エーリヒ・ゼーリヒマン・フロム(Erich Seligmann Fromm、1900年3月23日 - 1980年3月18日)は、ドイツの社会心理学、精神分析、哲学の研究者である。ユダヤ系。マルクス主義とジークムント・フロイトの精神分析を社会的性格論で結び付けた。新フロイト派、フロイト左派とされる。フロム本人はエーリック・フロムと発音されることを望んでいたという。フロムは1900年、ユダヤ教正統派の両親の間に一人っ子としてフランクフルト・アム・マインに生まれた。フランクフルト大学に入学するが、1年でハイデルベルク大学に移り、ここで社会学・心理学・哲学を学び、1922年にアルフレート・ヴェーバー(マックス・ヴェーバーの弟)、カール・ヤスパース、ハインリヒ・リッケルトの指導の下に学位を取得。1926年にはフリーダ・ライヒマンと結婚する。1931年にフランクフルト大学の精神分析研究所で講師となった。ナチスが政権を掌握した後、スイス・ジュネーヴに移り、さらに1934年、フランクフルト学派の主要メンバーと共にアメリカへ移住する。まずコロンビア大学で教えた後、バーモント州ベニントンなどの大学で教鞭をとった。1949年にメキシコシティに移り、1965年までメキシコ国立自治大学、次いで1974年までメキシコ心理分析研究所 () で教えた。また並行して、1957年から1961年までミシガン州立大学、1962年から1974年までニューヨーク大学の精神分析学の教授を務めた。フランクフルト学派のメンバーとは、共同研究として『権威的な性格』を発表した。1974年にスイス・ティチーノ州ムラルトに居を構え、1980年にムラルトの自宅で死去。フロムの思想の特徴は、フロイト以降の精神分析の知見を社会情勢全般に適応したところにある。フロムの代表作とも言える『自由からの逃走』ではファシズムの心理学的起源を明らかにし、デモクラシー社会が取るべき処方箋が明らかにされている。フロムによれば人は自分の有機体としての成長と自己実現が阻まれるとき、一種の危機に陥る。この危機は人に対する攻撃性やサディズムやマゾヒズム、および権威への従属と自己の自由を否定する権威主義に向かうことになる。自分自身の有機体としての生産性を実現する生活こそが、それらの危険な自由からの逃避を免れる手段だと説いた。フロムは、バールーフ・デ・スピノザと同じく「幸福は徳の証である」と考えていた。つまり生産的な生活と人間の幸福と成長を願う人道主義的倫理を信奉するとき、人は幸福になれるとした。フロムによれば神経症や権威主義やサディズム・マゾヒズムは人間性が開花されないときに起こるとし、あらゆる神経症の核心は、人間の正常な成長と同じように、自由と独立を求める戦いにある。正常な人の多くは、この戦いを自己放棄によって終わらせ、うまく適応し正常であると認められようとする。神経症的人間はこの戦い放棄することはできないが、依存性と自由を求めることの間の矛盾をとこうとすることの試みとして、成功していない試みとして理解することができるという。フロムは『フロイトの使命』(1959年)や『フロイトを超えて』(1979年)などの著作でジークムント・フロイトの生涯に関する記述とと彼の理論の批判的検討を行った。フロムによると、フロイトの欲動理論は第一次世界大戦を境目として二つに分けることができるという。大戦以前、フロイトは人間の欲動(drive)を欲望(desire)と抑圧(repression)の間に生じる緊張であると定義していたが、大戦以降のフロイトは人間の欲動をエロス(生の欲動)とタナトス(死の欲動)の葛藤であるとみなした。フロムはこの2つの理論の間に矛盾があることを看過してしまったフロイトとその理論の支持者を非難したのである。また、フロムはフロイトの二元論的な思考も批判している。フロムによると、フロイト派は人間の意識を二項対立を用いて記述しており、それ故に捉え損なっているものがあるという。さらに、フロムはフロイトのミソジニーをも批判している。批判すべき点を批判したうえで、フロムはフロイトの業績に対して深い敬意を表している。フロムはフロイトを「アルバート・アインシュタインやカール・マルクスと並ぶ近代の創始者の一人である」と結論付けている(なお、フロムはフロイト以上にマルクスの重要性を強調している)。
出典:wikipedia
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