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松平広忠

松平 広忠(まつだいら ひろただ)は、戦国時代の武将。三河国額田郡岡崎城主。松平宗家8代当主。松平清康の子。徳川家康の父。「武徳大成記」が大永6年4月(1巻72頁)とし「三家考」および「御九族記」(寛保3・1743年成立)は同年4月29日としている。「改正三河後風土記」(上巻151頁)「徳川実紀」(1巻22頁)がこれを踏襲している。「朝野旧聞裒藁」(1巻407頁)「徳川幕府家譜」(18頁)は大永6年と記すにとどめている。「松平記」(107頁)や「三河記大全」は天文18年に24歳で死去とするので、生年は同じになる。このほか25歳とするもの(「創業記考異」ただし一説にとして24歳と記す)また27歳で死去とするもの(「三州八代記古伝集」)もあり、同書の記述から逆算できる広忠の生年は大永3年(1526年)である。「三河物語」は23歳とするが年次の記述がない(69頁)。青木貞景の娘とされているが(「徳川幕府家譜」18頁「徳川実紀」1巻21頁)、清康の室であった松平信貞の娘とする異説もある(広忠を「弾正左衛門」信貞の実孫とする『新編岡崎市史6』851および852頁所収の「大林寺由緒」また「朝野旧聞裒藁」1巻737頁「大樹寺御由緒書」も同旨)。竹千代、千松丸、仙千代など諸書により異なる。汲古書院刊『朝野旧聞裒藁』によれば以下のとおり(1巻511から512頁)。『三河物語』には、お千千代様、拾三にシテ・・・と記載。『新編岡崎市史6』689頁所収「信光明寺文書16」天文6年10月23日付け判物写しには「千松丸」とある。通称は次郎三郎であったといい(「三河物語」「武徳大成記」1巻72頁)また「岡崎三郎」と称したことが発給文書より確認されている(『新編岡崎市史6』757頁所収「大樹寺文書44」天文16年12月5日付け大樹寺宛寺領寄進状)「徳川幕府家譜」の記述を一例として示す(18から19頁)「三河物語」は清康の死に関して「森山崩れ」と呼び、諸書はこの後に織田信秀による三河への進攻があったと記す。「朝野旧聞裒藁」は年次について特定を避けている(1巻515頁)。「徳川実紀」は天文5年2月としている(1巻22頁)。広忠の岡崎帰還までの経緯を「阿部家夢物語」は次のように記す(157から159頁)。「三河物語」はこうである(45から56頁)。「松平記」は次のように記す(102から103頁)「武徳大成記」は年次を附して次のように記す(1巻73から79頁)。「松平記」は森山崩れを天文4年と明記した上で(101頁)この時の広忠の年齢を10歳とし(同)、また伊勢行きを13歳としている(102頁また103頁)。天文6年と記す岡崎への帰還には2年しかなく、それゆえ年次と年齢の記述が矛盾する。「武徳大成記」は「松平記」と年次が同じであるが、6年の岡崎帰城を12歳として生年との齟齬を避けている(1巻79頁)。「朝野旧聞裒藁」は天文6年(1537年)6月に広忠の岡崎還住が実現したとしている(1巻573頁)。また上記「千松丸」の名がある『新編岡崎市史6』689頁「信光明寺文書16」の天文6年10月23日付け判物写しは、八国甚六郎、大窪新八郎(ママ)、成瀬又太郎、大原左近右衛門、林藤助に対して「今度入国之儀 忠節無比類候」として15貫文の加増を約しており、『新編 岡崎市史2』はこれを岡崎帰還の功績によるものと考えている(687頁)。大久保ら5名への加増については「三河物語」(57頁)「武徳大成記」(1巻86頁)に記述がある。異説として「御年譜附尾」(正保3・1646年成立)は岡崎押領を松平信孝によるものとし、これを天文7年(1538年)と記す。また義元への岡崎還住の要請を8年暮とし、駿府行きを9年春、「茂呂」入城は同年秋、岡崎還住を天文10年(1541年)と記述する。これについて「朝野旧聞裒藁」は、信定の岡崎押領を天文7年とするのは「松平記」がその年齢を13歳と記したために生じた誤りではないかと推測している(1巻531頁)。広忠の後半生は三河へ進攻する織田氏との戦いに費やされていたようである。「岡崎領主古記」は次のように記す。同書はこの後、天文12年(「本多吉左エ門討死」)と同14年の計4回の安祥合戦を記している。「寛永諸家系図伝」にも織田家による安祥攻めの記述があるが(1巻169から170頁。年次は天文9年6月6日)松平利長らが防戦して敵が退いたと記している(「寛政譜」1巻「藤井」42頁同じ)。また同1巻127頁は松平忠次が参戦したとするだけで(年次なし)その結果についての記述がない。「寛政譜」の忠次の記事は「信秀ついに利を失いて敗走」したというものである(1巻「五井」146頁)。同じく「武徳大成記」は天文9年の戦いを「織田信秀いくさをやめて引き退く」とし(1巻89頁)、天文13年には城兵の防戦により織田勢が敗軍したと記す。翌14年のこととして「広忠卿安城の敗れを憂て」とあること(同94頁)、また広忠の死後、今川からの援兵を得て安祥城を陥落させたとの記述があることから(109頁)、城が織田方の手に渡ったことは認めている。しかしその時期や経緯についての記述がない。「信長公記」は「8月上旬」のこととして小豆坂での戦闘をつぎのように記す(下記刊行本22頁)。年次の記載はないこれを小瀬甫庵「信長記」は天文11年(1542年)のこととして記す(下記刊行本上巻34頁)。同書はこの戦いについて、世間では「尾張勢の勝軍」といわれているが「誠にかかる手痛き合戦は前代未聞」であったとし、造酒丞らを「小豆坂の七本槍」と呼んで語り継いだと記している。「由原」戦死について「信長公記」はこれを記さず、逆に「由原」が「那古野弥五郎」の首を討ち取ったとしている。他方「三河物語」は小豆坂の戦いをこのように記す(68から69頁)。年次はない。「松平記」は年次を附してこのように記す(106頁)。諸書の記述は次のとおり『新編 岡崎市史2』は17年3月が11年8月に誤伝される可能性を低くみて2回説を支持し(691頁)、小和田哲男「駿河 今川一族」は今川義元の東三河進出は天文12年からであるとして、11年の戦いはなかったとする説をとっている(200より201頁)。「武徳大成記」は於大(伝通院)との婚姻は天文10年(1540年)としている。家康出生の後に離縁することになるが、同書はその理由について、天文12年の水野忠政の卒去により、家督を継いだ水野信元が織田家に与したことにあったとみる。同書は家康誕生を天文11年の生まれとした上で、伝通院との離縁は家康3歳の時のこととしている。「岡崎領主古記」は於大との婚姻を「天文9年の事成と云」とし、また同13年に離別とする。於大との関係でいえば、彼女の再婚相手である坂部城主久松俊勝を通じて尾張国知多郡に介入した形跡がみられることである。「寛永諸家系図伝」1巻202では天文15年(1545年)「広忠卿しきりに御あつかいありし故」大野(常滑市北部)の佐治家との和睦が実現したとしている。『新編岡崎市史6』1171項所収の「久松弥九郎」宛ての広忠書状写しに「大野此方就申御同心 外聞実儀 本望至極候」としるされている。広忠は天文18(1549年)3月6日に死去したとされている(「家忠日記増補」「創業記考異」「岡崎領主古記」ほか)。ただし『岡崎市史別巻』上巻191頁は3月10日としている。しかし他の史料に所見がなく、誤植と考えられている(『新編 岡崎市史2』710頁)。死因に関しても諸説がある「武徳大成記」のほか「家忠日記増補」「創業記考異」「烈祖成績」などいずれも病死説を採る。「徳川実紀」「朝野旧聞裒藁」も同じ。『朝野旧聞裒藁』採録記事は次のとおり(1巻737項以下)「松平記」が記す忌日は『三河文献集成 中世編』に収められた翻刻(107頁)、および国立公文書館所蔵の写本2冊はいずれも3月6日となっており「朝野旧聞裒藁」の記述は誤写と思われる。『岡崎市史別巻』上巻は岩松八弥による殺害説をとり、これが『新編 岡崎市史2』に踏襲されている(710頁)。葬地は愛知県岡崎市の大樹寺(「朝野旧聞裒藁」1巻737頁所載「大樹寺御由緒書」。「御九族記」および「徳川幕府家譜」19頁に同じ)。法名は「慈光院殿」もしくは「瑞雲院殿」応政道幹大居士(「御九族記」「徳川幕府家譜」19項)で、贈官の後「大樹寺殿」となったとする同寺の記録があるという(「朝野旧聞裒藁」1巻738項所載。「御九族記」おなじ)。現在大樹寺に加え、大林寺・松応寺・法蔵寺・広忠寺と5つの墓所が岡崎市にある。また死後、慶長16年3月22日従二位大納言の官位を贈られている。「御年譜附尾」は「因大権現宮願」として従三位大納言と記し「御九族記」は正二位権大納言としている。なお、嘉永元年10月19日には、太政大臣正一位に追贈されている。松平広忠 贈太政大臣正一位宣命(高麗環雑記)天皇我詔良万止、贈従二位權大納言源廣忠朝臣尓詔倍止勅命乎聞食止宣、弓乎鞬志劔乎鞘仁志氐与利、今仁至氐二百有餘年、此世乎加久仁志毛、治免給比、遂給倍留者、汝乃子奈利止奈牟、聞食須其父仁功阿礼者、賞子仁延岐、子仁功阿礼者、貴父仁及者、古乃典奈利、然仁顯揚乃不足遠歎給比氐、重天官位乎上給比氐、太政大臣正一位仁治賜比贈給布、天皇我勅命乎遠聞食止宣、嘉永元年十月十九日奉大内記菅在光朝臣申、(訓読文)天皇我詔良万止(孝明天皇、すめらがおほみことらまと)、贈従二位(すないふたつのくらゐ)権大納言(かりのおほいものまうすのつかさ)源広忠朝臣に詔倍止(のらへと)勅命乎(おほみことを)聞食止宣(きこしめせとのる)、弓を鞬(ゆぶくろ)にし劔を鞘(さや)にしてより今に至りて二百有余年、此の世を加久(かく)にしも、治め給ひ遂げ給へるは、汝の子なりとなむ、聞食(きこしめ)す其の父に功あれば、賞子に延(つ)ぎ、子に功あれば貴父に及ぶは古(いにしへ)の典(のり)なり、然るに顕揚(けんやう)の不足遠く歎き給ひて、重ねて官位を上(のぼ)せ給ひて、太政大臣正一位に治め賜ひ贈り賜ふ、天皇(すめら)が勅命(おほみこと)を遠く聞こし食(め)せと宣(の)る、嘉永元年(1848年)10月19日、大内記菅(原)在光(唐橋在光、従四位下)朝臣奉(うけたまは)りて申す、一般に凡庸、あるいは愚将であると評されている。しかしながらそれは父親である清康や息子の家康の、輝かしい実績と比較しての事に過ぎない。確かに三河統一を成し遂げた清康に比べれば、今川氏の庇護によってようやく松平氏を存続させた広忠は、あまりに情けないと言えよう。しかしながら妻を離縁し、あるいは息子・竹千代を織田方の人質に取られながらも、あくまで今川氏に忠誠を尽くした広忠の判断は正しかったと言える。今川氏は織田氏を攻め、織田信広を生け捕りにして人質交換で竹千代を奪還し、広忠の忠義に報いている。これにより広忠死後の松平氏は滅亡をまぬがれる事になる。「柳営婦女伝」は三人の室を記している。正室・側室の別を明記する史料はない。またその子に関しても一男一女(「武徳大成記」1巻72頁)二男二女(「参松伝」巻1)二男三女(「改正三河後風土記」上巻171頁および「徳川実紀」24頁)三男三女(「御九族記」巻1)と諸書により記述が異なる。生母により分類して以下に示すが、生母について争いのあるもの、広忠の子として争いのあるものはこれを「一説に」とした。ただし存在そのものが疑われている、忠政、恵最、家元についてはこのかぎりではなく、単に所伝のあるものとして列挙した。----

出典:wikipedia

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