ミサ・ソレムニス(Missa solemnis 盛儀ミサ)は、ミサの名称の一つ。典礼文を唱えて行われる「読唱ミサ(missa lecta)」、歌唱によって行われる「歌ミサ(missa cantata)」に対し、主司式司祭と助祭・副助祭による読唱ミサに、合唱による歌ミサを伴うものを呼ぶ。音楽用語としては『荘厳ミサ曲(そうごんみさきょく)』と訳されることも多いが、日本カトリック教会では、現在は荘厳ミサを廃して「盛儀ミサ」を正式名としている。音楽作品としては、ベートーヴェンのものが有名である。ベートーヴェンのミサ・ソレムニス ニ長調 作品123は、1823年に完成された晩年の大曲である。献呈の相手は親交のあったルドルフ大公。当初、大公の大司教就任祝いとして書き始められた。しかし、書き進むうちに次第に構想が広がって、就任式に間に合わなくなり、完成までに結局5年間を要した。実際に大公が演奏したかは不明だが、現在でもベートーヴェンが書いた最後の大宗教曲として広く演奏されている。ベートーヴェンは壮年期のミサ曲ハ長調と、晩年のミサ・ソレムニス ニ長調を残しているが、前者は伝統的な教会音楽の上に作られた作品であるのに対し、後者は単なる教会音楽を超えたより深く普遍的なものを含む、と見るのが一般的である。その理由としては、テキスト自体はカトリックの典礼文に則っているものの、『クレド』以降の歌詞の取り扱い方が伝統的なそれとかなり異なっている事などが挙げられる。また、この作品は主に教会でなく演奏会で演奏され、ミサの式典ではごく稀にオーストリアなどで演奏されるに過ぎない。ベートーヴェンは権威的・教条主義的なキリスト教会に対しては十分批判的な思想と宗教観を持っていたという事も注目されてきた。例えば、ワーグナーはこのミサ曲を「真正なベートーヴェン的精神を持つ、純粋な交響曲的作品」と評し、20世紀を代表するベートーヴェン研究家のパウル・ベッカーなども、「(バッハのような)素直な信仰から生じる歌詞に(音楽を)合わせる様な処理はベートーヴェンの考えには現れえず」、音楽家として自身の深く自由な思想を、単なる歌詞の意味を超越した音楽によって表現した、と語っている。一方、ベッカーと相対する研究家ヴァルター・リーツラーは、作品の成立過程から見ても、これは教会で演奏されるべき作品である、すなわち「一つ一つのミサの言葉をベートーヴェンが重視した事を見逃してはならない」とした。しかし、その歌詞は「生成発展する音楽の有機的な連関に組み入れられたため」、おのずとバッハやパレストリーナのミサ曲の歌詞とは異なる意味を持ち、しかもより「深く正しい」意味を持つと論じた。ゆえに「(この曲について)心理的な写実主義を論じたあらゆる説明は誤りであるか少なくとも浅薄である」と結論付けている。何れにせよ、この曲はただ歌詞に見合った曲をつけたような旧来型のミサ曲ではなく、ミサの言葉の外面的な意味よりも豊かな内容を含む交響曲的なミサ曲である、と見るのが一般的である。同時期に作曲された第9交響曲が主にホモフォニーで書かれているのに対し、ミサ・ソレムニスはベートーヴェン晩年独特のポリフォニックな表現が主体となっているのも特徴である。この曲における対位法はバッハなどのそれに比べてある意味で簡素であり、その技巧や意匠の披瀝が中心となっている作品ではないが、『グローリア』、『クレド』などは、かなりアクロバティックな対位法的処理を含む。『キリエ』冒頭には「心より出で-願わくば再び-心に向かうよう」にと記され、『アニュス・デイ』では戦争を暗示する軍楽調の部分や「内と外の平和を願って」とのベートーヴェン自身による指示が書き込まれている。これらは、ベートーヴェンが心の平安と外的な平和を統一して希求する音楽として作曲していたことを示している。『アニュス・デイ』においては、ヘンデルの影響も古くから指摘されている。1824年4月7日にサンクトペテルブルクでの「音楽家未亡人のための慈善演奏会」で初演されている。ウィーン初演は1ヵ月後の5月7日で交響曲第9番とともに演奏されたが、全曲ではなく、『キリエ』、『クレド』、『アニュス・デイ』しか演奏されなかった。楽譜の初出版は1827年。演奏時間は約80分(各10分、18分、20分、16分、16分)。ミサ曲の通常文による歌詞はこちらなどを参照のこと。
出典:wikipedia
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