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唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。日本の場合は遣唐使などを送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見で停止されるまで、積極的に交流を続けた。首都は長安に置かれた。690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。日本では唐の滅亡後も唐、唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。国号の「唐」は晋の古名であり、もとは山西省を中心とする地域を指した。古代には堯が建てたといわれる伝説上の王朝「陶唐」があった。また、周の時代には魯の周公旦(武王の弟)が討伐して、滅ぼした唐や武王の子・が立てた晋の別称としての唐とは別に、春秋時代に今の湖北省の一部にを国号とする小国があったことが知られ、呉・蔡と盟約を結ぶも、紀元前505年に楚と秦によって滅ぼされた(『春秋左氏伝』)。本項の唐の滅亡後、五代十国時代には李存勗の後唐、十国のひとつ南唐などが唐の後継者を自認して唐を国号としたこともあった。後唐王家は臣下の朱邪赤心が功績によって李姓を唐王朝から賜った家であり、南唐王家は「唐の憲宗の八男・建王李恪の子孫」を称したが、いずれも唐王朝李氏の直系とはいえない。唐王朝の李淵が出た李氏は、隋の帝室と同じ武川鎮軍閥の出身で、北魏・北周以来の八柱国・十二将軍と称される鮮卑系貴族のうち、八柱国の一家として隋によって唐国公の爵位を与えられていた。のちに、隋から禅譲を受けて新朝を立てるという易姓革命の手続きを踏んだ際に、この爵位にちなんで唐を国号とする。『旧唐書』・『新唐書』によれば、李氏は李耳(老子)の子孫と称し、唐で編まれた晋書で特筆大書されている西涼の初代王・李をその遠祖としている。北周において鮮卑への復古政策が行われた時に、李氏は北周より大野という姓を与えられ、一時的にこの姓を名乗ることになる。ただし、唐李氏の系譜についてはこの西涼の李氏とは繋がっておらず、唐李氏は鮮卑系であるとの見解が戦時中に日本の宮崎市定によって出され、以後日本学界ではこの考え方が定説となっている。一方、中国学界では、陳寅恪が『唐代政治史述論稿』において、鮮卑系の関隴集団(=武川鎮軍閥)に属する趙郡の李氏が、(鮮卑化した漢族とする)唐朝の出自であることを論証し、やはり学説となった。近年の中国では、宮崎説を「日本軍の中国支配のために持ち出された論説である」と見る向きもあるが、主流をなす見解ではない。また、中華民国の学者姚薇元の『北朝胡姓考(修訂本)』(中華書局、2007年)では唐をテュルク系高車を出自に持つ代郡李氏とする見解を示している。森安孝夫は、「唐を拓跋国家とみなす学説は、日本の学界、さらに中国や欧米の学界では、どの程度認知されているのか?」という質問に対して、「唐の王族・李氏が拓跋出身であることを認めない者は、もはや世界中のどこにもいません。」と回答している。唐の歴史は300年にわたり、非常に長く、また唐代の間の社会変動も大きい。そこで、ここでは唐の歴史をさらに初唐、盛唐、中唐、晩唐の4期に細分して通観する。7世紀初頭の中国は隋が統一国家を実現していたが、第2代煬帝の内政上の失政と外征の失敗のために各地に反乱がおき、大混乱に陥った。このとき、煬帝のいとこであり、太原留守(総督)であった李淵は617年(義寧元年)に挙兵、煬帝の留守中の都、大興城(長安)を陥落させると、煬帝を太上皇帝(前皇帝)に祭り上げて、その孫恭帝侑を傀儡の皇帝に立て、隋の中央を掌握した。翌618年(隋義寧2年、唐武徳元年)に江南にいた煬帝が殺害され、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位(高祖)、唐を建国した。建国の時点では、依然として中国の各地に隋末に挙兵した群雄が多く残っていたが、それを高祖の次子李世民が討ち滅ぼしていった。勲功を立てた李世民は、626年にクーデターを起こすと高祖の長男で皇太子の李建成を殺害し実権を握った(玄武門の変)。高祖はその後退位して、李世民が第2代の皇帝(太宗)となる。太宗は北方の強国突厥を降してモンゴル高原を羈縻支配下に置き、北族から天可汗(テングリ・カガン)、すなわち天帝の号を贈られた。また内治においては三省六部、宰相の制度が確立され、その政治は貞観の治として名高い。その治世について書かれたものが『貞観政要』であり、日本や朝鮮にまで帝王学の教科書として多く読まれた。唐の基礎を据えた太宗の治世の後、第3代高宗の時代に隋以来の懸案であった高句麗征伐(唐の高句麗出兵)が成功し、国勢は最初の絶頂期を迎える。しかし、高宗個人は政治への意欲が薄く、やがて武后(武則天)とその一族の武氏による専横が始まった。夫に代わって専権を握った武則天は高宗の死後、実子を傀儡天子として相次いで改廃した後、690年の簒奪により(載初元年)国号を周と改めた(武周)。中国史上最初で最後の女帝であった武則天は、酷吏を使って恐怖政治を行う一方、新興富裕階層を取り込むため土地の併呑に許可を与え版籍の調査を緩めたが、農民の逃散や隠田の増加が進行して社会不安と税収減及び均田制の綻びを招いた。武則天が老境に入って床にあることが多くなると権威は衰え、705年(神龍元年)、宰相張柬之に退位を迫られた。こうして武則天が退位させた息子の中宗が再び帝位に就き、周は1代15年で滅亡した。しかし今度は、中宗の皇后韋氏が中宗を毒殺した。韋后はその後即位した殤帝を傀儡とした後簒奪を画策したが、中宗の甥李隆基と武則天の娘太平公主の蜂起により敗れた韋后は族殺され、武則天が廃位させた李隆基の父・睿宗が再び帝位につき、李隆基はこの功により地位を皇太子に進められた。その後、今度は李隆基と太平公主による争いが起こる。7世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱を2人の皇后の姓を取って「武韋の禍」と呼ぶ。712年(先天元年)、李隆基は睿宗から譲位され即位した(玄宗)。翌年、太平公主を処刑した。玄宗の治世の前半は開元の治と謳われ、唐の絶頂期となる。この時期、唐の羈縻支配と冊封政策は中央アジアにまで及んだが、751年にトランスオクシアナの支配権を巡ってアッバース朝との間に起こったタラス河畔の戦いに敗れた。玄宗は、長い治世の後半には楊貴妃を溺愛して政治への意欲を失い、宰相の李林甫ついで貴妃の一族楊国忠の専横を許した。楊国忠は、玄宗と楊貴妃に寵愛されていた節度使の安禄山と対立し、危険を感じた安禄山は755年に反乱を起こした。節度使は玄宗の時代に増加した官職で、辺境に駐留する藩師に軍事指揮権と一部の行政権を与える制度である。北方3州の節度使を兼ね大軍を握っていた安禄山はたちまち華北を席巻し、洛陽を陥落させ大燕皇帝と称した。都の長安を占領され玄宗は蜀に逃亡、その途中で反乱の原因を作ったとして楊貴妃と楊国忠は誅殺された。失意の玄宗は譲位し、皇太子が粛宗として即位した。唐は名将郭子儀らの活躍や回鶻(ウイグル)の援軍(皇太子葉護ら)によって、763年に乱を平定した。9年に及んだ反乱は、安禄山とその死後乱を主導した配下の史思明の名をとって安史の乱と呼ばれる。安史の乱によって、唐の国威は大きく傷付いた。以降、唐は次第に傾いていく。軍事力増強のために藩鎮を増やした結果、内地の節度使も増加した。各地に節度使が置かれた状態は、後の五代十国時代まで続いた。安史の乱により疲弊した唐は、中央アジアのみならず西域も保持することが難しくなり、国境は次第に縮小して世界帝国たる力を失っていった。これに対し、中興の祖と謳われた憲宗は、中央の禁軍を強化することで中央の命令に服さない節度使を討伐し、朝威を回復させた。しかしその後不老長寿の薬といわれた丹砂(水銀)をはじめ怪しげな仙薬を常用するようになると、精神に不安定をきたして宦官をしばしば殺害したため、恐れた宦官により殺された。孫の文宗は権力を握った宦官を誅殺しようと「甘露の変」と呼ばれる策略を練ったが失敗し、かえって宦官の専横を招いた。文宗の弟の武宗は廃仏運動を進めた。当時、脱税目的で僧籍を取る者が多かったため、実態の無い僧を還俗させ財政改善を図った。この時期、牛僧孺党派と李徳裕党派の政争が激しくなり、これは牛李の党争と呼ばれる。この頃から、859年の裘甫の乱、868年の龐勛の乱に代表される、行政の改善を要求する武装闘争が各地で起きた。874年頃から黄巣の乱が起きる。この乱は全国に波及、黄巣は長安を陥落させるとを建て、皇帝就位を宣言した。しかし黄巣軍の構成員は多くが貧民出で政務を執行できず、略奪を繰り返して憎悪を買った挙句に長安を去った。この時、黄巣の部下だった朱温は黄巣を見限り唐に帰参した。朱温は唐から全忠の名前を賜り、以後朱全忠と名乗る。この頃になると唐朝の支配地域は主に首都・長安から比較的近い関東地域一帯にまで縮小し、藩鎮からの税収も多くが滞っていった。河南地方の藩師となった朱全忠は、唐の朝廷を本拠の開封に移して、唐の権威を借りて勢力を拡大した。907年(天祐4年)、朱全忠は哀帝より禅譲を受けて後梁を開き、唐は滅亡する。しかし、唐の亡んだ時点で朱全忠の勢力は河南を中心に華北の半分を占めるに過ぎず、各地には節度使から自立した群国が立っていた。後梁はこれらを制圧して中国を再統一する力を持たず、中国は五代十国の分裂時代に入る。唐の滅亡により、中国は東アジア文明をリードする力を失い、契丹や日本など、唐の文化の影響を受けた周辺の諸国は独自の発展をしていくこととなった。"兵制については「税制・兵制」の節を参照。"律令は、西晋で作られた泰始律令以来、何度か改変が重ねられ、隋の文帝により「開皇律令」が編纂されていた。唐はそれを受け継いで、何度か修正を加えつつ運用していた。律は刑法、令は行政法であり、これを補足するものとして格式がある。律令に該当しない事例を処理する為の詔勅のうち、法として新たに加わるものが格で、式は律令を運用する上での細則である。後述する三省六部、九品制、均田制、府兵制などは令によって規定され、このような律令を中心の柱として成り立つ国家体制を律令制と呼ぶ。唐の律令は何度か変更され、玄宗の737年(開元25年)にほぼ完成を見る。この律令を開元二十五年律令と呼んでおり、後世に律令のお手本とされた。律令が現実の社会状況と合致しない場合、それに代わって詔勅と格が主要な役割を果たしたとされる。安史の乱以後は、唐全体の社会状態が大きく変わり、より格式が多用されるに至る。唐代は南北朝時代からの風潮を引き継いで、権門貴族が強い影響力を保持していた。皇室の李氏を含め唐の支配者層を形成したこれらの集団は、いずれも多くが関隴の地域を基盤とした貴族集団であり、この集団のことを関隴集団と呼ぶ。関は関中(陝西省)、隴は現在の甘粛省東部のことである。関隴貴族は鮮卑系北朝貴族であり、この他には主に漢族の流れを汲む山東貴族、南朝の流れを汲む南朝貴族がある。家門の家格という考え方は魏晋南北朝時代を通して維持され、唐が建国された後でも長い歴史を持ち最高の名門とされる山東貴族は、影響力には乏しいが家格は依然として高かった。家格が高い家と婚姻関係を結び自らの家格を上げることが広く行われたが、この場合は下の家格の者が上の家格の者に莫大な結納金を積むのが常であった。太宗は皇室と外戚の権威を高めるべく、貴族を格付けした『氏族志』の編纂を命じたが、山東貴族の家門が第一等、皇室の李氏が第三等だったため、唐の官制に基づき皇室の李氏や親族を第一等・第二等とするよう命じた。同じく武則天も自らの武氏を李氏に次ぐ第二等とした。これは、家格が当時の人にとって大きな意味を持っていたことを示している。貴族は政治への影響力の源泉として、詔勅の審議を司る門下省と官僚の任免賞罰などを司る尚書吏部を握っていた。高位の官僚には課役の免除、刑罰を金銭で贖えるなどの特権が与えられ、また資蔭と呼ばれる親の官品に応じて子が任官できる制度があった。唐の政治は概ね貴族により運営されていた。一方、隋から受け継いだ科挙も実施されていたものの、資蔭によって与えられる地位よりも低い位置で任官するのが常であった。例えば最高位である一品官の子は正七品上に任官できるが、科挙では最高でも正八品上である。さらに前述の通り、尚書吏部は貴族の意向が働いており、科挙出身者は冷遇された。武則天は関隴貴族の出身ではあったが主流には遠く、女性の身で権力を握るという事への反発もあり、関隴貴族の反感を買っていた。そこで武則天は科挙を通過する新興富裕層を積極的に引き上げ、権力の安泰を計った。しかし武則天の時代は新興富裕層を厚遇するあまり、大地主による土地の併呑が横行し、農民が田地を失って小作となる事例や逃亡して奴婢となる事例が蔓延、また同じく唐初以来厳格に行われてきた版籍の調査を甘くして、官位の低い新興富裕階級による土地の併呑や奴婢を囲い込みに便宜を計った為に隠田や脱税が横行、玄宗時代に税制改正が行われる原因となった。中期以降の唐では、基本的には上位の官職に就けない状態ではあったが、科挙出身者が徐々に官界に進出する。また貴族出身にも科挙を受験する者が増える。律令制下の官制は三省六部を頂点とする。中書省が詔勅(皇帝の命令)の起草、門下省がその審議を行ない、尚書省が配下の六部(礼部・吏部・戸部・兵部・刑部・工部)を通して詔勅を実行する。門下省の長官は侍中(2名)、中書省の長官は中書令(2名)、尚書省の長官は尚書令と呼ばれるが、尚書令は皇子時代の太宗が務めていた時期があったため、唐を通じて欠員とされ、副長官の僕射(ぼくや、左右1名ずつ)が実質上の長官であった。六名の長官が宰相職とされ、重要政策は宰相の合議によって決定され、宰相の会議上は政事堂と呼ばれた。しかし次第に皇帝の代理人である中書令の権力が強くなり実権を振るうことになる。官制の最高位である宰相には、侍中・中書令・尚書左僕射・尚書右僕射が任じられ、他の官職にあるものに同中書門下三品という仮官を与えて宰相に任じることがあった。同中書門下三品は、後に同中書門下平章事と名称を変え、宰相を意味するようになった。尚書六部の下には漢代以来の実務機関である九寺、五監があり、庶務を担当した。また三省とは別に宮中の文書を扱う秘書省・皇帝の衣食などを取り扱う殿中省・後宮の管理を行う内侍省があり、合わせて六省と呼ばれる。他に監察機関として御史台があり、官僚たちの監察を行なった。これらの部署に配置される官僚達は正一品から従九品下までの、一品から四品は正・従に分けられ、五品から九品までは正・従・上・下に分けられた計30階位に分けられている。この九品以上までが、「流内官」と呼ばれ、それ以外は「流外官」と呼ばれた。流内官の文武の各品階ごとに実務が伴わない官名が定まっており、文散官・武散官と呼ばれた。また、五品以上は宰相の推薦による勅任官で、六品以下が吏部に任じられた認証官であった。また、中央にいる京官と地方の外官にも分けられた。実務を伴う官名は職事官と呼ばれた。特権として、九品以上の流内官は本人の公課が免除され、五品以上は同居親族の公課が免除の上、官人永業田の給付、散官に応じて、「蔭」や「任子」という子孫が官人になる資格を与えられた。官人になるためには、皇帝・皇后の親族であることや蔭の対象とあること、または科挙合格した上で、吏部で行われる銓選という身言書判の試験に合格する必要があった。流外官から銓選だけで官人になることもあった。流内官になることは、入流と呼ばれた。しかし、流内官には清・濁の区別があり、皇帝・皇后の親族や蔭の対象者、科挙合格者は清官であったが、流外官から選ばれたものは濁官にしかなれなかった。8世紀中葉以降、旧来の官制に綻びが見られる状態に対応するため新たな官制が布かれた。主なものに州の監察を行う観察使、戸部の事務処理量が膨大となったため戸部から独立させた国家財政を司る度支使、物資の運送を司る転運使、塩鉄専売を司る塩鉄使などがあり、それまでの令によって定められた役職を上回る職権を持つ職もある。このうち翰林学士などの令外官を使職と言う。度支使は元来財政を担当した戸部尚書を上回る権限を持ち、塩鉄使はその財政上の重要さから宰相に準ずる職となる。宝応年間以降は、常に塩鉄使が転運使を兼ね、後唐に至ると度支使・塩鉄使・戸部尚書が一本化されて三司となった。またそれまで中書省の中書舎人が行なっていた詔勅の起草の内、朝廷ではなく皇室の発するものは玄宗が設置した翰林学士が行う事となった、翰林学士は宦官と並んで大きな権限を持つことになる。律令において、良賤制度がとられ、人は良人と賤人に分けられていた。賤人(賤民)は、独立した戸籍を持たず、官賤人と私賤人に分けられ、それぞれ細かく身分を分けられていた。良人と賤人、もしくは賤人の異種身分同士で刑罰が異なり、身分が上が下に犯した場合は通常より罪が軽くなり、下が上を犯した場合は重くなった。官賤人は、重罪人とその親族が籍没されたものや戦争捕虜とその子孫が中心であった。私賤人は、没落者とその親族、人身売買された者、強奪された者、官賤人が引き渡された者、親が私賤人だった者が中心だった。良人と賤人の間の結婚は禁じられ、良人と、私賤人の女性との間に生まれた子はその良人が認めなければ、私賤人のままであった。ただし、私賤人でも、主人が勝手に殺すことは禁じられ、税や兵役の負担は免れることができ、金銭で私賤人の間における身分を上昇することができた。主人が私賤人を良人にすることは許されていた。また、官賤人は、赦免を受けることで、次第に身分が上げられ、良人となることができた。この時代では、賤人を良人として解放するのは大きな善行とされていた。身分についても、生来の出自により、完全に固定されたものとしては認識されているものではなかった。戸の中では尊卑長幼制がとられており、戸における世代の上下と年齢の上下を勘案した上で、上が下を犯した場合は軽く、下が上を犯した場合は重くなるように、刑罰が定められていた。唐は、全国を10の道に分け、後の玄宗期に15に分けた。道は監察など広域行政のための単位であり、実際の施政を担うのは刺史を長とする州郡と、その下の県令を長とする県である。州は全国で約350あり、県は全国でおよそ1550であった。県の下に、4家を以て隣、5隣を以て保とする隣保制と、100戸をまとめて1里とし、5里を1郷とする郷里制がある。一つの里にはその里の諸事に責任を持つ里正という郷役が里の中から選ばれ、徴税・犯罪の取り締まりなどに当たった。安史の乱後は、多くの藩鎮が地方に置かれた。また国内には領土の統治のために連絡用の駅伝が30里ごとに置かれ有事に備えた。唐代は歴代王朝の中でも後漢・明ほどではないが、宦官悪の顕著な時代とされている。唐において最初に権勢を揮った宦官は玄宗時代の高力士である。高力士は玄宗の絶大な信頼を受け、李林甫などは高力士と結んで高位に上ったといわれる。高力士自身は全身が玄宗への忠誠心のような人物であったが、あまり表に出ることはなく陰で権勢を振るう傾向が強く、唐末の宦官権力の一典型となった。安史の乱後、粛宗擁立に功績を挙げ宦官初の宰相となった李輔国、代宗の下で驃騎将軍となった程元振などを経て、神策軍を擁した魚朝恩の台頭の以後、宦官の存在は唐皇室の中で大きな位置を占める。神策軍は唐の地方軍のひとつだったが、魚朝恩の行動により皇帝親衛軍とされ、以後代々の長官には宦官が任命され宦官の権力の拠り所となった。宦官の専横に対して皇帝の側にも宦官を排除する動きが出てくる。憲宗の孫の文宗は宦官に不快感を抱いており、それを察した官僚李訓・鄭注は宦官殺害の策を練り、835年に「甘露が降るという瑞兆があった」という偽りを報告し、これを口実として宦官を集めて一気に殺害する計画を立てた。しかし内部の不一致から計画は失敗し李訓らは殺される。これを甘露の変と呼ぶ。こうして皇帝と宦官勢力の対立が表面化したこともあったが、宦官は基本的に皇帝と不可分の存在であった。宦官の権力の源泉は皇帝であり、皇帝なくして宦官はあり得なかった。仇子良が残した言葉はこのことを如実に示している。また前述の皇帝側からの宦官に対する行動はあくまで宦官の専横の抑制を目的としており、宦官制度自体は唐代を通じて存された。宦官側・皇帝側、双方からの必要性故に宦官という存在がありえた。権勢を振るった宦官も唐末に朱全忠・李克用らが争い合い、皇帝が名目的な存在になって以降は当然に勢力を失った。最終的に宦官は902年、朱全忠の力を借りた昭宗により全滅させられるが、その2年後に昭宗は朱全忠により殺され、さらにその3年後に唐は朱全忠へ禅譲し完全に滅亡する。※唐代の単位については以下の通り。1畝=約522.15平米。10斗=1石=59.4リットル。10尺=1丈=3.11m。1両=42.5 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40g。唐の税制は北周以来の均田制・租庸調制であり、兵制は府兵制である。この両制度は相互不可分な制度である。均田制は全国の丁男(労働に耐えうる青年男性)一人につき、永業田(相続可能な土地)が20畝まで認められ、口分田(死亡や定年60歳になると国家に返却する)が割当可能な範囲で80畝まで支給される。また官職にある者は職分田が与えられる(これは辞職した時に返却する)。その他にも丁男がいない戸、商工業者、僧侶・道士などの特別な戸に対してもそれぞれ支給量が決められている。田地に対して、租庸調と呼ばれる税を納める義務を負う。租は粟(穀物)2石、調は絹2丈と綿3両を収める。年間20日の労役の義務があり、免除して貰う税は庸と呼ばれ、労役一日に対し絹3尺あるいは布3.75尺を収める。府兵制はこれらの戸籍に基づいて3年に1度、丁男に対して徴兵の義務を負わせた。均田制・府兵制の両制度の実施には戸籍が必要不可欠であるが、武則天期になると解禁された大地主による兼併や高利貸によって窮迫した農民が土地を捨てて逃亡する(逃戸と呼ばれる)事例が急増し、また事前通告なしでの土地の売買を解禁したため戸籍の正確な把握が困難になった。また、華北地域では秋耕の定着による2年3作方式が確立され、農作業の通年化・集約化及びそれらを基盤とした生産力の増大が進展したことによって、期間中は農作業が困難となる兵役に対する農民の負担感が増大していった。かくして均田・租庸調制と府兵制は破綻をきたし、代わる税制・兵制が必要となる。辺境において実施された藩鎮・募兵制は、府兵制は徴兵により兵役に就かせたのに対して、徴収した土地の租税の一部を基に兵士を雇い入れる制度である。710年に安西四鎮(天山山脈南路の防衛)を置いたのを初めとして719年までに10の藩鎮を設置している。当初は辺境地域にしか置かれていない。しかし安史の乱後は内地にも藩鎮が置かれた。地方の藩鎮は唐に対する税の貢納は行っていたものの徐々に自立色を深めていき、最終的には藩鎮により唐は滅ぼされることになる。780年に施行された新しい税制は、それまで資産に関らずに定額を課税していたものを、財産に応じた額に改めたものである。夏(6月)と秋(11月)の年2回徴収するので、両税法と呼ばれる。夏に納めるのは麦であり、秋に納めるのは粟と稲である。税額は一定せず、その年に使われる年間予算を基に税額を各地に割り当てた。かつて安禄山軍から投降した3人の武将に授けた節度使職を元とする、成徳軍・盧竜軍・天雄軍の3つの藩鎮は特に反中央の傾向が強く、節度使の地位を世襲化し中央に納税しなかった。この3つを河朔三鎮と呼んでいる。憲宗は藩鎮を抑制する為、反抗的な藩鎮に対して討伐を加えた。藩鎮では多くの騒乱が発生したが朝廷へ反旗を翻した例は僅かで、大部分は不満を持った驕兵悍将と呼ばれる兵士・下士官が上司たる節度使を追放する目的で行われた。このような兵乱の代表が康全泰の乱(858年)である。兵乱はあくまで自分達の利権を守るのために背いただけで、ほとんどは唐政府に妥協し、大規模なものになる前に鎮圧された。しかし、羨余などの税収以上の民衆からの収奪を行う節度使と、羨余のさらなる献上を奨励する唐政府のため、民衆の生活は困窮するばかりであった。そのため、裘甫の乱(859~860年)という民乱(民衆が中心の反乱)が起きたが、地主・大商人層が唐政府についたために、鎮圧された。また、龐勛の乱(868~869年)は初めは兵乱として始まったが、後に多数の農民が参加して民乱と化した。最終的には、龐勛の乱は地主・大商人層が離反したため、敗北する。龐勛の乱は、黄巣の乱(874~884年)の前段階と言え、黄巣の乱は初めから民乱として出発する。安史の乱以後の唐の財政は苦しくなり、その打破のために758年に塩と鉄の専売制を実施した。専売の統括をする役職が塩鉄使である。塩の産地には製造業者を集める巡院という機関が置かれ、ここで登録を受け、できた塩は登録された塩商人に売り、外部へ塩が流出しないように監視された。専売制によってかけられる税は莫大で、塩にかかる税額の大きさは専売制実施前が1斗が10銭であったのが実施後には110銭になるというほどであった。しかもこれ以後財政が悪化するとその都度値上げされている。また、生産者の自由も制約されるようになると製塩従事者の勤労意欲も減退して、品質の低下に繋がった。生活に不可欠な塩に対してこのような価格をつけることに不満を持った人々により塩の密売が当然行われ、政府は取締りを行って摘発者には死刑などの厳しい処分を下したが、密売人側も次第に武力を持った組織だったものになっていった。黄巣はこの集団の中から登場して晩唐を揺るがし、唐に致命傷を与えることになる。科挙は試験によって人材を選抜する制度であるが、合格には長期間勉強に集中できる環境が必要であり、また書物の購入費用などもかなりの額になることから合格にはそれなりの財産が必要であった。貴族が科挙を軽視していた時代に科挙を受けたのは、財産を積み上げてきた新興地主層で、これらの科挙合格者達は武周期を境に官界へ進出し始め、官僚としての特権を利用して財産を積み上げ、豪商・富農と呼べる存在が現れる。また、商業全体も活発化した。煬帝によって作られた大運河も流通の柱として大きな活躍をし、その重要さから政治都市・長安より、大運河沿いの商業都市・開封が中国の中心都市の地位を奪うことになる。社会の変化に対応できない貴族層や新興富裕層は没落し、唐代の勢家は平均3 - 6代程度と短い。貴族の影響力の牙城であった門下省はその実質を失い、中書省に吸収されて中書門下と呼ばれるようになる。次第に貴族層も科挙を受けるようになるが、五代十国時代の戦乱の中で中国史に於ける貴族は消滅する。新興地主層は北宋代の形勢戸に繋がり、この層が科挙官僚を生み出すことで士大夫層の形成へと繋がる。唐の都である長安と副都である洛陽などの大都市は、街を街路で碁盤目状に区切る条坊制がとられていた。街路で四方を区切られた場所を「坊」とし、約3mほどの高さの土塀で街路沿い四方を区切り、土塀には大きな坊で路が東西1路、南北1路で四門、小さな坊で東西1路で二門がつけられ、門から街路に出ることで他の坊に行くことができる。坊門は、坊の責任者である坊正が鍵を管理し、日の出前に開けられ、日没とともに門を閉めた。有力者や寺院などは直接、街路へ向けて門をつけることを許されていた。これは「坊制」と呼ばれる。坊の責任者は、坊正と里正がいた。坊正は坊全体の責任者として、坊門を管理し、治安を維持する役目があった。また、坊の中にある100戸ごとに里正が任命され、戸数の把握や賦役の催促、犯罪の調査を行った。治安より財政が重視されたため、坊正より里正が重んじられた。坊門以外に門をつける特権を持つものが余りに増え、中唐には街路の門戸が問題になったが門が減少することはなく、街路の一部を占有する「侵街」と呼ばれる事態が増加した。商工業の発展とともに、坊制はその機能を弱めていった。各都市に政府が管理する商店や行商が集まる市があり、長安に東西二つの市、洛陽に南北西、三市が存在していた。この市は政府から決められた市制により管理された。市制では、市は早朝から日没まで開けられ、商取引は正午の鼓の合図から、日没より前に終わる制度となっていた。長安に存在していた東西の市は、周囲を約1km四方の土壁に囲まれた「坊」と呼ばれる区画を一つずつ占拠していた。市のある坊は、道路が十字の形をしていた他の坊と違い、市では路が東西、南北に2路ずつあり、路が井の字の形をしていた(これが「市井」の語源となった説がある)。市の中心部には、政府の太府寺に属する市署と平準署があった。市署では商取引や市の門の鍵を管理し、平準署は政府の物資を売買し物価を調整する役割があった。地方都市にある市も市署がなければ商取引はできず、毎年8月に商品の検査がなされた。市署は市籍に登録された商人と職人も管理し、この戸籍をもとに戸税や庸役がかけられた。市には他の土地から行商も来て、市籍に載る土地の坐商を通じて、商売を行った。肆や舗と呼ばれる商店も区画が行ごとに定められた。市で売買される商品は価格表示も義務づけられていた。また、貿易を行っている都市では、市令、市丞が貿易を管理した。政府の商工政策はかなり管理的なものであった。政府の目的は、市場価格を一定させ、特定の商人が商取引を独占し、売買を強制することを取り締まり、一般商人を保護し、商取引が円滑に行うことを意図していたとされる。市ではない坊でも店舗は存在し、商取引は行われ、行に属しない特殊な商品を扱う商人や零細な行商や飲食店が多かった。そこでは、夜店も運営できた。安史の乱後、時代が進むにつれ、店が城内に広がり、市の営業時間は守られなくなり、市制は次第に有名無実化した。唐代中期以降は、都市以外にも、水陸の交通の要衝である城外や港の近くなど行商の往来が激しい地域に、自然発生的に草市(墟市)という市が生まれた。草市は、水運が発達した江南地方を中心に広がった。両税法が制定され、農家も銭納が義務づけられたことや、茶などの商品作物の存在によって、商品経済は農村にまで広がり、農村交易も一般化していったため、草市は定着していった。政府は鎮を設けて管理した。草市は発展し、州県の所在地までになることもあった。唐代末期には、坊の壁は破られ、行の管理もゆるんでいき、市制は機能しなくなっていった。唐代の市では、肆や舗と呼ばれる商店は、扱う商品の種類ごとに商売を行う区画を決められ、『行』という同業組合の組織に組み込まれた。行は、長安だけで220行(120行の説もある)存在していた。行に属する商人は行人と呼ばれ、責任者である行頭を通じて、市署の管理を受けた。行頭は行人の検察を行い、隠した場合は重罰を受けた。行は、肉行、鉄行、太衣行、秤行、絹行、金銀行、銀行、薬行、鞦轡行などが存在し、米や絹の行は幾種類も存在し、商業の専門化は進んでいた。行は社邑の構成をなしていることもあり、宗教活動も行った。行は国家の管理を受け、平準署の官物売買や物価調整に協力をしながらも、自治的な同業組合としての共同的な行為も同時に行った。唐代中期には、市制が廃れ、行に対する政府管理はゆるくなり、行の機能は、同業商店街から、同業商人組合というギルドに似た意味に変化した。そのため、行もまた、戸税の徴税対象となった。行の独占も商業の競争が進むなかで次第にくずれていった。交通については、すでに整備されていた馳道を利用し、さらなる補修拡張を行った。そのため、長安を中心とした各地方につながる道路、水路が整備されていった。道路には、30里(約17km)ごとに駅站(駅館、公営の宿)が置かれ、公文書を運ぶ政府の使者や地方へ赴任し、帰ってくる官僚が利用した。駅站の近くには、往々において民間の宿が存在した。宿の名称の最後には、『駅』、『館』、『店』とつくことが多かった。唐全土には1,639もの駅站が存在し、水駅が260、水陸駅が86か所設置されていた。駅站を利用できる政府関係者は、食糧、運送、宿泊が無料であった。また、道路の五里ごとに『里隔柱』という標識が置かれ、十里ごとに別の標識を立てられた。幹線道路沿いには多数の店舗が建ち並び、交通は大いに発達した。当時の貴族や官僚は外出には車を使わず、馬に乗り、牛車に乗るのは女性が多かった。牛車はまた、運送に利用された。隋代からの駅伝制度を発達させ、駅站は整備され、役人の宿泊や馬の確保に使われた。一等の駅は馬75頭が置かれていた。関津制度によって、水陸の要所に関所が置かれ、旅人や荷を検分して、商人から税を徴収した。また、商業のための往来するために、商人は「過所」という通行証明書を、中央では尚書省、地方では州で発行してもらい、所持する必要があった。紛失した場合、審査の上で再発行となった。過所に許された経路を通れば、遠距離でも行くことができたが、不正に通関しようとしたものは罰を受けた。また、安史の乱以降は、人の動きが活発化して、藩鎮の州や県で「公験」という通行証明書も発行された。唐代の関津制度は、賦役逃れや誘拐、外敵の潜入を防ぐために厳格であった。唐代後半には、軍事伝達が余りに頻繁となり、駅站が増大して、駅伝制度は崩れていった。大運河の開通後、水路の重要性が大いに増した。水運や造船の発達により、大規模な輸送が可能になり、運河の度重なる改善もあわさって、大量の食料が運搬され、長安の食料不足が解消した。海運もまた、造船技術の向上により発達していった。幹線道路沿いは、民家や商店が多く、民間の旅人でも食糧に不足はしなかった。民営の旅舎や逆旅と呼ばれる旅館も多数存在した。9世紀の唐代を旅行した円仁の『入唐求法巡礼行記』によると、円仁は長期間の旅行をほとんど危険もなく行っている。宿屋は寝具持参で自炊が原則であった。相部屋が多く、その時は、寝床だけを借りることになる。寝床は大きいのを牀、小さいのを榻といった。使用しない時は寝床は壁に立てていたが、宿では常時、設置していたところもあった。食店という食堂を兼ねた宿も存在したが、安宿は自炊が一般的で、飯だけはつける宿もあった。旅行は遠距離なものが多く、長期間に渡るため、馬車や馬、ロバ、ラクダで荷を運ぶことが多かった。相部屋には炉があり、部屋で煮炊きを行い、外から食糧や酒も持参できた。宿屋の中に馬小屋があることもあった。宿は貸し切りもあり、小房という個室もある宿も存在した。唐政府は郷里制を敷いて村落の自治に委ねた。郷は500戸、里は100戸までの単位で、運営のために里正がおかれ、隋代に存在した郷正は廃止した。里の下に隣保が置かれ、五戸ごとに保長が一人置かれた。散村は村、都市の区画は坊と呼ばれ、村正、坊正が置かれ、里正と同格とした。里正は里内の代表者で、正式な役人ではなく、官僚に使役された胥吏と、農民の間をつなぐ役割であった。里正は租庸調が免除され、農業奨励、徴税、治安の維持、戸籍のもととなる手実の作製などに従事した。政府は逃戸がでた場合、里正にその分の連帯責任を負わせることが多かった。唐初では、粟栽培の技術は高く、粟の生産が主流であった。唐初が過ぎる頃、長安など都市住民に、粉食が流行したことを背景に、次第に粉食に適した麦の生産が増加していった。早熟性の粟と麦が組み合わされ、二年三毛作が行われ、生産力を増加した。麦は需要の増加に伴い、南方でも生産されるようになった。また、唐代中期以降は、直播き式であった稲作は苗代式に変わっていった。南方にはいまだ広大な未開発の土地が残っていたため、次第に開発されていった。農業は初期における均田制の実施や水利技術・灌漑技術の向上などにより発展していった。手工業は、工部および少府監、将作監の三つが所管していた。唐政府は、府兵に似た組織を適用して、大量の職人を管理した。官営手工業に従事する職人は三種類あり、官奴婢らの無期服務者、輪番職人(番戸は1年3番、雑戸は2年5番。1番は1か月)、1年に20日の賦役の義務を負う一般職人がいた。無期服務者は絹で代納することができた。職人は徴税等により賦役を免除を許されたが、技巧であると認めたものは許されなかった。職人は世襲であり、転業も許されなかった。また、「雇」となる手芸職人は、日当絹3尺が相場であり、雇には政府が正式に認めた職人や輪番終了後の職人がなることがあった。これは和雇と呼ばれ、比較的自由であったが、輪番の非番のものが、和雇を名目に束縛されることがあった。職人は日当として代物が支払われるが、政府による不払いが時代が進むほど増えていった。役所における職人の訓練には一定の期間を設けており、年末に試験を行い、合格したものは職人となれた。特に優れたものは「巧」、一般的には「匠」と呼ばれた。役所は技術相伝であり、民間にも徒弟制度があった。武器の私製は禁止し、奴婢に対しては、死刑や流刑で対し、統制を行った。政府に官手芸職人、民間手芸職人は管理されたが、彼らの働きが、手工業を発展させる原動力となった。手工業は、民営のものも発達し、家庭で製造するものと、工房で人を雇いつつ自ら生産を行い販売を行うものがあった。行組織も発達するとともに、官営の大規模な工房が増加し、専門に雇工として従事するものも現れている。手工業では紡績業の絹の生産が最も発達していた。租庸調の税制により、農民にとって、絹を政府におさめねばならないことから、大事な副業であった。絹は、絹織物、錦織物として朝廷の衣に用いられ、八等に分けて評価された。極めて軽く、透明に近い薄紗に、蝋纈染により精緻な絵が描けるほど彩色技術が進んでいた。錦は彩色の飾り模様を持った織物で、織る前に糸に染色を施したものであった。漢代から縦糸を使って模様を表した経錦を引き継ぎ、横糸を使った緯錦を加え、より細密で多彩となった。絹織物は前半は北方で栄え、中唐以降は南方で発展した。また、玄宗期から都市部に大規模な個人紡績工場も出現し、綿織業も発達した。絹は唐代前半は貨幣の役割を果たして国内で流通し、外国にも主要な貿易品としてシルクロードを通って大量に輸出された。磁器は、陶器から分離して独立した分野として生産されるようになった。磁器のうち、白磁は、河北邢州の「邢窯」の代表とし、北方でつくられ、堅牢かつ純白であった。また、青磁は、越州を代表とし、南方で作られ、精緻で、うわぐすりが潤沢で茶器として好まれた。唐三彩も作られ、陶磁器は外国に大量に輸出された。製磁業は拡大し、顕著な進歩をして、金銀器、漆器に代わり、日用不可欠なものになった。唐代の陶磁器は高い水準に達しており、高い評価を現代にまで受けている。製紙は、原料として麻・藤・樹皮・竹・繭・絹などが使われ、種類の拡大に伴い、生産コストが減少した。また、原料の違いによる紙の品種も増えた。紙は大いに普及し、四川や江南で名紙と知られたものが作られた。蜀の地では加工紙も作られ、書画の発達とともに精巧となった。また、大規模な製紙工場も造られている。鉱業は少府監下の掌治署令が管掌し、後に塩鉄使の管掌となった。銅鉄には税を課し、白蝋は官で販売していた。西北辺境では、採鉱や冶金をすることを禁じ、冶金所では、生産に官に報告する必要があった。他の地域では、私人が自由に採ることができた。銀、銅、鉄,錫、鉛、丹砂があり、銅鉄の生産が多かった。石炭や石油の探鉱も存在した。金属器も発達した。鋳造器物の技術も精巧であり、揚州の銅鏡は世に知られ、巨大な鏡など多様な銅鏡がつくられた。また、主に宮廷で使用された金銀器物の技術も向上し、金銀器は中央アジアや西アジアの装飾を参考にして作られ、装飾は緻密なものになった。鋳造器物の製造には、水力利用した溶解作業も行われ、全体的な生産や質は向上し、金属製品の供給は増大した。造船業は工部配下の水部郎中と都水監配下が管掌していた。政府が大規模な造船を行ったことも多かった。造船技術は発達を続け、江南各地で造船業が発達し、官営の工場も増え、民間の造船も増えていた。民間の船には積載量一万石に達すものもあり、船員には船中で一生を過ごすものもあった。豪商が大船を所持し、商品輸送に使われた。製塩業は、唐政府により統制、独占され、海塩、地塩、井塩は全て管理された。唐代中期以降は、塩鉄使が設置される。井塩は、四川の東側に集中していた。海水塩については、江南に偏在していた。各地の塩について、食用にする地域が厳しく規定された。私塩の売買は厳罰で臨まれたため、塩は相当に高額となった。中期以降の唐王朝は塩税に支えられ、製塩職人は過酷な労働を強いられて、自由を有しなかった。次第に、塩の密売が起き、茶密売とあわせて農民暴動につながっていった。農業や手工業が発展もあり、商品市場に運ばれる豊富な物資が存在し、商業も発達した。また、交通全体の発達したことで、政府により貨幣や度量衡の統一も急速に推進され、商業全体のさらなる発展をうながした。また、海外貿易の進展もあり、高宗期には多くの大商人が生まれて、活発な活動を行った。経済発展とともに、邸店が増加し、櫃坊、飛銭が出現した。邸店は行商のための倉庫業と宿を兼ね、交易の場を提供するものである。唐代には行商とともに邸店が増加し、長安では市のある坊の内壁に沿って邸店が建っていた。大商人は邸店を経営し、巨利を得た。時代が進むにつれ、全土に邸店は普及していった。櫃坊は唐代中期に、交易が増加し、現金が不足したことを背景に邸店から転じる形で出現した。行商に対して、銭貨の保管を行い、また、商品を担保として支払いを代行することで、現金決済の不便を解消した。櫃坊では主に農民相手に高利貸しも行い、その金利は4割以上に達した。飛銭もまた櫃坊より少し遅れて出現した。商人が長安の進奏院や富家などに現金を払って受け取った、預かり券を目的地で現金に換え、その上で商品を購入して長安へと運ぶという、為替の一種である。飛銭は朝廷の管理のもとで行われたが、後に商人の信用を失い、機能しなくなった。主要な交易品としては、絹、磁器と紙、茶があった。絹は、衣などの本来の用途ばかりでなく、国内では貨幣として使用され、国外においても、シルクロードなどで交易品として用いられた。紙は製紙技術が発展し、竹紙が大いに用いられるようになった。磁器は大いに国内に流通し、私営の作業所からつくられ、国外にまで広まった。茶も北方で喫茶の習慣が一般化して、全国で茶店が建てられるようになり、主要な交易品となった。また、茶は回鶻人の馬に対する交易品となり、騎馬民族にまで伝わっていった。茶業は大いに発達し、多くの行商が茶を採り、ほうじて商品とした上で、各地を巡った。このため、商人の往来は激しくなり、各地の草市の創設に影響した。唐初の太宗時代に、『工商の類は力量が優れていても、財物を厚給したり、朝賢の君子(政府の高官)と同列にしてはならない』と定められ、唐政府は商業の急速な発達に対応するため、管理を厳格にし、税の徴収を行った。商人は、通過する関・津で、通るために公文を見せねばならなかった。商人が奴婢、牛馬等を売買する時は必ず契約を行うことが、唐律で定められていた。だが、豪商富豪は、長安や洛陽に大勢居住し、次第に資産や荘園を多数所有するようになった。豪商は官僚と結託し、官僚になる秀才を養育していくようになった。また、地主が土地を農民から奪う兼併や、賦役の増加により、土地を失った農民は小商人となるものが増加し、次第に小商人層も増えていった。一方で、政府の官僚も次第に商業を行い、科挙と土地兼併により、官僚・豪商・地主は一体化しはじめる。彼らは、課税や賦役を免れ、利益を独占した。これは「影庇」や「影占」と呼ばれた。大商人は官位を金銭で買って官僚となり、官僚の商業経営も一般化した。安史の乱以降、北方は戦乱と藩鎮により疲弊し、経済発展は阻害され、南方が発展していった。貿易も吐蕃の興隆によって、河西の地を奪われ、西北の陸路(シルクロード)交易は次第に衰退し、東南の海外貿易が盛んとなった。その一方で、都市における商業はより発展し、回鶻やソグド人の商人が長安を訪れ、交易の場が市のみに限定されなくなり、夜間の市も発生する。また、長安には統治階級である富裕層が多数居住していたため、膨大な商品の需要が生まれ、経済発展の要因となった。戦乱や藩鎮との抗争、均田制の崩壊のため、財政困難に面した政府は両税法の制定後、商人に新たに課税を行うことになった。小商人は、政府および影庇の特権を持った大商人、双方からの圧迫を受けることとなり、失業するものが多く、塩や茶の密売や密貿易、盗賊行為を行うものが増加することになった。唐政府は、隋末の混乱した貨幣経済を立て直すために、641年に新たに統一貨幣である銅銭「開元通宝」を発行した。666年に「乾封泉宝」を発行したが、翌年には廃止となり、「開元通宝」も戻された。初唐は、銅銭不足もあり、開元通宝などの銅銭と絹が貨幣の機能を果たした。また、唐前半は銅銭の私鋳が横行した。商品経済の発展などにより、次第に、絹は貨幣としての機能を失い、銅銭が貨幣の主流を占めた。さらに、両税法の制定以降は、税の銭による納付が義務づけられ、銅銭不足により、「銭(銅銭)貴貨(商品)賤」という一種のデフレ状態に陥った。そのため、両税法制定後数十年で、穀物や絹は銅銭に対して、数分の一の価値にまで落ちる。そのため、悪銭の私鋳はより激しくなった。唐政府は銅不足のため、絹による貨幣を一部で正式貨幣として認めた。また、官僚や大商人の間では、金銀や銀銭が使用されることもあり、その地域は拡大していった。唐代に発展した大都市は都である長安の外に、北部の洛陽、南部の揚州、成都、広州などが存在した。長安は、唐代のほとんどの期間、唐の都であり続けた。人口は約100万人が従来からの通説であり、現在は諸説あるが、各説100万人の前後であることが多く、世界最大の人口を持つ都市である説が有力である。宮城が東に存在したため、長安の東には貴族や官僚が住み、西側に庶民が住んでいた。東西に存在した二つの市である東市と西市を中心に、商業地区が生み出された。東市の周りの坊には、北里と呼ばれた多数の妓楼のある歓楽街や旅館街、飛銭を発行をする進奏院、胡姫(外国人の少女)が給仕を行う酒場が存在した。また、庶民が多数居住した西市の周りには、西域から来たソグド商人が経営する金融業者、宝石商が店を構えていた。また、多数の地方から来た流寓者が西市付近に住み、スラム街となり、「客戸坊」と呼ばれていた。時代に進むにつれ、皇族、高官、宦官が街の東北部の宮城の近くを占めていった。市には、数百の行があり、邸店が立ち並んでいた。東市では高級品を主に扱ったが、商人は西市に集まり、西市の方がにぎやかであった。街中に飲食店が店を開いていた。盛唐から、運河の改良により、船で各地の食糧や特産品が運ばれるようになった。胡人は、突厥やソグド、回鶻人だけではなく、アラビア、ペルシャ、インド人なども多く、そのため、長安は世界でもっとも繁栄した国際都市となった。また、長安は関中という盆地にあり、要害に囲まれ、監牧地が近くに存在し軍馬が容易に供給されたため、防衛上の機能は高かったが、輸送上の問題があった。そのため、しばしば食糧難に陥り、盛唐までは皇帝は洛陽に移動することが多かった。また、シルクロードをつたって、西域国家経営を行い、西域とつながるために適した地勢でもあった。洛陽は、華北平原の西に存在し、江南から長安から続く経路にあたり、大運河へ黄河に乗り換える中継点であった。人口100万人を超えたと称していた時期もある。洛陽には「北市」、「南市」、「西市」と三つの市場が存在し、それぞれが運河沿いに立地していた。ただし、西市の存続期間はわずか2~30年であった。北市には各地の船が一万艘ほど停泊し、水路を埋め尽くし、ソグド商人たちが逗留し、金融業や香料、珠玉、象牙などの外国商品を扱い、大変なにぎわいを見せていた。北市の周りには、貧困な流寓者が集まる「糠市」が存在した。南市は二つの坊にまたがり、120種類の行があり、店舗や邸店が立ち並んでいた。ゾロアスター教の寺も3つ存在した。華北や江南から、長安へ送られた来る穀物はいったん、洛陽で集積されて、運ばれていった。洛陽は長安からの東方へ結ぶための都市であり、長安と相互補完の関係にあった。武則天が執政を行う時代に都が移ったこともある。揚州は、揚州は海岸と長江、大運河の交差点にあたり、大運河がまちを通過する水運の要衝であった。また、造船業も発達とともに、全国の商品の集散地となり、江南経済の発展とともに、重要性は増していった。揚州は海外への貿易港も存在したため、貿易都市として発展し、人口も5,60万人にまで大幅に増加し、国内外の商人が集まる都市となった。揚州に集まる外国船は、ペルシャ、アラビア、朝鮮、日本のものが存在し、多数のアラビア人やペルシャ人が在住した。盛唐以後は市制は崩されて、坊壁はとりはらわれ、通りに面して店舗を建て、さらに後には夜市も開かれた。また、揚州は江南の海塩の集散地でもあり、塩商人が集まり繁栄した。商品として、米、塩、金銀器、絹、木材、茶などが取引され、揚州で積み替えられて華北へ運ばれた。金や銀の両替も行われた。宋代初期まで繁栄した。成都は、蜀地方が温暖な地方で水運が開け、隋末の戦乱もなかったため、発展した。特産品としては、養蚕、絹と紙が存在した。絹は上等なものは蜀錦として知られた。また、成都では毎年春に『蚕市』と呼ばれる市が城内各地に立てられ、人々は群がったと伝えられる。紙は品目も多く、質も優良で名産地として知られていた。特に、『薛濤箋』という唐代の妓女の名を冠した紙は有名であった。成都も人口が約50万人いた。揚州と成都は特に発展した商業都市であり、『楊一益二』と言われ、文人たちの楽園として知られていた。広州は、玄宗時代に、東南貿易を統括する市船司が広州に設けられたため、海上貿易の中心地となり栄えた。唐代初期は疫病が多い地帯であったが、次第に漢化されていった。東南アジア各国やインド、スリランカ、ペルシャ、アラビアなどの西アジア国家の外国商船が訪れ、貿易を行った。広州には蕃坊という外国人の居住区が設けられ、居住する外国人の指導者が自治を任されていた。外国人も市制に従い商売を行ったが、広州には夜市も存在した。広州の貿易は、大きな富をもたらしたため、市船司の長官に利得を目的として、宦官が頻繁に就任し、また、広州の長官も財を貪るものが多く、684年に長官が外国人に殺され、758年に外国船に襲撃されたりする事件が起きている。広州には多数の外国人が滞在していた。唐末の黄巣の乱において、広州が陥落し、かつての繁栄を取り戻すことはなかった。この時、虐殺された外国人の死者は12万人以上であったという記録もある。外国との交易はなされ、陸路をつたって外国との交易が行われていた。東方からは、渤海や新羅と交易がもたれ、渤海湾沿岸から廬龍の関税を通り、交易がなされた。渤海や新羅からは、高級毛皮・朝鮮人参などが運ばれた。北方とは、突厥、回鶻との交易において、唐の絹が、馬と交易された。後に唐の茶も交易品に加わった。西北との国家とはシルクロード交易がなされた。640年に、唐は高昌国を滅ぼして安西都護府を置き、直轄とし、西域経営を行った。西域に住む商業民であるソグド人は広範囲に商業活動を行い、安西都護府の軍に送られる絹や布は、唐初は人夫が行っていたのが、8世紀前半には、輸送量が増えたため、ソグド人を含む商人に輸送を委託されたことによって、交易は盛んとなった。シルクロード交易では、金銀と絹が通貨として使用され、唐初では銀が重んじられたが、唐の影響力が強くなるにつれ、絹や銅銭が重んじられるようになった。交易路は険しい上に、家畜が運ぶ長距離輸送に頼るため、重量が軽く価値が高い奢侈品や嗜好品が主な交易品であった。唐からは、絹・紙・茶が輸出され、金銀器、真鍮、ガラス製品、玉、ラピスラズリ、絨毯、薬材、香料、胡椒、葡萄酒などが輸入された。輸送には、奴隷、馬やラクダ、驢馬などが使用され、それ自身も交易品となることもあった。西域の商人は唐各地を回り、多くのソグド人が定住して、陸上交易は隆盛する。しかし、安史の乱以降は、西域における唐の勢力が衰え、吐蕃と回鶻の進出により、シルクロード交易は衰退し、唐の外国交易の主流は東南海岸からの海上貿易に移っていった。海岸沿いには多くの港と都市が存在し、新羅、日本、東南アジア、インドなどへの海上航路が通じていた。海上貿易を統括する市船司が713年には広州に設置された。唐代の造船技術と航海技術は進歩し、遠洋船舶の製造が可能となった。広州を中心として、南方国家との交易が盛んとなり、海上貿易はさらに発展した。市船司は市船使を責任者とし、胡人の商人は関

出典:wikipedia

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