DD54形ディーゼル機関車(DD54がたディーゼルきかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1966年から設計・製造した亜幹線用液体式ディーゼル機関車である。国鉄の幹線・亜幹線用ディーゼル機関車としては既にDD51形が実用化されていた。DD51形では1,000馬力級エンジンを2基搭載として大出力を得たが、1950年代後半以降、ヨーロッパの各国国鉄では西ドイツ国鉄V160形(後の216形。2,000馬力機関搭載)やベルギー国鉄200形(2,000馬力機関搭載)、フランス国鉄BB67000形(2,400馬力機関搭載)など、2,000馬力から2,700馬力程度の出力のディーゼルエンジンを1基搭載し、車両重量の軽減・保守の容易化・製造コストの削減を狙った設計の本線用ディーゼル機関車の量産が行われており、日本でも注目されていた。しかし、この時代の日本においては、車載可能なクラスの2,000馬力級ディーゼルエンジンの製作経験がなく、またこのクラスの単一機関出力に対応するトルクコンバータを自力で設計・製造することも技術的に困難であった。そのような状況下で、三菱重工業が当時、液体式ディーゼル機関車の設計製作で先進国であった西ドイツ(当時)のメーカーからライセンス供与を受けて技術を導入、まず1962年に西ドイツから輸入され、無分解運用が可能と謳われた1,820馬力級ディーゼルエンジン、およびこれに対応し自動変速を可能とした液体式変速機を搭載したDD91形を試作製造。同機は1965年まで国鉄に貸し出されて山陰本線の京都 - 園部間などで試験運用された。同形式は試験終了後国鉄籍に編入されずそのまま三菱重工業に返却された。試験結果が好成績であったこと、さらに同等の車両がイギリスでも導入・運用されていた実績から、これを基本とした亜幹線用液体式ディーゼル機関車が量産されることとなり、本形式が設計された。ただ実際の運用に入ると、当時の日本では手に余る技術であった事にくわえ、西ドイツ側との連携不足などもあり、トラブルを頻発させていた。そのためいずれの個体も法定耐用年数(18年)を終えず運用を離脱している。結果、失敗機関車との烙印を押され、国鉄の資産運用について国会で質疑応答が行われる事態にまで発展した。1966年に試作車としてDD54 1 - DD54 3の3両が製造され、各種試験に供された後、1968年から1971年までの4年間にDD54 4 - DD54 40の37両が量産車として製造。西ドイツ側メーカーと三菱重工業がライセンス契約を結び、国内で製造を行った。その開発経緯から、全車とも三菱重工業が製造を担当しており、製番は順に1389 - 1391・1485 - 1489・1631 - 1640・1738 - 1744・1750・1751・1753・1765 - 1776となる。なお、わずか4年間に集中して37両が製造されたにもかかわらず製番が連続せず、かなり細かく細分化されている。これは当時の三菱重工業三原製作所が国鉄向けの他形式の機関車も国鉄から受注・生産していたためであり、欠落部分の番号の大半はそれらに割り当てられている。ライセンス生産となったエンジンや変速機については契約上、日本側での設計変更や改造は認められておらず、あくまで製造のみが認められていた。この事項が同機関車の運命を決定づける要因になった。車体は前後に運転台を配した「箱形」である。試作車にあたるDD91形ではいわゆる湘南形の、2枚窓構造の運転台を備えた平凡な構造・形状であったが、本形式に先行して設計・製造されたED72形・ED73形交流電気機関車と同様に窓下を突出させた「くの字」状の前面形態が採用され、車体断面も側板の上半分を内側に傾斜させた、ヨーロッパ調の独特のエクステリアデザインとなっている。重連運用は想定していないため正面貫通扉は装備せず、総括制御に必要な釣り合い管や制御用ジャンパー線などを設置していない。製造時期により外観は前灯の位置と前面窓の形状が異なるほか以下の相違点がある。大別で上述3タイプ、各部仕様で細分すると1 - 6次車に区分される。西ドイツのメーカーからのライセンス供与を受けて製作されたエンジン・変速機を搭載するが、動力台車や蒸気発生装置、それにブレーキシステムは同時期製作のDD51形やDE10形などとの部品の共通化が図られている。本形式は軸重上限の低い亜幹線での使用を前提とし、動軸重軽減のため軸配置を B-1-B とした。一般的なアウトサイドフレーム(外側台枠)式の軸ばね台車を装着していたDD91形とは異なり、2軸インサイドフレーム(内側台枠)式台車であるDT131B(DD54 1 - DD54 3)あるいはDT131E(DD54 4 - DD54 40)を装着する。これらは1965年設計のDD53形用DT131の派生機種にあたり、最終減速機の歯数比が本形式と同じ1966年に設計されたDE10形試作車(DE10 1 - DE10 4)用DT131Cと同じ4.482となっているなど、極力他形式と共通の部品を採用することで保守の合理化を図っている。なお、量産車が装着するDT131Eは、DE10形基本番台(DE10 5以降)および500番台などに採用されたのと全く同一品である。2台の動力台車の間にTR104(DD54 1 - DD54 3)あるいはTR104A(DD54 4 - DD54 40)と呼称する、リンクにより横動を許容される構造の1軸中間台車を装着する。量産車でのサフィックス付与は、試作車用のTR104で台車装架であったATS車上子が車体床下装架に変更になった事に伴う設計変更を反映したものである。この中間台車の装着により、本形式は自重約70tの大型機でありながら軸重は約14tに抑えられ、4級線への入線が可能となっている。使用想定線区の実輸送量に鑑み、DD51形よりやや出力を抑えた設計もDD91形から継承された。搭載機関は西ドイツマイバッハ社(Maybach=現・MTUフリードリヒスハーフェン)設計によるMD870を三菱重工業がライセンス生産を行ったDMP86Z、液体変速機は爪クラッチを介在させた4段変速機構をもつDW5で、同じく西ドイツのメキドロ社(Mekydro)が設計したK184Uのライセンス生産品である。この変速機構のため、力行中の変速進段時に一旦エンジン回転数が下がる変速音を発しながら加速するという独特の走行音であった。同時期の国鉄ディーゼル機関車で標準となっていた、DL14Aブレーキ装置を搭載する。旅客列車牽引運用への対応として、全車が列車暖房用蒸気発生装置(SG)を搭載する。SGはDD54 1 - DD54 3がDD51形初期車と共通のSG4、DD54 4 - DD54 24がこれを改良して蒸気発生量を増大させたSG4A、そしてDD54 25 - DD54 40がSG4Aを完全自動運転方式に改良したSG4A-Sをそれぞれ搭載する。いずれも同時期製作のDD51形に搭載されたものと同一設計品で、縦型水管式ボイラーを備える機種である。1968年6月28日に山陰本線鳥取 - 湖山間の岩吉踏切付近で急行「おき」を牽引中だったDD54 2の推進軸(ユニバーサルジョイント)が突如破損落下。続いて1969年11月にも山陰本線浜坂 - 久谷間の勾配力行中などのDD54 11・DD54 14が床下から出火。これは全検から間もない時期だったにも関わらず、落下した推進軸が出火の原因であった。このように推進軸に起因するトラブルが続けて発生したことから、1970年より既存の本形式について推進軸の強化や脱落防止を行っている。1972年に新設の寝台特急「出雲」牽引用として本形式が抜擢され、前年に8両が新製配置されたばかりの米子機関区所属車の内、DD54 32 - DD54 37の6両が同列車の牽引機に指定された。この当時、「出雲」に使用される20系客車は在籍全車が110km/h運転に対応するために、応答性能の高いAREB増圧装置付き電磁自動空気ブレーキ搭載に改造済みであった。しかも電源車以外の全車が圧縮空気の消費量の多い空気ばね台車を装着するため、同系列の牽引には編成増圧ブレーキ機能と空気ばねへの空気圧供給源として元空気溜管(MRP)引き通しを実施するなどの改造工事を施工する必要があった。このため、「出雲」牽引機に指定された6両はMRP引き通しが施工され、さらにヘッドマーク装着を可能とするため、妻面腰板部中央にヘッドマーク固定用金具の追加設置を実施している。1966年に先行試作車であるDD54 1 - DD54 3の3両が福知山機関区(現・福知山電車区)に新製配置された。これらの運用結果が良好だったために本格量産が決定した。1968年から1971年までに量産車37両が順次落成し、全40両の内DD54 1 - DD54 29・DD54 38 - DD54 40の32両が福知山機関区に、DD54 30 - DD54 37の8両が米子機関区(現・後藤総合車両所)に、それぞれ配置された。本形式はその新製時の計画通り、当時山陰本線・播但線・福知山線などの列車牽引運用に用いられていたC57形・C58形等の蒸気機関車を置換え、当該路線群における無煙化を促進した。1968年10月6日にはDD54 1(本務機)・DD54 3(前補機)の2両が、福井国体開催に合わせて運行されたお召し列車の牽引に供された。1970年より、重大なトラブルを招いていた推進軸の交換を進める。これ以降、初期のような致命的トラブルは発生しなくなっていった。1972年3月15日から京都 - 浜田間で、米子機関区配置機6両により寝台特急「出雲」牽引が開始された。しかし、この頃からエンジン本体や液体変速機側での故障が頻発するようになる。本形式の牽引する列車を当時残存していたC57形蒸気機関車が救援する、といった皮肉な事態すら発生するようになっていた。このため「出雲」運用への充当は2年で終了し、1974年には同運用のDD51形へ置き換えが実施された。さらに、本形式での故障頻発が運用・保守の両面で深刻な問題となっていたことと、DD51形が初期故障をほぼ克服し安定した稼動実績を確保していた状況から、本形式はDD51形で代替・淘汰されることが決定される。1975年から1977年にかけて山陰地区へ同形式の新造ならびに他地区からの転入が実施された。これにより、その時点で山陰本線用として配置されていたDF50形と本形式の淘汰が実施され、本形式は1976年6月30日に12両、1977年1月17日に10両、同年11月21日に10両 、1978年5月11日に4両が廃車された。最後に残った4両も1978年6月18日の播但線645列車を最後に運用から離脱し、同年8月に休車。同月11日に一旦全車廃車となった。しかし、DD54 12とDD54 33については一旦廃車の後、何故か車籍復活の手配がとられ、同年12月1日に改めて廃車された。これをもって本形式は形式消滅となっている。休車・廃車車両は解体まで鷹取工場・福知山駅・東舞鶴駅・生野駅構内に留置された。本形式に搭載されたDMP86Zは精緻な設計と構造を有していたが、出力あたり重量は4kg/PS程度で、国産のDML61Z型の5kg/PSを上回っていた。運用中も冷却水がシリンダ内に漏れるトラブルが稀に見られたものの、出力と耐久性には問題がないなど極めて優れた設計のエンジンであった。また、液体式変速機は常時歯車噛み合わせ式で直結段を持たないなど、日本国鉄が標準として採用していたフォイト社開発の充排油式とは異なる、機械式変速機に近い特徴的な機構を実現しており、全般的に西ドイツの工業製品らしい、精緻な技術の塊ともいうべきものである。もっとも、試作車のDD91形がエンジン・変速機共に西ドイツ製の純正品を搭載していたのとは異なり、本形式ではそれらをライセンス生産契約に基づき三菱重工業が製造した、日本製同等品が搭載されており、さらにDE10形などと台車を共通設計とした結果、最終減速機や推進軸周りの設計がオリジナルのDD91形とは異なったものとなっていた。機関は好調だったものの、後述するように、本形式の重大故障はDD91形の原設計から大きな変更が行われた推進軸と、緻密な設計の液体変速機など、機関の周囲に集中していた。西ドイツではMD870系列の機関はB-B(V160型)、C-C(V320型)の軸配置と組み合わせて使用されたが、本形式は軸重の関係でB-1-Bの変則的な軸配置とならざるを得なかった。車体内部の1エンド側にエンジンと変速機、2エンド側に蒸気発生装置(SG)を搭載しており、車体前後にある2軸駆動の動力台車を変速機からの推進軸(プロペラシャフト)で駆動させる方式であったが、2エンド側の動力台車へは、推進軸が中間の1軸台車の上を超えて延々に伸びた設計となっており、動力の引き回しのために機関の軽量高出力のメリットも損なわれていた。安易に他形式と仕様を共通化したことで、結果的にその車両寿命を著しく縮めることとなった。本形式は、変速機周りの構造が比較的単純であったDD51形などと比較して複雑で整備に非常に手間がかかるほか、故障となると配置車両基地の保守掛の手に負えず、三菱側保守担当者が常駐する鷹取工場へ回送して修繕を行う必要があった。また設計・構造についての不明点を西ドイツのメーカー本社へ問い合わせるなどの際にライセンス契約締結時に仲介を行った三菱商事の対応が悪く、またメーカー本社の回答も遅れて修繕が進展しないといった悪循環も発生した。この結果、国鉄の本形式に対する信頼は完全に失われた。以下で事故・故障のうち多発した症例について解説する。際立ったスタイルで注目を浴びた最新鋭機関車でありながら事故と故障の続発に当初の期待とは裏腹に早々と運用を離脱する結果となった。そして以下の経緯から車両としては失敗作と位置付けられた。これらが問題点への迅速かつ最適な対応ができず解決を長引かせた主因である。さらに運用されていた1970年代はちょうどマル生運動の挫折によって労使関係が悪化した時期と重なる。現場では国鉄労働組合(国労)・国鉄動力車労働組合(動労)の勢力が極めて強く、最先端技術を採り入れた車両や保守取り扱いに手間のかかる不便な車両は「労働強化に繋がる」と敬遠される傾向もあった。日本技術陣が独自開発を行ったDD51形も初期故障に悩まされたが、本形式とは対照的に試行錯誤(DD54では困難であった設計変更と改造)を繰り返しながら開発陣と保守陣が一体となって克服することができ、後の大量増備につながった。国鉄も想定し得なかった高価な新鋭機関車の早期淘汰は、廃車時の車齢が最長でも約10年で、全車とも法定耐用年数(18年)に達していないばかりか、平均で7年4ヶ月、最短で4年10ヶ月とその半分にも満たなかったことから後日国会で問題として取り上げられ 、会計検査院からも不適切な処理を指摘された。
出典:wikipedia
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