川口 能活(かわぐち よしかつ、1975年8月15日 - )は、静岡県富士市出身のプロサッカー選手。ポジションはゴールキーパー。日本代表としてFIFAコンフェデレーションズカップ2001ベストイレブン、AFCアジアカップ2004ベストイレブンなどの受賞歴を持つ。国際Aマッチ出場数は日本代表歴代3位、同ゴールキーパー歴代1位の116試合を記録。4大会連続でFIFAワールドカップメンバーに選出されている(1998年 W杯フランス大会、2002年 W杯日韓大会、2006年W杯 ドイツ大会、2010年W杯 南アフリカ大会)。オシムジャパン、岡田ジャパンでは主将を務めた。漫画『キャプテン翼』の影響や兄の薦めから9歳でサッカーを始め、小学生時代は富士市内のスポーツ少年団でプレーした。当初はポジションを転々としたが、小学校4年生から本格的にGKに専念する。1988年に東海大学第一中学校に入学。在学中に3年連続で全国中学校サッカー大会出場を経験し、2年時・3年時の2度、大会優秀選手に選出された。1991年に清水市立商業高等学校(現静岡市立清水桜が丘高等学校)に入学。1年生時からレギュラーとして試合に出場した第70回全国高等学校サッカー選手権大会に望月重良や平野孝らと共に出場し、前園真聖を擁する鹿児島実業に1-2で敗れ3回戦で敗退した。2年生時は出場はならなかったが、翌年の第72回全国高等学校サッカー選手権大会に出場。田中誠、小川雅己、佐藤由紀彦、安永聡太郎、鈴木悟ら後のJリーガーを多く擁するチームを、キャプテンとして率いた。予選から準々決勝まで11試合連続無失点を記録すると、準決勝で城彰二を擁する鹿児島実業高校と再び対戦。試合は2-2でPK戦にもつれ込むが、鹿児島実業4人目の藤崎義孝を川口がセーブして5-4で制した。決勝戦では前年度王者の長崎県立国見高等学校と対戦し、2-1で勝利。5年ぶり3回目の選手権優勝を果たした。1994年、横浜マリノスに入団。当時、マリノスには日本代表GK松永成立が在籍していたが、2年目の1995年シーズンに監督のホルヘ・ソラリが若手の川口を正GKに抜擢。これにより、4月26日第11節柏レイソル戦でJリーグ初出場を果たした。初出場で浮足立ったプレーもあったがゴールを守り、無失点で勝利した。この後もポジションを確保し、この年のNICOSシリーズは全試合出場。7月19日に優勝が懸かったサントリーシリーズ第25節清水エスパルス戦で、1-2でリードされた後半ロスタイム、コーナーキックのチャンスでゴール前に上がりヘディングシュートをするもののゴールポストに当たり得点にはならなかった。この試合には敗れたもののチームは1stステージ優勝を経験し、1995年度のチャンピオンシップでヴェルディ川崎を下し年間優勝。自身も初タイトルとなる、Jリーグ新人王を獲得した。2001年10月21日、イングランドのフットボールリーグ・チャンピオンシップ(2部)に所属するポーツマスFCへ移籍し、日本人GKとして初の欧州移籍を果たした。移籍金180万ポンド(当時のレートで3億円)は、ポーツマス史上最高額(当時)であった。これにより10月20日の2ndステージ第10節セレッソ大阪戦がマリノスでのラストゲームになった。新天地でのデビューは11月3日のリーグ戦第8節シェフィールドW戦で、チームは3-2で勝利した。また、2002年1月4日に行われたレイトン・オリエントFC戦で日本人選手として初めてFAカップに出場した。2001-02シーズンはリーグ戦11試合に出場したが、レギュラー確保には至らなかった。2002年にはウェストハム・ユナイテッドFCからトリニダード・トバゴ代表のシャカ・ヒスロップが加入したこともあって、シーズンの大半をリザーブリーグで過ごす。イングランドでの2年目は1試合の出場にとどまり、プレミアリーグ(1部)に昇格した2003-04シーズンは出場機会を完全に失った。結局、2002-03シーズンに途中出場した2003年5月4日第44節ブラッドフォード・シティAFC戦 がポーツマスでの最後の試合となり、プレミアリーグでは出場できなかった。試合の出場機会を求め、2003年9月4日、デンマークのFCノアシェランに移籍。10月5日SASリーガ第11節戦にてスーペルリーガ公式戦に初出場した。しかし、後にデンマーク代表にも名を連ねたにポジションを奪われ、2004年4月12日第25節ヴィボーFF戦以降出場機会はなかった。2005年にノアシェランから地元・静岡県のチームであるジュビロ磐田へ移籍。同年4月10日のJ1第4節FC東京戦で、約4年ぶりにJリーグ公式戦に出場した。2006年は全34試合にフル出場し、Jリーグベストイレブンのタイトルを獲得した。2008年5月10日の第12節アルビレックス新潟戦(東北電力スタジアム)で史上32人目、GKとしては史上3人目のJ1通算300試合出場を達成。しかしこの年チームは終始低迷し、残留のかかった最終節の大宮アルディージャ戦も敗れて16位でシーズンを終えた。12月13日、J2・3位のベガルタ仙台とのJ1・J2入れ替え戦第2戦では、後半24分の平瀬智行のループ気味のヘディングをセーブ 後半ロスタイムでの顔面でのセーブ などの働きを見せ、磐田のJ1残留に貢献した。2009年はバーレーン遠征中の1月24日に右脹脛を負傷。肉離れと診断され、Jリーグ開幕戦の出場は微妙と報道されていたが、開幕戦に間に合わせた。しかし守備の乱れなどもあり、モンテディオ山形戦(2-6@ヤマハ)、第2節ガンバ大阪戦(1-4@万博)の2試合で計10失点を喫し、更に第6節清水エスパルス戦まで5試合勝利がなく、その後失点は減ったものの波に乗り切れず低空飛行が続いた。9月19日、第26節京都サンガF.C.戦でFW金成勇と接触した際に右脛骨骨幹部骨折で負傷、右脛骨骨幹部骨折により全治6ヶ月と診断され 離脱。残りのシーズンを棒に振ることとなった。2010年序盤はリハビリのためベンチ入りすらなかったが、自身も代表に選出された南アフリカW杯後の8月7日、第17節山形戦(0-1)で約1年ぶりに公式戦に復帰した。この年はリーグ戦17試合に出場。リーグ戦こそ前年同様序盤の出遅れもあって2年連続で11位に留まったものの、第32節では敵地で鹿島アントラーズ相手に好セーブを連発して8年ぶりの勝利を挙げた。ナビスコカップでは決勝トーナメント4試合に出場し、9年ぶりの決勝進出。決勝のサンフレッチェ広島戦では槙野智章のPKを止めるなど好プレーを披露し、12年ぶりの優勝を達成した(なお、この優勝が磐田にとっては7年ぶりのタイトルだった)。2011年8月3日に行われたスルガ銀行チャンピオンシップでは、2-2で迎えたPK戦で2人目と3人目を止めて優勝に導いた。また5年ぶりに全34試合にフル出場し、順位も4年ぶりに1桁(8位)を記録した。2012年3月10日のコンサドーレ札幌との開幕戦で史上3人目のJ1通算100完封を達成した。続く3月17日のサガン鳥栖戦では史上8人目のJ1通算400試合出場を達成した。しかし、3月22日の練習中に右アキレス腱を断裂。全治6ヶ月と診断され、長期離脱となってしまった。その後、12月15日の天皇杯4回戦・鹿島戦にて約9カ月ぶりに公式戦に復帰するも、チームは逆転負けを喫した。2013年シーズンはチームの成績低迷の影響もあり徐々に出場機会を失い、8月10日第20節サンフレッチェ広島戦(1-2@Eスタ)以降はスターティングメンバーから外れるようになる。8月31日第24節ヴァンフォーレ甲府戦(1-1@ヤマハ)では5試合ぶりに復帰するが、その後のリーグ戦での出場はなく、以降は腰痛の影響もあり登録メンバーから外れることもあった。最終節となる12月7日の大分トリニータ戦(3-1@ヤマハ)で久々の出場を果たし、9試合ぶりの勝利に貢献するが、翌年のJ2降格が決定しているチームからの契約期間満了の通達により、この試合をもってジュビロ磐田での最終ゲームとなり、9年間在籍したチームを去ることになった。2014年1月17日、J2に所属するFC岐阜へ移籍。同年リーグ戦37試合に出場した。2015年1月15日、FC岐阜が15年シーズンの契約を更新したことを発表。同年より背番号が22から1に変更される。2015年シーズンはプロ入り後初のひざの故障に悩まされ、第7節の東京ヴェルディ戦を最後に長期離脱。同年11月14日カマタマーレ讃岐戦で7か月ぶりにベンチ入り。リーグ最終節のアビスパ福岡戦で約7か月半ぶりにスタメン出場を果たした。同年11月27日、FC岐阜は契約満了により川口の契約更新を行わないことを発表し、退団することとなった。2016年よりJ3に所属するSC相模原に完全移籍した 。3月の開幕直前に左足首を負傷したが、同年5月8日に行われた第8節・ブラウブリッツ秋田に出場し、J3デビューを果たした。1994年2月2日マレーシア国際トーナメント、U-23マレーシア代表戦に初出場を果たす。以降U-23サッカー日本代表としてアトランタオリンピック予選に正GKとして出場し、メキシコオリンピック以来となる28年ぶりのオリンピック出場に貢献する。その後、オリンピックサッカー日本代表選手のメンバーに選出される。1996年7月22日、アトランタオリンピック1次リーグ第1戦、ロナウドやリバウドといった錚々たる面々を揃えたブラジル代表と対戦。防戦一方の展開の中、素早い飛び出しと堅い守備で相手の攻撃を凌ぎ、28本にも及ぶシュートを無失点に抑え込む。ブラジル相手に1-0の完封勝利を収めた大波乱の立役者として大きく賞賛された(マイアミの奇跡も参照)。ブラジルの代表監督マリオ・ザガロは「日本のGKは素晴らしかった」と語っている。チームはグループリーグを2勝1敗で終えるも3位となり決勝トーナメント進出を逃す。1996年8月25日のウルグアイ戦に、当時の加茂周監督によりA代表へ初招集される。1997年2月13日、キングスカップスウェーデン戦において国際Aマッチ初出場を果たし、以降はコンスタントに出場機会を増やしていく。フランスW杯・アジア最終予選の全試合に唯一出場し、特に苦戦を強いられたアウェー戦での活躍が光り、9月19日のアブダビでのUAE戦では劣勢の状況の中、相手を無失点に封じ込め勝ち点1をもたらした。日本のサッカーの歴史に深く刻まれる“ジョホールバルの歓喜”でも2失点はしたが、安定した守備を披露し歴史的な場面に立ち会った。1998 FIFAワールドカップのメンバーに選出され、初戦のアルゼンチン戦では相手の23本のシュートを1失点のみで抑え、敗れたものの善戦した。その後のクロアチア戦(0-1)、ジャマイカ戦(1-2)でも奮闘するが敗れグループリーグ敗退となった。フランスワールドカップ後に就任したフィリップ・トルシエ監督の下では、楢崎正剛の台頭もあり徐々に出場機会が減り、シドニーオリンピックの代表からも外れた。しかし、出番が回ってきたAFCアジアカップ2000ではグループリーグの1試合を除く全試合に出場。決勝のサウジアラビア戦では完封勝利し優勝に貢献した。FIFAコンフェデレーションズカップ2001には正GKとして出場。グループリーグではカナダ戦とカメルーン戦の2試合に出場し、何れも完封勝利を収める。カメルーン代表監督のルシャントルは試合後「GKの並外れた実力を前に、我々はチャンスを阻まれてしまった」と語った。準決勝のオーストラリア戦では、豪雨に見舞われる難しい環境下での一戦となったが、大会を通じての4試合連続完封を成し遂げる。フランスとの決勝戦ではパトリック・ヴィエラに決勝点となる1点を許し、敗戦を喫した。日本代表は準優勝を収め、自身は同大会のベストイレブンに選出された。その後は海外移籍による出場機会の激減で試合勘など不満の残る状況が続き、コンディションが整わない日々が続いた。地元開催の2002 FIFAワールドカップでは代表に選ばれたものの出場機会は無かった。日韓W杯後にジーコ監督が就任してからも控えの立場が続き、FIFAコンフェデレーションズカップ2003のメンバーに選出されるが出場機会は無かったが、AFCアジアカップ2004では全6試合に出場。決勝トーナメント準々決勝のヨルダン戦、1-1のまま縺れ込んだPK戦ではいずれも入れられたら敗退が決まる状況で2本のシュート(3回終了時1-3)を阻止する。結果的にヨルダンは3人成功後4人連続で失敗し、日本の逆転勝利となった。ホスト国中国との決勝戦でも大会で披露した好調ぶりを発揮し、チームは2大会連続3度目優勝を果たす。自身もアジアカップ2004 ベストイレブンのタイトルを獲得。同大会ではシュート阻止率94.0%を記録した(サッカー解析システム「opta(オプタ)」より)。FIFAコンフェデレーションズカップ2005は国内組として出場。初戦となるメキシコ戦は1-2で敗れるが、続くギリシャ戦は無失点に抑えて1-0で勝利する。第三戦のブラジル戦では2点を先取される展開となったが、その後は得点を許さず、後半にはフアンが放った至近距離のシュートを顔面で阻止する気迫のセーブを見せる。その影響で一時的に脳震盪を患うが、その後もプレーを続け、日本は2点ビハインドから2点を取り返し引き分けに持ち込んだが、グループリーグ1勝1敗1分の3位で終え決勝トーナメント進出を逃した。2006年、自身3度目となるワールドカップのメンバーに選ばれ全3試合に出場。初戦のオーストラリア戦は相手の再三の攻撃を凌ぐも、スローインへの飛び出しから同点にされ、終盤に3失点を喫して1-3で敗れた。第2戦のクロアチア戦では、キックに定評があるダリヨ・スルナのPKを止め勝ち点1を呼び込んだ(0-0)。このプレーによって、ワールドカップでPKを止めた史上20人目のGKとして名を残した。またドイツ紙は川口に対し「何度も止めた英雄」と絶賛した。第3戦のブラジル戦では、次々に放たれる21本のシュートを浴び4失点を喫するも孤軍奮闘の守りを見せたが、1-4で敗戦。しかし英メディアはブラジルの猛攻を再三好セーブで凌いだ川口を絶賛し、ブラジルメディアも好セーブを連発した川口を高く評価した。チームはグループリーグ2敗1分けで決勝トーナメント進出を逃したが、自身はFIFAが選定した「グループリーグ敗退国ベストイレブン」の控えGKに選ばれた。また、ブラジル戦で前半ジュニーニョ・ペルナンブカーノのミドルシュートを止めたセーブが「2006 FIFAワールドカップスーパーセーブベスト10」ランキングの6位に選ばれた。ドイツワールドカップ後にイビチャ・オシム監督が就任して以降は、キャプテンに指名されると共に背番号1を与えられた。2007年3月24日のキリンチャレンジカップ ペルー戦で国際Aマッチ100試合出場を達成。自身3度目となるアジアカップには正GKとして全試合出場した。決勝トーナメント準々決勝のオーストラリア戦では、1-1で延長戦も終了し引き続き行われたPK戦では1番手のハリー・キューウェル、2番手のルーカス・ニールを連続で阻止する活躍を見せ4-3で勝利した。しかし、準決勝のサウジアラビア戦では2-3で敗戦。3位決定戦の韓国戦ではまたしてもPK戦にもつれたが5-6で敗戦し、3連覇は成らなかった。2008年3月26日に行われた2010 FIFAワールドカップ・アジア3次予選のアウェーバーレーン戦で、相手のセンタリングのボールを捌ききれず失点し、この試合を最後に約4年守っていた正GKのポジションを剥奪されたが、11月13日のシリア戦では楢崎の負傷により国際Aマッチ11試合ぶりとなる出場を果たした(3-1で勝利)。その後の2010 FIFAワールドカップ・アジア最終予選のカタール戦では完封勝利を果たす(3-0)。2009年1月20日のAFCアジアカップ2011・最終予選のイエメンには欠場したが、1月28日のバーレーン戦では出場濃厚だったものの練習中に右脹脛を負傷。欠場となった。3月19日にはコンディション不調と所属する磐田の不振により、3月28日の2010 FIFAワールドカップ・アジア最終予選のバーレーン戦での招集が見送られた。怪我以外で代表メンバーから外れたのは4年4か月ぶりだった。さらに9月19日の第26節京都戦で相手選手と接触し、右脛骨骨幹部骨折で全治6か月の大けがを負った。2010年5月10日の南アフリカワールドカップに向けた最終メンバー発表までJリーグの公式戦に出場していなかったが、代表監督の岡田武史からチームキャプテンとしての役割を求められ2010 FIFAワールドカップの代表メンバーに選出された。本大会で出場機会は無かったがまとめ役としてチームに貢献、岡田から賞賛を受けた。代表に招集されたのは南アフリカワールドカップが最後となっている。優れたキャプテンシーを持ち、逆境に立たされた際に存在感を発揮するプレイヤー。しばしば「炎の守護神」、「魂の守護神」 と表現される。ゴールキーパーとしては小柄な体格であるが、ゴール前での飛び出しと俊敏な反応を武器としている。大舞台に強いメンタルの強さも長所と言われており、実際に重要な国際試合では何度も神懸かり的な活躍を見せてきた。特にペナルティーキックでの勝負強さには定評があり、川口がPKを行うときの周りの雰囲気・キッカーの動きを予測するここ一番の集中力は奇跡と称される。重心を低く保ち、コンパクトな前傾姿勢が特徴的である。ロングキックを得意とする。マリノス時代から得意としていたが、ノアシェランで更に磨きをかけた。カウンターでも狙う相手によっては球種を変えており、スピードを持つ選手には速いボール、高さ、強さのある選手には受けやすいボールを蹴り分けている。421||0||51||0||19||0||491||043||0||colspan="2"|-||0||0||43||00||0||colspan="2"|-||colspan="2"|-||0||012||0||0||0||1||0||13||08||0||1||0||0||0||9||0484||0||52||0||20||0||556||0その他の公式戦|2003-04||ノアシェラン||30||1||0!|通算!!colspan="2"|UEFA!通算!!colspan="2"|AFCその他の国際公式戦|1997||21||0!通算サッカーその他
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。