相模線(さがみせん)は、神奈川県茅ヶ崎市の茅ケ崎駅と相模原市緑区の橋本駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。東海道本線の茅ケ崎駅から相模川に沿って北へ向かう路線である。南側は相模川の東岸沿いを通り、北側は相模原台地の西側を築堤や切通しの連続で登り詰める。元は相模鉄道(法人としては現在の相鉄ホールディングス)の路線であったが、東海道本線と中央本線とを結ぶバイパス路線として後に国有化された。過去には支線として、1931年に廃止された寒川駅から川寒川駅への支線(通称:川寒川支線)と、1984年に廃止された寒川駅から西寒川方面への支線(通称:西寒川支線、寒川支線。「西寒川駅」の記事も参照)があった。全線が旅客営業規則の定める「東京近郊区間」、およびIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアに含まれている。旅客案内や車体に使用されるラインカラーは相模川をイメージした濃い水色()である。地元自治体から相模線複線化の要望があるが、莫大な費用がかかることが予想されることを理由にJR東日本からの具体的な動きはない。また途中駅に列車の行き違い施設を作る要望に関しても同様の理由で動きはない。終点である橋本駅は中央新幹線の停車駅となる予定である。全線を横浜支社が管轄している。全列車が相模線用に投入された205系500番台電車4両編成で運転されており、すべての列車が各駅停車である。基本的には茅ケ崎駅 - 橋本駅間の線内折り返し運用だが、朝夕の列車は橋本駅から横浜線に乗り入れて八王子駅まで運転されている。この八王子駅発着列車は2015年3月13日までは10往復であったが、翌14日のダイヤ改正で6往復に減便された。また、茅ケ崎駅 - 海老名駅間の区間運転も行われている。日中は全線直通の列車が約20分間隔で運転されている。かつての非電化時代には、橋本駅 - 南橋本駅、原当麻駅、厚木駅間、茅ケ崎駅 - 寒川駅間などの多彩な区間運転も行われていた。電化後もしばらくは橋本駅 - 厚木駅間の区間運転が深夜の最終列車と早朝の一番列車に上下各1本ずつ設定されていたが、茅ケ崎駅まで延伸されて消滅した。2016年6月現在、厚木駅経由の相模鉄道への甲種輸送などは、昼間に貨物列車のダイヤ設定がなくなったため、深夜帯に臨時貨物列車として運転されている。全列車とも205系500番台(国府津車両センター配置)の4両編成が使用される。車体の帯は水色濃淡2色()である。新造編成としては205系の最終形態であり、最終の1編成(R13編成)は4両とも大船工場で製造された。相模線では電化以前(少なくとも1976年以降)よりドアの開閉を12月から3月まで半自動扉で行っていたが、電化以後のこの車両では、当時としては最新型のボタン式半自動扉を採用し、通年で使用している。ただし直通先の横浜線内では車掌の一括操作によりすべてのドアが開閉する。橋本駅では八王子行も含めて相模線ホームに発着のため半自動扱いとなる。ほかにも、運転台には行路表示や運行制御を行うモニタ装置を備え、前述のドアは鴨居収納式の機構となっており、座席の色も線区色のライトブルーになるなど(現在は他の205系同様緑色)、ほかの205系と異なる新たな試みが多数実施されている。パンタグラフは2号車の4号車側に設置されている。2009年3月31日までに、線内を走る13編成すべての車両のパンタグラフが菱形パンタグラフからシングルアームパンタグラフに換装されている。また、ドアチャイムもすべての編成に取り付けられている(なお、R1編成については他編成に先行して取り付けられていた)。電化開業前の試運転では、南武線用の205系6両編成を4両に短縮した編成が使用されたことがある。相模線は国鉄分割民営化当時、JR東日本の東京近郊区間内では、八高線とともに気動車が運転される数少ない線区であった。1991年に相模線が電化されたことにより、神奈川県は当時鉄道路線がなかった沖縄県を除けば、日本で初めて気動車列車の存在しない(貨物専用線を除いた県内すべての鉄道旅客路線が電化されており、なおかつ他線区から乗り入れる気動車列車がまったくない)県となった。これは八高線の電化による東京都より5年早い。また、横浜市金沢区の東急車輛製造(現・総合車両製作所横浜事業所)で落成した全国各地向け気動車の公式試運転路線としても有名であった。北海道向けから九州向けまでの車両を見ることもできたことは、夏季に見られた房総線(現在の内房・外房・成田線にあたる)の臨時快速で全国から駆り出された(あるいは試運転前提で投入された)各地域仕様気動車が見られた千葉地区に次ぐものである。過去には以下の車両を使用していた。以下に示すのはすべて気動車である。相模鉄道時代の車両は以下の項目を参照。相模線は相模川の砂利輸送を目的として建設された路線である。1921年(大正10年)に相模鉄道による私鉄線として開業後、太平洋戦争を経て国有鉄道化された。相模線を国有化した理由は、戦時体制のもと、都心が攻撃された場合にそなえ八高・横浜・相模線の迂回ルートを確保するためであったとされる。国鉄分割民営化の前には、元の運営者である相模鉄道が当路線の譲受を検討したことがあった。詳細は「相模鉄道#歴史」を参照。相模線は、高度経済成長後の1980年代になって沿線がベッドタウン化し、現在のような運行形態が取られるようになったが、それまでは沿線人口は少なく、1960年代の沿線都市人口は相模原市の約20万人が最大で、沿線第3の都市であった厚木市でさえ8.9万人に過ぎなかった。さらに相模川の砂利採掘が禁止された1960年頃には貨物輸送も激減し、1971年度の収支係数は374と、関東地方の国鉄線の中では鹿島線の634、木原線の459に次ぐ第3位の赤字路線であり、これは現在第三セクター化されている足尾線の361や真岡線の345よりも悪く、1968年(昭和43年)に「赤字83線」に選定され廃止対象とされた烏山線の265を遥かに下回っていた。このような経営状況にも関わらず、相模線は1970年(昭和45年)12月21日の日本国有鉄道諮問委員会報告書において一地方ローカル線としては破格の幹線系線区に区分され、これが翌年明るみに出ると、専門家の間ではこれを疑問視する声も聞かれた。相模線はこのように関東有数の赤字路線であったにもかかわらず厚木市の日産自動車工場の製品である自動車を輸送する路線として、またベッドタウンの足として位置付けられ、国の資本が投下され続けた。このため、この事情を知る専門家からは「一部独占資本に奉仕する国鉄」と囁かれていた。相模線は1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化でJR東日本の路線となり、1991年(平成3年)には全線が電化され、当線のために新製された当時では最新型の車両が投入された。電化によるスピードアップ、およびダイヤ改正による運行本数の増加(約1.5倍)、海老名駅の開業(1日乗車人数9千人前後)、横浜線への直通運転の復活などで利便性向上が図られ、また京王相模原線の橋本駅乗り入れや沿線のベッドタウン化など周辺環境の変化もあって通勤通学での利用客が増加し、現在は通勤・通学路線として定着しているものの、それでも都心へ向かう旅客流動とは無関係な線形ゆえ、周辺他線と比較すれば圧倒的に乗客が少ない。相模線内各駅の発車メロディは、他線区にはない「近郊地域20番」「近郊地域20-1番」(旭電通(現・東洋メディアリンクス)製)という曲のみとなっている(ただし、茅ケ崎駅は発車ベル)。かつては2001年の高架化から2016年まで上溝駅で「せせらぎ」(日本電音製)のフェードアウト版が使用されていた(さらにその前は「近郊地域20番」を使用していた)。近郊地域20番は学校のチャイムのような曲で、使用しているのは、橋本駅・原当麻駅・入谷駅・海老名駅・寒川駅の各駅(橋本駅は余韻が短い。以前は総武本線の佐倉駅で使用されていた)。もう1曲の近郊地域20-1番はかつて存在した石丸電気の旧CFソングに近い感じの曲で、南橋本駅・上溝駅・番田駅・下溝駅・相武台下駅・厚木駅・社家駅・倉見駅・門沢橋駅・宮山駅・香川駅・北茅ケ崎駅の各駅で使用されている。電化され駅自動放送が導入された際には全駅が近郊地域20番に統一されていた。また、駅自動放送は茅ケ崎駅・橋本駅がATOS、海老名駅・原当麻駅が東海道型放送(詳細型)、寒川駅が巌根型放送、北茅ヶ崎駅・香川駅・宮山駅・倉見駅・門沢橋駅・社家駅・相武台下駅・下溝駅・番田駅・上溝駅・南橋本駅が巌根・館山型放送、入谷駅が新仙石型放送、それ以外の駅は仙石型放送である。なお、以前は全駅とも東海道型放送(簡易型)、上溝駅は2001年の高架化から2016年までユニペックス型放送が使われていたが、放送装置更新や、駅舎リニューアルなどに伴い、現在の形になっている。( )内は起点からの営業キロ。相模線沿線の茅ヶ崎市・高座郡寒川町・海老名市は東海地震に対する地震防災対策強化地域に含まれており、東海地震の警戒宣言が発令された場合、相模線では茅ケ崎駅 - 橋本駅間の全区間で列車の運転が中止されることになっている。
出典:wikipedia
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