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高知城

高知城(こうちじょう)は、高知県高知市(土佐国土佐郡高知)にあった日本の城。別名鷹城(たかじょう)。江戸時代、土佐藩の藩庁が置かれた。江戸時代に建造された天守や本丸御殿、追手門等が現存し、城跡は国の史跡に指定されている。日本100名城に選定されている。高知市のある高知平野のほぼ中心に位置する大高坂山(標高44.4m)上に築かれた、梯郭式平山城。山の南を流れる鏡川、北の江ノ口川をそれぞれ外堀として利用されていた。戦国時代以前には大高坂山城(おおたかさかやまじょう/おおたかさやま-)または大高坂城と呼ばれる城が築かれていた。現在見られる城は、江戸時代初期に、土佐藩初代藩主・山内一豊によって着工され、2代忠義の時代に完成し、土佐藩庁が置かれた。3層6階の天守は、一豊の前任地であった掛川城の天守を模したといわれている。一豊により河中山城(こうちやまじょう)と名付けられたが、高智山城と名を変えたのち、現在の城名となった。高知城は本丸の建造物が完全に残る唯一の城として知られている。明治6年(1873年)に発布された廃城令や、太平洋戦争による戦災を免れ、天守・御殿・追手門など15棟の建造物が現存し、国の重要文化財に指定されている。現在これらは高知県の所有物となっている。また、この15棟の現存建造物に加えて、土佐山内家宝物資料館に丑寅櫓の一部であると伝わる部材が収蔵されている。城全域は高知公園として無料で開放されているが、天守および本丸御殿(別名、懐徳館)への入館は有料となっている。城の周辺には、高知市役所、高知県庁、地方裁判所、地方検察庁などの行政機関や司法機関が立ち並び高知県の行政の中心地となっている(県庁舎のみ実質的には公園内にある)。また、城内には山内一豊と妻・千代(見性院)、板垣退助の銅像が立つ。大高坂山には、高知城の前身として大高坂山城(または大高坂城)があったとされる。付近の豪族・大高坂氏によって築かれたとされるが、定かではない。記録上では、大高坂松王丸が居城したことが知られている。松王丸は南朝方に付き、延元3年(1338年)には後醍醐天皇の第7子・満良親王を迎えている。しかし興国2年(1341年)、松王丸は北朝方の細川禅定、佐伯経定と戦って敗北、大高坂山城は落城した。その後文献に名がなく、廃城となったと考えられる。天正15年(1587年)、長宗我部元親は、豊臣秀吉の九州征伐従軍から帰国後、大高坂山に再び城を築いた。ただし、天正13年(1585年)には元親が既に大高坂を本拠にしていたとする説もある。天正19年(1591年)、水はけが悪かったため元親は3年で大高坂山城を捨て、桂浜に近い浦戸に浦戸城を築いた。ただし、元親が大高坂山城を捨てたとする見解は山内氏支配下の江戸時代の二次史料で初めて登場したものであること、浦戸城の規模の小ささや浦戸移転後も大高坂周辺の整備が進められていた形跡があることから、浦戸城は朝鮮出兵に対応した一時的な拠点に過ぎず、大高坂山城の整備も引き続き行われていたとする説もある。慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いにおいて元親の子・盛親は西軍に与して改易された。代わって、山内一豊が掛川城から転入し、土佐国一国24万2千石を与えられ、浦戸城に入った。慶長6年(1601年)8月、浦戸は城下町を開くには狭いため、一豊は長宗我部氏が一旦築城を断念した大高坂山の地に新城を築くこととしたが、同地は浦戸湾に面した地の利があるが、当時、同地周辺は湿原が広がるデルタ地帯で、長宗我部氏が断念したほどの水害の難所であり、山内家の技術では困難が予想された。一豊は関ヶ原の戦いでの罪人とされ、京都で蟄居処分となっていた百々綱家(旧織田秀信家老)の赦免と雇用を徳川家康に嘆願し、これが認められた。一豊と同郷近江の出身の百々は石垣技術に優れた近江穴太衆を配下に持ち、築城技術に優れていたと伝わる。6千石で召し抱えた百々を総奉行に任じ、築城と城下町整備の全権を委ねた。翌月より百々は大工頭、鍛冶頭、築壁造頭らを率いて、大高坂山に本丸の造営と、城下町の整備のために鏡川・江ノ口川など川の治水工事に着手した。木材は同国内から、石垣は浦戸城のものも流用し、瓦は上方に発注した、とされている。その他専門の職人は大坂から雇用し、人足には山内家家臣団も利用された。子供も工夫として参加させ、賃金も支払われた。一日の参加人数は1200人を越えたと伝わる。冬の寒い時期は粥などの炊き出しを行い、月の明るい夜は夜通しの工事も行われた。慶長8年(1603年)1月、本丸と二ノ丸の石垣が完成。旧暦8月には本丸が完成し、一豊は9月26日(旧暦8月21日)に入城した。この際に、真如寺の僧・在川(ざいせん)により、河中山城(こうちやまじょう)と改名された。慶長15年(1610年)、度重なる水害を被ったことで、2代目藩主忠義は河中の表記を変更を命じ、竹林寺の僧・空鏡(くうきょう)によって高智山城と改名した。この時より、後に省略されて高知城と呼ばれるようになり、都市名も高知と呼称されるようになった。慶長16年(1611年)、難関であった三ノ丸が竣工し、高知城の縄張りが全て完成した。享保12年(1727年)、高知城下は大火にみまわれ、城は追手門以外の殆どが焼失した。現在見られる建造物の大半は、こののちに再建されたものである。南北に千鳥破風、東西には唐破風をつけた安土桃山時代の様式である。最上階の高欄は、徳川家康の許可を得て造ったものといわれている。創建時のものは享保12年(1727年)に焼失し、延享4年(1747年)に焼失以前のものを忠実に再建されたものといわれており、高欄を設けるなどのやや古風な形式(復古型)をとっている。独立式望楼型4重6階、1重目の屋根を腰庇として3重6階と数えられることもある。窓は突上窓と連子窓、天守台がなく本丸上に、直に礎石を敷き御殿に隣接して建てられており、このような本丸を最後の防衛拠点とする構えは慶長期の城にみられるものであるという。平面寸法は、初層と2層を総二階造りで8間×6間、3層と4層を4間四方とし、5層と最上層は3間四方である。高さは18.5m。国の重要文化財に指定されている。天守に隣接して造られている。築城された当初、二ノ丸御殿ができるまで、山内一豊と見性院が暮していた。門の入り口は枡形の巨大な石垣で囲まれていて、敵を3方から攻撃できるようになっている。江戸時代からの現存である。かつては二階建ての門があり、鉄板を打ち付けた扉があった。門を入ると枡形になっていて、詰門へと続いている。本丸とその北側にある二ノ丸の間にかけられた櫓門で、二階は二の丸と本丸を結ぶ廊下橋となっている。一方、一階部分は敵がまっすぐに通り抜けられない構造で、東側の入り口から入ると本丸西側の梅ノ段に抜けるように作られており、本丸につながっていない。重要文化財指定は以下の15棟。城内には関連する人物の銅像がある。

出典:wikipedia

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