木裕に次ぐ)「代打の神様」と呼ばれることが多かった。愛称は「ひーやん」、「ひー」、「悠久の若虎」など。2013年の現役引退を機に、「ベースボール&スポーツコメンテーター」という肩書でホリプロとマネジメント契約を締結。2014年からは、朝日放送の野球解説者・日刊スポーツの野球評論家も務める。元在日韓国人2世で、韓国名は黄 進煥(ファン・ジナン)だった。京都府京都市右京区出身。桑原征平は京都市立西院小学校の先輩にあたる。平安中学校に通っていた中学生時代には、劇場公開の松竹映画「蒲田行進曲」の京都ロケへ、台詞なしのエキストラとして参加した経験を持つ。平安高校を経て、東洋大学へ進学。東都大学野球リーグ通算76試合出場、261打数83安打、打率.318, 13本塁打、45打点。ベストナイン3回。第20回日米大学野球選手権大会日本代表に選出された際は後にプロでチームメイトとなる金本知憲と同室になった。のプロ野球ドラフトで、阪神から4位指名を受け入団。入団会見で「巨人がオロナミンCならば、リポビタンDのCMをしたい」と笑いを誘った。プロ1年目ののみ守備位置登録は内野手登録であり(当年は外野にしか就いていない)、2年目以降は外野手登録となる。プロ入り後は1軍2軍を行ったり来たりだったが、、開幕早々レギュラー右翼手の亀山努が怪我で離脱し、空いた右翼を八木裕・関川浩一と共に穴を埋め初めてほぼ年間一軍で試合に出続けた。には4月6日の巨人との開幕戦(東京D)で3番・右翼手で初の開幕スタメン3打数1安打(相手の斎藤雅樹は開幕投手としてに完封勝利、桧山に被安打も同年自身と最優秀バッテリー賞獲得の村田真一が盗塁阻止し27人でシャットアウトの準完全試合)5番・左翼手に定着し、中日ドラゴンズの野口茂樹から2試合にまたがって4打席連続本塁打を放つなど22本塁打を記録。来日外国人を除く阪神在籍野手で、1シーズンに20本以上の本塁打を放った左打ちの選手は藤田平・掛布雅之に続いてこの年の桧山が3人目であった(本拠地の阪神甲子園球場は「浜風」の影響で右翼方向に打球が飛びにくいと言われている)。は4番・右翼手として出場し、共に前年の自己最高を更新する23本塁打・82打点を記録。しかし打率は2割台前半で三振もリーグ2位を記録し、確実性の面で課題を残した。もレギュラーとして出場するが、坪井智哉の台頭により定位置の右翼は奪われた形になる。また、開幕カードで2番スタメンを経験した。には開幕に出遅れたことや不振などもあり、出場試合は95試合に留まり、にはトニー・タラスコらとのレギュラー争いに敗れ代打要員となった。にはタラスコ解雇に伴いレギュラーに復帰し、シーズン後半は帰国したイバン・クルーズに代わって4番を務める。無理に長打を狙わないことで当時の史上7位・球団記録となる28試合連続安打や自身初の打率3割を記録。また、この年からチームの選手会長にも就任した。は主に5番・右翼手として出場。終盤に左肩亜脱臼で戦列を離れ、チーム失速の一因となった。濱中治の台頭に加わり、オフに広島東洋カープから金本知憲のFA移籍が決定的になると、レギュラー構想の説明を求めるなどフロントと揉めた末にFA宣言するが、他球団からのオファーはなく、また星野新監督の慰留もあり権利を行使した上で阪神に残留した。は濱中が4番・右翼手に入り、桧山は春季キャンプから2000年に14試合で就いたことのある一塁手へのコンバートに挑戦した。開幕当初は、ジョージ・アリアスや片岡篤史(いずれも内野手)との併用扱いで一塁手として出場。4月10日に一軍公式戦への通算1000試合出場を達成すると、同年18日はプロ入り後初めてのサヨナラ本塁打を記録した。濱中が右肩の負傷で戦線を離脱した5月以降は、「4番・右翼手」としてレギュラーに復帰。7月2日の対中日戦で史上58人目(62度目)のサイクル安打を達成。チームは18年ぶりにリーグ優勝した。日本シリーズでも4番・右翼手として出場し、第5戦で決勝適時打、第6戦で本塁打を放ち優秀選手賞を獲得。同年、選手会長を退任して後任の今岡誠に引き継いだ。5月5日の対広島戦で1イニング2三振のプロ野球タイ記録を作るが、シーズン成績は自己新の84打点、打率.306, 打撃スタイルを変えた2001年以降では最多の18本塁打を記録した。はシェーン・スペンサーとの併用扱いで出場。シーズン序盤は打撃不振に見舞われたが、8月25日にはプロ通算1000本安打、同月31日にはプロ通算150号本塁打をそれぞれ記録。尻上がりの調子でシーズンを終えたものの、通算成績は過去数年に比べてやや下降した。は主に代打として出場するが、不振にあえぎ一軍定着後最低の打率.180を記録。代打としても出塁率.300・打率.208に終わった。同年、2度目となるFA権を取得したが行使せずに残留。シーズン当初は二軍で5月4日に一軍合流したが、濱中に加えて桜井広大や林威助などの台頭もあって前年より更にスタメンの機会は減り、控え外野手としても葛城育郎の好調の陰に隠れた。8月21日の対東京ヤクルトスワローズ戦で松岡健一から、自身初の代打満塁本塁打を放ちチームの逆転勝利に貢献。次の試合もタイムリーを放つなど、シーズン終盤には随所で勝負強い打撃を見せた。9月5日には、一軍公式戦への通算1500試合出場を達成している。しかし、通算打率は、前年に続いて1割台と低迷。さらに、代打での打率は.186と、前年から大きく落ち込んだ。10月15日、『デイリースポーツ』紙の1面に「阪神を退団」という記事が掲載され、桧山自身が自らのサイトでこれを否定する一幕もあった。は進退をかけて臨み、開幕直後から代打で安打を重ねて高橋光信や葛城育郎らと共に代打として活躍。勝負強さを買われてセ・パ交流戦を中心にスタメンでも起用された。打率3割をマークし、この年から八木裕に代わる「代打の神様」として定着した。も主に代打として出場したが、前年よりも打撃成績は落ち込んだ。10月4日の対中日最終戦で、同年限りでの引退を表明した同学年の立浪和義に対し、阪神を代表して慰意の花束を贈呈した。は5月18日の対福岡ソフトバンクホークス戦で遠井吾郎の球団記録に並ぶ代打通算108安打、6月4日の対オリックス・バファローズ戦で球団新記録となる代打通算109安打を記録した。また9月16日の対横浜ベイスターズ戦では、代打で登場した金本が怪我のため守備につくのが困難なことや、他の控え外野手を使い切ってしまっていたことから、9回裏1イニングだけライトのポジションについた。この年守備についたのはこの一度であるが、桧山が打席に立たずに守備だけで出場するのは、2007年7月6日の中日戦以来3年ぶりのことであった。は、5月8日の対横浜戦の7回に適時打を打ち、代打での通算86打点で球団3位タイの記録に並び、5月14日の対中日戦で9回裏二死に代打で登場して本塁打を放ち、球団新記録の代打通算14本塁打および球団3位の代打通算87打点を記録した。シーズン終了後の11月22日には、海外FA権を行使せずに阪神への残留を表明。しかし翌23日に、自身の公式サイト「桧舞台」が主催するイベントで転倒して左鎖骨を骨折(後述)。同月30日に手術を受けた。には、前述の骨折の影響で、公式戦の開幕直前から一軍に合流。開幕から代打での起用が続いていたが、5月27日の対埼玉西武ライオンズ戦では5番右翼で先発出場。スタメンは2009年6月13日の対千葉ロッテマリーンズ戦以来3年振りだが、守備についてのスタメンとなると2008年8月7日の対広島戦以来4年振りであった。しかし代打では、8月23日の中日戦で安打を放ったことを最後に、翌年5月8日の対巨人戦(東京ドーム)まで22打席ノーヒットが続いた。も開幕から一軍に帯同すると、前述の巨人戦で自身23打席振りの安打を放つとともに、球団新記録でセ・リーグ史上第3位となる代打通算99打点を挙げた。5月12日の対ヤクルト戦でも適時打を放ち、宮川孝雄、浅井樹に次ぐ代打通算150安打、宮川・川又米利に次ぐ代打通算100打点(ともに史上3人目)を記録。8月7日の対広島戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)では、セ・リーグ歴代単独2位となる代打通算155安打を放った。9月7日に今季限りでの現役引退を表明。引退試合となった10月5日の対巨人戦(甲子園)には、「5番・右翼手」でスタメンに起用されたものの、3打数0安打で8回表の守備から交代した。最終打席となった第3打席は一塁ゴロ。試合後のセレモニーでは「今日ここまで皆さんと共に2回のリーグ優勝を僕は手に入れました。しかしながら、日本一という称号はまだ手に入れてません。この忘れ物をいつか必ず取りに来ます。その時はまた、ファンの皆さん、タイガース球団の皆さん、一緒に戦いましょう。本当に僕は幸せ者でした。22年間、ありがとうございました」と挨拶した。なお、チームがシーズン2位でクライマックスシリーズ(CS)への進出を決めていたことから、引退試合の後も広島との同シリーズ・ファーストステージ(甲子園)に出場。第1戦では、7回裏1死1・2塁からの代打で遊飛に倒れた。しかし第2戦では、5点ビハインドで迎えた9回裏2死1塁の場面で代打で登場。2003年の日本シリーズでの広澤克実(41歳6カ月)の記録を更新するポストシーズン史上最年長(44歳3カ月)本塁打となる2ラン本塁打をライトスタンドに放つ。しかし、チームは4対7で敗れたためCSでの敗退が決定。結果として、前述の本塁打を放った打席が、桧山にとって現役最後の打席となった。10月23日付で、セントラル・リーグから任意引退公示。これを機に、阪神タイガースを退団した。同年12月1日付でホリプロとマネジメント契約を締結。「ベースボール&スポーツ・コメンテーター」として活動することを表明した。2014年からは、朝日放送の野球解説者や、日刊スポーツ新聞西日本(大阪本部)専属の野球評論家を務める。同年2月20日には、現役時代に阪神のコンディショニングコーチや個人トレーナーとして桧山と接してきた仲田健(ホリプロ所属のストレングス&コンディショニングコーチ)との共同執筆による自身初の著書「代打の哲学」が、幻冬舎から刊行された。同年3月31日には、自身初の単著「待つ心、瞬間の力」を、廣済堂出版から発売している。阪神の現役選手時代から、公式サイトの「桧舞台」をベースに、以下のような社会貢献活動を展開。「桧舞台」内の「チャリティー」ページで、活動の成果を随時報告している。また、プロ野球のオフシーズンには毎年、ファン参加型のチャリティーイベントやチャリティーオークションを実施。チャリティー活動の収益金を、「24時間テレビチャリティー委員会」へ全額寄付している。2011年11月23日に京都府宇治市で開催のチャリティーイベントでは、子どもたちとの交流企画であったキックベースボールで女児を抱えながら打席から一塁へ走ったところ、バランスを崩したため女児をかばって左半身を地面で強打。その後の診断で左鎖骨の骨折が判明したが、女児は大事に至らず、桧山自身も翌年にはオープン戦の終盤から一軍へ合流できるまでに患部が回復している。以下はいずれも、野球解説者として出演するABCテレビの番組。いずれもABCラジオの番組
出典:wikipedia
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