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徳川忠長

徳川 忠長(とくがわ ただなが)は、江戸時代前期の大名。極位極官が従二位大納言で、領地が主に駿河国だったことから、通称は駿河大納言(するがだいなごん)。徳川家康の孫にあたる。慶長11年(1606年)、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の三男として江戸城西の丸にて生まれる。幼名は国千代(国松)。誕生日は5月7日説、6月1日説、12月3日説 など諸説がある。5月7日は異母弟保科正之の、12月3日は異母兄長丸の誕生日が誤伝したと考えられ、また曲直瀬玄朔の『医学天正記』には6月1日生まれの「大樹若君様」(将軍の若君)への診療記録があることから6月1日説が有力と考えられており、『大日本史料』では諸説を紹介しつつ6月1日生まれとして章立てしている。乳母として朝倉局(土井利勝妹、朝倉宣正妻)が附けられたという。父の秀忠や母の江は、病弱で吃音があった兄・竹千代(家光)よりも容姿端麗・才気煥発な国千代(国松)を寵愛していたといい、それらに起因する竹千代擁立派と国千代擁立派による次期将軍の座を巡る争いがあったという。この争いはのち、春日局による家康への直訴により、竹千代の後継指名で決着する。徳川秀忠より松平姓(庶子扱される)を与えられ、松平を称す。徳川姓が許されていた叔父の徳川義直・徳川頼宣には宗家に後継が絶えた際には将軍職を継承することが定められていたが、この時点の忠長にはまだそれがなかった。元和2年あるいは4年(1616年/1618年)の9月に甲府23万8000石を拝領し、甲府藩主となる。のち信濃の小諸藩も併合されて領地に加えられた。藩主就任に際し、朝倉宣正や郡内地方を治めていた鳥居成次ら附家老を中心とした家臣団が編成され、のちに武田遺臣や大久保長安配下の代官衆らがこれに加えられた。元服前かつ幼少の国千代が実際に入部することはなく、藩の運営はこれら家臣団や代官衆により行われた。しかし元和4年(1618年)10月9日、国千代は父を喜ばせるべく、自らが撃ち取った鴨で作られた汁物を父・秀忠の膳に供して最初は喜ばせたものの、その鴨は兄の竹千代が居住する西之御丸の堀で撃ち取ったものだということを知らされると、「江戸城は父・家康が修築され、後には竹千代に渡さなければならない所である。国千代の身で兄である竹千代の住んでいる西の丸に鉄砲を撃ち込む事は、天道に背き、父・家康への配慮も無いことで、たとえ悪意無くとも将軍となる竹千代への反逆に等しい」と、逆に秀忠の怒りを買ってしまう。秀忠は箸を投げ捨ててその場を退出するほどだった。元和6年(1620年)9月に元服し、金地院崇伝の選定により諱を忠長とする。元和9年(1623年)7月、家光の将軍宣下に際し権中納言に任官。同年11月7日に織田信良の娘・昌子と婚姻。寛永元年(1624年)7月には駿河国と遠江国の一部(掛川藩領)を加増され、駿遠甲の計55万石を知行した(この際に小諸藩領は領地から外されている)。寛永3年(1626年)に権大納言となり、後水尾天皇の二条城行幸の上洛にも随行する。これと前後して忠長は保科正之に葵紋の入った家康の遺品を与えたり、正之に松平への復姓を薦めたりしたと「会津松平家譜」には記されている。 寛永8年(1631年)5月に、家臣1名もしくは数人を手討ちにしたという不行跡を理由として甲府への蟄居を命じられる。その際、秀忠側近の崇伝らを介して赦免を乞うが許されず、寛永9年(1632年)の秀忠の危篤に際して江戸入りを乞うたがこれも許されなかった。秀忠死後、甲府に台徳院殿(秀忠)供養の寺院建立や、加藤忠広改易の際に風説を流布したとして改易となり、領国全てを没収され、10月20日に安藤重長に預けられる形で上野国高崎へ逼塞の処分が下される。また、その際に朝倉宣正、鳥居成次も連座して改易されている。寛永10年12月6日(1634年1月5日)、幕命により高崎の大信寺において自刃した。享年28。墓は43回忌にあたる延宝3年(1675年)になって大信寺に建立され、現在では高崎市指定史跡となっており、硯箱、自刃に用いた短刀、自筆の手紙などが位牌とともに保存されている。また正室は織田信良の娘・昌子が定説となっているが、高崎市極楽寺には忠長の墓碑と共に「承應三年正月廿一日 二世神女淸月彌勒院內儀松譽春貞大姉 德川忠長正室 俗名 吉井庚子 五十五才」と記された墓碑がある。側室は、大信寺の過去帳に忠長側妾で院殿がついている人が3人ほどいることから、その存在が推測されるが、詳細は不明。子には松平長七郎(長頼)がいると伝えられているが、これは従兄弟松平忠直が配流先でもうけた永見長頼のことではないかと考えられ、実子の存在は史料の上では確認されていない。改易の理由として、加藤忠広の改易に関与した(『藩翰譜』)、大坂城と畿内55万石の所領を求めた(『寛永小説』)等の説が江戸中期からあり、『徳川実紀』に載る家光との後継者争いの逸話と併せて家光による計画的な排除とする説がある。しかし当時の細川忠利や島津家江戸家老の伝聞や観察によれば、忠長の改易は彼個人の狂気とされる。具体的には寛永8年2月2日に酒に酔った忠長は、家臣の小浜光隆の子や御伽の坊主を殺害、その上翌日に殺害した者を呼び出す行動に出ている。その後も傅役の内藤政吉を甲冑姿で追い回し、殺害した禿(少女)を唐犬に食わせ、腰元の女中に酒を飲ませて攻め殺すといった行為を行ったとされる。3月末には忠長の行いを恐れた側近は近づかなくなり、彼には幼い2人の子供が仕えるに過ぎなかった。忠利は忠長のこれらの行為は酒乱ではなく発狂によるものとしている。忠長の一連の行動を知った秀忠は即座に彼を勘当、処分を家光に一任している。家光は酒井忠世・土井利勝等を再三遣わし、2人しかいない兄弟と更生を促し、忠長もこれに同意し、4月後半には一時平静を取り戻した。しかし結局は回復せず、前述のように5月18日に甲府蟄居が命じられた。しかし家光はなおも蟄居の状態では駿府への帰還を認めており、忠長も上記のように誓詞を提出したが、行状は悪化し、ついに寛永9年10月20日に改易と高崎への逼塞が決定した。※日付=旧暦

出典:wikipedia

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