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足利義満

足利 義満(あしかが よしみつ)とは、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。正平13年/延文3年(1358年)8月22日、京都春日東洞院にある幕府政所執事の伊勢貞継入道照禅の屋敷で生まれる。尊氏の死からちょうど100日目のことである。幼児期は伊勢邸で養育された。義満は長男ではなかったが、義詮と正室の渋川幸子との間に生まれていた千寿王は夭折してその後幸子との間に子は無く、義満誕生の前年にも義詮と紀良子の間には男子(名前不明)が生まれていたが、義満は嫡男として扱われた。義満が幼少のころの幕府は南朝との抗争が続き、さらに足利家の内紛である観応の擾乱以来、幕政をめぐる争いが深刻さを増していた。やがて政争で失脚した細川清氏などの有力武将が南朝勢力に加担し、正平16年/康安元年(1361年)12月には細川清氏や楠木正儀、石塔頼房らに京都を占領され、義詮は後光厳天皇を奉じて近江に逃れ、義満はわずかな家臣に守られて建仁寺に逃れた後、北野義綱に護衛されて赤松則祐の居城・播磨白旗城への避難を余儀なくされた。この後しばらくの間、則祐により義満は養育される。翌年、幕府・北朝側が京都を奪還したため帰京しているが、帰途で摂津に泊まった際にその場所(明石・須磨あたり)の景色がよいことを気に入り、「ここの景色はよいから、京都に持って帰ろう。お前達が担いで行け」と家臣らに命じ家臣らはその気宇壮大さに驚いたという。京都に帰還した義満は新しく管領となった斯波義将に養育され、正平19年/貞治3年(1364年)3月に7歳で初めて乗馬した。正平20年/貞治4年(1365年)5月には矢開の儀を行ない、6月には七条の赤松則祐屋敷で祝儀として馬・鎧・太刀・弓矢等の贈物を受けるなど、養父である則祐とは親交を続けた。正平21年/貞治5年(1366年)12月7日には後光厳天皇から名字を義満と賜り、従五位下に叙せられた。義満の名字には義満と尊義の2つがあったが、柳原忠光により義満が撰ばれたという。貞治5年/正平21年(1366年)8月に貞治の変が起こって斯波高経・義将父子が失脚すると、叔父の足利基氏の推挙により細川頼之が後任の管領に任命された。この頃の義満は祖母の赤橋登子の旧屋敷に移ったり、赤松則祐の山荘に立ち寄ったりしている。正平22年/貞治6年(1367年)11月になると父・義詮が重病となる。義詮は死期を悟り、11月25日に義満に政務を委譲し、細川頼之を管領として義満の後見・教導を託した。朝廷は12月3日に義満を正五位下・左馬頭に叙任した。12月7日に義詮は死去し、義満が第3代将軍として足利将軍家を継いだ。1368年(正平23年/応安元年)に評定始が行われ、4月には管領細川頼之を烏帽子親として元服が行われた。このとき、加冠を務める頼之を始め、理髪・打乱・泔坏の四役を全て細川氏一門が執り行った。1369年(正平24年/応安2年)には正式に将軍に就任した。幕政は管領細川頼之をはじめ、足利一門の守護大名が主導することにより帝王学を学ぶ。頼之は応安大法を実施して土地支配を強固なものにし、京都や鎌倉の五山制度を整えて宗教統制を強化した。また南朝最大の勢力圏であった九州に今川貞世(了俊)・大内義弘を派遣して、南朝勢力を弱体化させ幕府権力を固めた。1374年(文中3年/応安7年)には日野業子を室に迎えた。さらに京都の支配を強化するために、1370年(応安3年)に朝廷より山門公人(延暦寺及びその支配下の諸勢力及びその構成員)に対する取締権を与えられた。1375年(永和元年)、二十一代集の20番目にあたる新後拾遺和歌集は義満の執奏により後円融院が勅撰を下命した。1378年(天授4年/永和4年)には、邸宅を三条坊門より北小路室町に移し、幕府の政庁とした。移転後の幕府(室町第)はのちに「花の御所」と呼ばれ、今日ではその所在地により室町幕府と呼んでいる。義満は、朝廷と幕府に二分化されていた京都市内の行政権や課税権なども幕府に一元化するとともに、守護大名の軍事力に対抗しうる将軍直属の常備軍である奉公衆を設け、さらに奉行衆と呼ばれる実務官僚の整備をはかった。1382年(永徳2年)には開基として相国寺の建立を開始し、翌年には自らの禅の修行場として塔頭鹿苑院も創建する。1385年(元中2年/至徳2年)には東大寺・興福寺などの南都寺院を参詣、1388年(元中5年/嘉慶2年)には駿河で富士山を遊覧し、1389年(元中6年/康応元年)には安芸厳島神社を参詣するなど、視察を兼ねたデモンストレーション(権力示威行為)を行っている。1379年(天授5年/康暦元年)、義満は反頼之派の守護大名である斯波義将や土岐頼康らに邸を包囲され頼之の罷免を求められ、頼之は罷免される(康暦の政変)。後任の管領には義将が任命され、幕政の人事も斯波派に改められる。頼之に対しては追討令が下されるが翌年には赦免されて宿老として幕政に復帰しており、また政変後に義満の将軍権力が確立している事から斯波・細川両派の抗争を利用して相互に牽制させていたと考えられている。頼康の死後、分裂して争う土岐氏の内紛につけ込んで土岐氏を討伐した(土岐康行の乱)。1391年(元中8年/明徳2年)には山名氏の内紛に介入し、11か国の守護を兼ねて「六分一殿」と称された有力守護大名・山名氏清を挑発して挙兵させ、同年12月に討伐する(明徳の乱)。また、義満は1378年(天授4年/永和4年)3月に右近衛大将に任ぜられ(征夷大将軍と近衛大将兼務は惟康親王以来)、5か月後には権大納言を兼務して以後、朝廷の長老である二条良基の支援を受けながら、公家社会の一員として積極的に参加する姿勢を見せる。翌年8月14日、十市遠康ら南朝方武家に奪われた寺社領の返還を求める興福寺の大衆が春日大社の神木を奉じて洛中に強訴に及んだ。摂関家以下藤原氏系の公卿は神木の神威を恐れて出仕を自重して宮中行事が停滞する中、義満は自分が源氏であることを理由に出仕を続け、1380年(天授6年/康暦2年)には一時中断していた御遊始・作文始・歌会始などを立て続けに大々的に再興して反対に大衆を威圧した。このため、同年12月15日に大衆と神木は幕府の十市討伐の約束以外に具体的な成果を得ることなく奈良に戻り、歴史上初めて神木入洛による強訴を失敗に終わらせて寺社勢力に大打撃を与えた。もっとも、年が明けると幕府は興福寺に使者を派遣してこれまでになかった直接対話を行って興福寺側の要望を訊き、延暦寺に対しても幕府との直接交渉ができる山門使節の設置を認め、所領興行や仏事再興にも取り組むなどの硬軟両様の使い分けを行っており、後に義満が1385年(元中2年/至徳2年)に南都参詣(前述)に行った際には南都の僧侶たちはこれをこぞって歓迎し、1394年(応永元年)に延暦寺ゆかりの日吉社参詣を行った際にも延暦寺から参詣費用の献上が行われて義満も御礼に堂舎を寄進している。義満は祖父・尊氏や父を越える内大臣、左大臣に就任し官位の昇進を続けた。1383年(弘和3年/永徳3年)には武家として初めて源氏長者となり淳和・奨学両院別当を兼任、准三后の宣下を受け、名実ともに公武両勢力の頂点に上り詰めた。摂関家の人々にも偏諱を与えるようになるなどその勢威はますます盛んになり、掣肘できるものは皆無に等しかった。また、これまで院や天皇の意思を伝えていた伝奏から命令を出させ、公武の一体化を推し進めた。これら異例の措置も三条公忠が「先例を超越した存在」と評したように、公家側も受け入れざるを得ず、家礼となる公家や常磐井宮満仁王のように愛妾を差し出す者も現れた。1392年(元中9年/明徳3年)には南朝勢力が全国的に衰微したため義満は大内義弘を仲介に南朝方と交渉を進め、持明院統と大覚寺統が交互に即位する事(両統迭立)や諸国の国衙領を全て大覚寺統の所有とする事(実際には国衙領はわずかしかなかった)などの和平案を南朝の後亀山天皇に提示し、後亀山が保持していた三種の神器を北朝の後小松天皇に接収させて南朝が解消される形での南北朝合一を実現し58年にわたる朝廷の分裂を終結させる(明徳の和約)。義満と対立して後小松天皇に譲位していた後円融上皇が1393年(明徳4年)に死去し、自己の権力を確固たるものにした義満は1394年(応永元年)には将軍職を嫡男の足利義持に譲って隠居したが、政治上の実権は握り続けた。同年、従一位太政大臣にまで昇進する。翌年には出家して道義と号した。義満の出家は、征夷大将軍として武家の太政大臣・准三后として公家のそれぞれの頂点に達した義満が、残る寺社勢力を支配する地位をも得ようとしたためであると考えられている。義満の出家に際して、斯波義将をはじめ多くの武家や公家が追従して出家している。1395年(応永2年)には九州探題として独自の権力を持っていた今川貞世を罷免する。1399年(応永6年)には西国の有力大名・大内義弘を挑発し義弘が堺で挙兵したのを機に討伐し(応永の乱)、西日本で義満に対抗できる勢力は排除された。義満は若年の頃から明への憧憬を深く抱いていた。その例としては、1394年(明徳5年)に行われた改元の議の際の出来事があげられる。義満は明の太祖・洪武帝の治世にあやかって日本の元号にも「洪」の字を使うよう工作した。しかし、洪の字は洪水につながり、また不吉であるとして公家達が反発したため実現せず、応永の元号が用いられることとなった。機嫌を損ねた義満は、自分の生きている間には元号を変えさせなかった。ただし、これについては異説もあり、1408年(応永15年:義満死去に伴う)と1413年(応永20年:称光天皇即位に伴う)に出された改元の議を阻止し、自分が生きている間には元号を変えさえなかったのは息子の義持であるとする指摘もある。また、義満の改元への影響力は強かったものの、その立場自体は同時代の太政官に列する公卿の範疇でしかなく(「洪徳」不採用もその反映とする)、その発言力も戦国期の将軍(義稙・義晴)よりは低かったとする指摘もある。いずれにしても、その結果として応永年号は35年と、明治以前では最も長い元号となった。義満は明との正式な通交を望んでいた。しかし1374年(応安7年)の遣使では、明側は南朝の懐良親王を「日本国王良懐」として日本における唯一の正規な通交相手として認めていた事と、天皇の臣下(全ての民の君主である中国皇帝から見て、その家臣である天皇の家臣は陪臣)との通交は認めない方針のため、幕府の交渉は実らなかった。1380年(康暦2年)にも「日本国征夷将軍源義満」名義で交渉を始めようと試みるが、これも天皇の家臣との交渉は受けないとの理由と、宛先を丞相にしたという理由で入貢を拒まれている。そこで義満は応永元年12月(1394年)に太政大臣を辞し、出家した。これにより義満は天皇の臣下ではない自由な立場となった。1401年(応永8年)、「日本国准三后源道義」の名義で博多の商人肥富(こいとみ、こいつみ・こいずみとも)と僧祖阿を使節として明に派遣する。懐良親王の勢力はすでに没落しており、建文帝は義満を日本国王に冊封した。同時に明の大統暦が日本国王に授与され、両国の国交が正式に樹立された。日本国王が皇帝に朝貢する形式をとった勘合貿易は1404年(応永11年)から始まり、また明に要請されて倭寇を鎮圧している(なお、返礼の使者を送るまでに靖難の変が起き、建文帝から永楽帝に皇帝が変わっていた)。遣唐使の廃止以来、独自の政策を採っていた公家社会では、明皇帝の臣下となる朝貢貿易に対して不満や批判が多くあったが、義満の権勢の前では公の発言ができず日記などに記すのみであった。1397年(応永4年)には西園寺家から京都北山の「北山弟」(ほくさんてい)を譲り受け、舎利殿(金閣)を中心とする山荘(「北山第」(きたやまてい)または「北山殿」(きたやまどの)、後の鹿苑寺)を造営した。1399年(応永6年)春以降、義満は本格的にこの山荘に移り住み、活動の拠点としていく。この時代の文化を、武家様・公家様・唐様(禅宗様)が融合した北山文化と呼ぶことも多い。応永15年(1408年)4月27日、義満は病に倒れた。4月28日には見舞の人にも対面しなかった。4月29日、医師の坂士仏の治療により快方に向かったが、5月1日には悪化した。このため、将軍の義持は山科教冬を遣いに送り、諸寺に義満快癒の祈祷を命じた。その他にも管領などにより義満快癒の様々な催しが行なわれている。しかし5月4日に危篤となり、昼頃には一旦事切れたかに見えたが夕方になって蘇生した。5月5日は平静を保ったが、5月6日の申刻過ぎから酉刻近くに遂に死去した、享年51(満49歳没)。法名は鹿苑院天山道義。等持院で火葬された義満の遺骨は、相国寺塔頭鹿苑院に葬られた。以後相国寺は足利将軍の位牌を祀る牌所になったが、天明の大火で灰燼に帰して衰微した。鹿苑院に至っては明治になってから廃仏毀釈のあおりで廃寺の憂き目に遭う。そのため義満の墓所はその正確な位置が不明となってしまったが、位牌は足利家と縁の深かった臨川寺に移され安置されている。義満の死後には朝廷から「鹿苑院太上法皇」の称号を贈られるが、4代将軍となった子の義持は斯波義将らの反対もあり辞退している(その一方で相国寺は受け入れたらしく、過去帳に「鹿苑院太上天皇」と記されている)。永楽帝は義満を評価しており、その死の翌年に弔問使を日本につかわし「恭献」という諡を送っている。この関係は義満の跡を継いだ足利義持が1411年に明の使者を追い返すまで続いていた。義満は生前から義持と折り合いが悪かったとされ、対朝廷・公家政策、守護大名統制政策、明との勘合貿易などの外交政策をはじめとする義満の諸政策は義持によって一旦は否定された。また義満の遺産である北山第も金閣を除いて義持によって破却された。義持は義満が偏愛した義満の次男・義嗣が出奔した際に、謀反を企てたとして殺害している。のちに義嗣の子孫は越前に下り、子孫は鞍谷御所と呼ばれるようになった。6代将軍となった子である義教は義満の政策を踏襲した施政を始めるが、嘉吉の乱で赤松満祐に暗殺されたことで頓挫する。孫の8代・義政も祖父や父の政治を引き継ごうとしたが、応仁の乱や側近政治の中で嫌気が差し政権運営への情熱をなくしてしまう。また義満の治世に従順であった有力守護大名も、再び幕府に対して反抗的な態度を取り始める。今川了俊は『難太平記』において大内義弘が「今御所の御沙汰の様、見及び申す如くば、よはきものは罪少なけれども御不審をかうぶり面目を失うべし。つよきものは上意を背くといえどもさしおかれ申すべき条、みな人の知る所なり(義満様の政治を見ると、弱い者は罪が軽くても厳罰に処され、強い者は命令に背いてもそのままにされる。このことはみなが知っている)」と語ったと記録している。佐藤進一はこの「強きを助け、弱きを挫く」姿勢が義満の生涯を貫く政治テクニックだと評し、傲岸と卑屈さが同居した性格と評している。このことは義満の猶子である三宝院満済も日明交渉や大名に対する接し方が義持よりはるかに丁重であったと回想している。このほかにも義満から様々な冷遇を受けた了俊は「上の明にわたらせ給はぬ(上が賢明でない)」と、義満を激しく批判している。義満は当時としては珍しく時間厳守を非常に重んじた人物であり、遅刻する者を厳しく処分したという。永徳元年(1381年)7月23日の内大臣大饗に遅刻した御子左為遠が翌日の出仕で義満から追い出されたり、応永元年(1394年)の南都(興福寺)の常楽会では義満が夜明けから桟敷に座り込み、遅参した公家・武家の同席を許さなかった。また義満は自分や周囲の服装にも口うるさく、応永13年(1406年)に明使を迎えるために兵庫へ下向した際には裏松重光・山科教興らが当時の軽装である十徳を着用させられ、教興の父山科教言が「十徳の体、当世の風体」と嘆いている。自らは明使を応接する際には唐人の装束で歓待したという。また、朝廷においても毎月朔日の拝賀では武家装束の直垂を、中旬に行われる廻祈祷では公家装束である束帯の着用を指図しており、側近達は毎月直垂を新調していたという。田中義成、今谷明らは義満が皇位簒奪する意図を持っていたのではないかとする説を唱えており、これを受けて作家の海音寺潮五郎、井沢元彦らは義満の死は皇位簒奪を阻止するため暗殺されたのではないかとの意見を提示している。義満は早くから花押を武家用と公家用に使い分けたり、2番目の妻である康子を後小松天皇の准母(天皇の母扱い)ついで女院にしたり、公家衆の妻を自分に差し出させたりしていた。また祭祀権・叙任権(人事権)などの諸権力を天皇家から接収し、義満の参内や寺社への参詣にあたっては、上皇と同様の礼遇が取られた。1408年(応永15年)3月に北山第へ後小松が行幸したが、義満の座る畳には天皇や院の座る畳にしか用いられない繧繝縁が用いられた。4月には宮中において次男・義嗣の元服を親王に准じた形式で行った。これらは義満が皇位の簒奪を企てていたためであり、明による日本国王冊封も当時の明の外圧を利用しての簒奪計画の一環であると推測している。しかし、その後の研究では義満以降の日本国王号が日本国内向けに使用された形跡がないことから、国王号が朝廷に代わる権威としてではなく朝貢貿易上の肩書きに過ぎなかったと評価されている。なお、皇位簒奪とは義満みずからが天皇に即位するわけではなく治天の君(実権を持つ天皇家の家長)となって王権(天皇の権力)を簒奪することを意味している。寵愛していた次男、義嗣を天皇にして自らは天皇の父親として天皇家を吸収するというものである。暗殺説を取る者は、簒奪を阻止しようとした朝廷側による毒殺であると疑っている(井沢は著作で犯人を世阿弥と二条満基の共犯と推理)。また、他には義満の義嗣偏愛によって将来が不安視された義持の陣営による暗殺と見る説もある。しかし、当時の公家の日記などには義満の行為が皇位簒奪計画の一環であるとしたり、その死を暗殺と疑った記録はなく、直接の証拠はない。また、皇位簒奪計画の最大の障害になる筈である儲君躬仁親王が何らかの圧迫を受けていたとする記録も無い(井沢は、死後に太上天皇の名を贈られていることは、暗殺による義満の怨霊化を防ぐという怨霊信仰に基づくもの、としている)。今谷は義満は中国(明)の影響を強く受けていたが、易姓革命思想ではなく当時流行した『野馬台詩』を利用していたのではないかと推測する。この詩は予言として知られており、天皇は100代で終わり、猿や犬が英雄を称した末に日本は滅ぶと解釈できる内容だった。「百王説」と呼ばれる天皇が100代で終わるという終末思想は慈円『愚管抄』などに記録されており、幅広く浸透していたことが推測できる。鎌倉公方の足利氏満は申年(しかし現在では亥年生まれとされる)生まれ、義満は戌年生まれだから猿や犬とは2人のことであるという解釈もされていた。また井沢は、『源氏物語』をヒントにしているのではないかと推測している。石原比位呂は今谷説の批判を通じて、これまでの足利義満期の公武関係に関する研究の問題点を指摘し、義満は将軍の任命権者である(北朝)天皇の権威の回復のために朝儀の復興を原理原則に忠実かつ威儀厳重に催行されるべきという考えであったと指摘した上で、義満によって処罰された公家の多くはこの方針に反した者たちであったが義満の方針にもっとも反発したのは治天の君である後円融天皇(後に上皇)であったとする。このため、義満は自らの朝廷政策の実現のために後円融天皇を退位させてその権限を剥奪して新帝・後小松天皇の父代わりを演じる必要があったと推測し、今谷説は足利義満と後円融天皇の個人的対立を公武関係全体にまで広げた過大な解釈であると批判し、義満の「上皇化」も自己の朝廷政策を実現させるために対立した後円融天皇を排除して義満自身が後小松天皇の後見を行う必要性があったからだとしている。義満のとった措置は子の義持によって改められた。義満への太上天皇贈位は辞退され、義持に対し、公家達が義満と同様の礼を取ろうとした際も、義持は辞退している。ただし、その義持も義満の朝廷政策の全てを否定していた訳ではなく、義持の花押は公家様の花押しか伝えられておらず、公家の家門安堵に関与して後継者に偏諱を授与したり、称光天皇(躬仁親王)の御名を改めさせる(天皇の御名変更は義満ですらなし得なかった)など朝廷への影響力行使を続けており、天皇との直接的な距離は置きつつも朝廷に対する関与路線は継続されている。仮に簒奪計画があったとしても、それは義満一人の計画であり、義持や管領斯波義将を始めとする守護大名達は参画していなかった。近年では、王権簒奪説に対する批判が相次ぎ、もはやそのままでは成立しない学説となっている。※()=旧暦

出典:wikipedia

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