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国鉄キハ01系気動車

キハ01系気動車は、日本国有鉄道(国鉄)が1954年(昭和29年)から製造した小型気動車(レールバス)である。なお「キハ01系」という呼称は、同一の設計思想に基づいて製造された形式を便宜的・趣味的に総称したもので国鉄制式の系列呼称ではない。具体的にはキハ01形・キハ02形(←キハ10000形)、キハ03形(←キハ10200形)の3形式とキハ01形を改造したキユニ01形を指す。閑散ローカル線の収支改善と増発のため、バスの設計を鉄道車両に応用して製造されたもの。10m余りの車体にバス用のディーゼルエンジンを搭載した二軸車で、1954年(昭和29年)に試作車4両を木原線で使用開始、以後1956年(昭和31年)までに計49両が日本各地のローカル線に投入された。製造は全車両とも東急車輛製造が担当した。大手バス車体メーカーとしても知られた富士重工業は国鉄レールバスに影響を受けた形で、バス用規格鋼材を使用するなどのより徹底したバス部品を流用した設計の二軸機械式気動車を羽幌炭礦鉄道キハ11(1958年3月)、南部縦貫鉄道キハ10形(1962年)と続けて製造しているが、国鉄レールバスの製造には一切携わっていない。1953年(昭和28年)にヨーロッパを視察した当時の国鉄総裁・長崎惣之助が、西ドイツ(当時)でローカル線用に小型気動車「シーネンオムニブス(/シーネンオムニバス)= レールの乗り合いバス」が投入されて良好な成績を挙げていることに強い関心を抱いたことから、帰国後同様な小型気動車の開発を命じたといわれている。その影響か、形態はドイツのシーネンオムニブスに似た車高が低い4輪単車である。しかし長崎総裁の考えとは異なり、液体式変速の軽量車体による大型気動車開発と量産に重点を置いていた国鉄技術陣は、「レールバス」開発には必ずしも乗り気ではなかったという。当初、導入路線候補として挙がっていたのは戦時中に不要不急線として線路が撤去され休止中であった白棚線で、キハ10000形の限定運用を前提として路面電車のように車体にステップを取り付け、扉部だけ車体裾を引き下げた形状とし低いホーム高のまま使用することで営業再開に要するコストを引き下げる計画であった。ところが、白棚線は諸般の事情から路盤を専用道路に転用したバス路線として再出発することとなったため、キハ10000形は同様に白棚線で貨物列車牽引に充てられる予定であったDD11形ディーゼル機関車と共に急遽別の投入先を探すこととなり、こちらは扉部を一般仕様に改めた上で木原線に投入されることになった。本系列に含まれるのは下記の3形式計49両(改造車1形式1両)である。旧形式はキハ10000形で、12両 (10000 - 10011) が製造された。1次車の10000 - 10003は、1954年製の暖地向け仕様の試作車で屋根上に押込通風器が6個あり、車内の座席はオールクロスシート、1957年(昭和32年)の改番後はキハ01 1 - 4となった。新製配置から廃車まで、全車が千葉鉄道管理局管内で使用された。2次車の10004 - 10011は1955年(昭和30年)度製の寒地向け装備車で、押込通風器が4個となり床下には機関覆いが付き、車内乗降口付近はロングシート化されている。改番後はキハ01 51 - 58となった。当初は全車北海道内に配置されたが、耐寒耐雪構造をさらに強化したキハ10200形(→キハ03形)の登場後は、3両を除いて道外に転出し四国や山陰などでも耐寒装備を撤去し使用された。旧形式はキハ10000形で、1955年度製の3次車として17両 (10012 - 10028) が製造された。後述のように、1・2次車と車体構造は大きく異なるが、形式の区分はされなかった。10012 - 10022は寒地向け仕様、10023 - 10028は暖地向け仕様であるが、改番後の区分はされず、番号順にキハ02 1 - 17となった。寒地向け車は全車が北海道内に新製配置されたが、後にキハ02 11以外は道外に転出した。暖地向け車は全車が新製配置から廃車まで三江北線など中国・九州で使用された。旧形式はキハ10200形で、1956年度製の4次車として20両 (10200 - 10219) が製造された。二重窓となり北海道用の酷寒地仕様である。外観上はキハ02形暖地向け車にスノープラウ、ホイッスルカバー、それにエンジンカバー等が装備された点が異なる。改番後は、番号順にキハ03 1 - 20となった。全車が新製配置から廃車まで北海道内で使用された。1962年(昭和37年)にキハ01 55を郵便荷物車に改造したもの。本系列唯一の改造車で、改造後はキユニ01 1となった。三江北線で一般の液体式気動車に併結されて運用されたが、1966年(昭和41年)に休車ののち廃車された。車体は普通鋼製のセミモノコック構造で、全長10mである。前面窓は運転台を中央に置いたキハ01形が3枚窓、運転台を左側に設置したキハ02形、キハ03形が「湘南顔」の2枚窓であった。当初から1.2mm厚の薄い外板を用いて軽量化を図っていたが、初期12両に比し、以降の増備車は鋼板プレス部材の側柱を2.3mm厚→1.6mm厚に、天井板を1.2mm厚から0.9mm厚に削減し、さらなる軽量化を進めている。窓・扉配置は当初ワンマン運転を考慮して設計されたキハ01形は、乗降用扉を車体前後端に寄せて片側2箇所に設けた1D8D1とされたが、労働組合の猛反対でワンマン化を断念した後に製造されたキハ02形およびキハ03形は、乗降用扉を車体中央部に片側1か所設けた14D131と大幅に変更された。いずれも客用扉はバス用の2枚折戸を使用し、客用窓は上段がHゴム支持の固定式で下段が上昇式のいわゆる「バス窓」であった。キハ01形の両端窓各1枚は狭幅の三角窓、キハ02形、キハ03形の両端窓各1枚分は2枚構成の引き違い窓、そして中央客用扉横の車掌台窓は落とし込み式の下降窓となっていた。なお寒冷地仕様のキハ03形は、防寒を目的に側窓を二重窓とされた。室内灯・通風器はバス用汎用部品の流用であった。屋根高さはバスの車体に準じて3mと低く抑えられたが、ホーム乗降の都合で車体幅は一般気動車並とされたため、小柄な割に幅広に見える外観デザインであった。座席は当時の路線バスと同様、背ずりの低いベンチのような構造でトイレも設置されていなかったため、長距離運行には適さない設計であった。車内の内張りはペンキ塗りの薄ベニヤ板であったことは同時期の大型気動車と同様である。暖房は、排気ガスの廃熱を用いていて熱量不足であった同時期の大型気動車より一歩進んでおり、当初はラジエーターからの冷却水廃熱による温風暖房を採用していた。さらに北海道用グループは改良型の大型気動車同様に軽油燃焼式の強力な温気暖房器(ウェバスト式温風暖房装置)を装備、この暖房装置を利用してフードで覆われたエンジン周りも温め、凍結を防ぐ配慮が加えられていた。連結器は軽量化のため、同時期の液体式気動車で標準装備となっていた小型密着自動連結器ではなく、戦前設計の機械式気動車に倣った簡易式連結器を装備した。これは自動連結器との相互連結が可能ではあったが、連結時の動作は非自動であって、人手でピンを抜き差しする必要があり、強度も低く落とされていた。なお後年、四国で運用された一部の車両については、自動車用部品を流用した鋼板製バンパーが車体前面裾部に後付けされたが、この程度の軽量車両で実効性のある安全対策となり得たかどうかは疑わしい。エンジンは、試作車4両が日野ヂーゼル工業製のアンダーフロアバス「ブルーリボン」用として開発された水平シリンダ式直列6気筒のDS21形(日野の呼称では「型」、連続定格出力60ps/1,200rpm)を搭載、以後は強化形であるDS22(連続定格出力75ps/1,700rpm)に変更された。白棚線では低いホームからの乗車が計画されていたことでも判るように、この系列のエンジンの採用は車両床面高さの引き下げが主眼であった。変速機はバス用トランスミッションを流用し、クラッチも同様である。従って、動力伝達機構の種別としては機械式である。車軸と台枠で支持される逆転機のみはバスには存在しない機器であり、既存気動車用の流用では車両サイズに比して容量・重量とも過大であるため、新たに小型のものが設計された。製造コストを抑えるため、計画当初より総括制御は放棄され、当然ながら連結運転時には各車に運転士が乗り込む必要が生じた。足回りは当時の二軸貨車に準じた構造の二段リンク式板ばね軸箱支持で、旅客用ゆえにばね定数は柔らかく設定されていたが、それ以外は全く貨車同然の設計であり、座席が粗末なことも相まってその乗り心地は良くなかった。制動装置には重量のかさむ鋳鉄制輪子による踏面ブレーキを止め、自動車同様のドラムブレーキを各車輪の外側に装備した。この系列はローカル線の列車増発による利便性向上には寄与したが、実用上は問題点が多かった。最大の欠点は、車体があまりに小さくラッシュ時や不意の乗客増に対応することができなかったことである。製造や開発のコスト抑制のため総括制御機能が搭載されなかったことから、重連運転を実施するためには各車に運転士が乗り込む必要が生じ、結果的に運転に関する人件費のコスト増を招くこととなった。そのため、ラッシュ時用に大型の一般型気動車を併用する不合理が生じるようになった。また足回りは、重ね板ばねと二段リンク式板ばね軸箱支持の固定軸と貨車と大差ないレベルで、びびり振動と車内に伝わる騒音が激しく乗り心地も良くなかった。軽量化のため座席は簡素化されており、サイズが小さく掛け心地も悪かった。そのうえ、トイレを持たないことから長距離運転には適さず汎用性に欠けた。西ドイツのシーネンオムニブスは、車両重量が約13tで出力110-150PSを1基、もしくは約20tで130-150PSを2基と重量の割に比較的強力なエンジンを搭載しており、また重連総括制御が可能であったため、ラッシュ時でも運転士を補充せず自在に動力車同士の長編成を組成することが可能で、必要に応じてトレーラを牽引したり、付随車、制御車と最大6両程度の編成を組んで、柔軟に輸送力を調整することもできた。さらに小型車ながらもトイレを装備し、座席は簡易的なものながら転換式クロスシートとして一応は長時間の乗車に堪えうる設備を備え、2軸車ながらコイルばねもしくは空気ばねによる枕ばねを装備しており、乗り心地にも配慮していた。しかるに日本の国鉄レールバスでは、シーネンオムニブスにおけるそれらの長所がほとんど欠落していたのである。キハ01系と西ドイツのシーネンオムニバスの代表的な形式であるVT95型およびVT98型との比較は下表のとおり。車体構造そのものもバスに準じた設計であったため、耐用年数が短く老朽化が早期に進行した。前述のとおり使い勝手の悪さもあって、臼ノ浦線での運用を最後に1968年(昭和43年)までに全車が廃車され、後述の保存車以外は全て解体処分された。私鉄や日本国外に譲渡された車両もなかった。もともとレールバスで事足りる輸送量しかない線区であれば、本物のバスに転換したほうがよいとの意見も根強く("赤字83線も参照" )、またこの方式の根本的な技術開発も行われなかったため、本系列の直接の後継車が製造されることはなかった。前述のように富士重工業が同様にバスの設計に準拠する車体を備えた羽幌炭礦鉄道キハ10形(1959年)1両・南部縦貫鉄道キハ10形(1962年)2両の合計3両を製造した後、日本の鉄道事業者においては「レールバス」のコンセプトは顧みられることもなく長く等閑され続ける結果となった。再認識されることになったのは、国鉄合理化が真剣に議論されるようになった1982年(昭和57年)に、やはり富士重工業の手でLE-Carとして再度バスの設計を流用した小型気動車が設計・試作されて以降である。もっとも1984年(昭和59年)以降、実際に第三セクター鉄道や名古屋鉄道・近江鉄道に導入された富士重工業の4輪小型LE-Carは、ラッシュ時輸送力不足への対処の限界や踏切警報装置とのマッチングの悪さ(軽量すぎて、時々警報装置が作動しない問題点があった)を露呈して、早々により大きなボギー式気動車・電車に置き換えられ、このクラスの小型旅客気動車は日本の鉄道で運用し難いという厳しい現実を実証してしまった。なお、富士重工業は2002年に鉄道車輌製造から撤退した。キハ03 1が廃車後旭川車両所に保存され、1967年(昭和42年)に準鉄道記念物に指定された。2011年現在は小樽市総合博物館(鉄道・科学・歴史館)に保存されている。キハ02 9が肥前池野駅跡に保存され児童図書館となったが数年で荒廃し、1983年(昭和58年)頃解体された。

出典:wikipedia

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