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両国駅

両国駅(りょうごくえき)は、東京都墨田区横網一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅。JR東日本の総武本線支線、東京都交通局の都営地下鉄大江戸線が乗り入れ、接続駅となっているが、一番近い出口同士でも300メートル余り離れている。(ちなみにJR線と大江戸線の乗換では御徒町駅と上野御徒町駅、浜松町駅と大門駅の方が近接している)。JR東日本総武本線の駅は、定期列車は緩行線を走る中央・総武線各駅停車のみが停車する。この他、千葉方面の快速線に接続している列車ホーム(後述)が存在するが、現在は臨時列車のみに使用される。また、特定都区市内制度における「東京都区内」に属する。JR中央・総武線各駅停車の駅には「JB21」、都営大江戸線の駅には「E 12」の駅番号がそれぞれ付与されている。当駅は、千葉県方面への鉄道を建設した私鉄であった総武鉄道が1904年4月5日に「両国橋駅」として開業させた。総武鉄道は市川駅より東側の区間を先に開業させており、そこから西へ東京へ向かって順次建設を進めてきた。そして、本所駅(後の錦糸町駅)から両国橋駅までの区間が都心側で最後に開業した。この当時、本所から両国橋までの沿線はすでに市街地になっており、高架線とすることを条件に免許が出された。会社側は建設費のかかる高架線を避けようと、地上の線路に変更しようとする工作をしたが、結局煉瓦造りの橋脚の上に鉄桁を載せた形状の高架橋を約1.5 kmに渡って建設して開業することになった。これは日本の鉄道で最初の高架区間であった。当初は単線で開業したが、最初から橋脚は複線用に準備されており、1906年8月19日に複線化された。この高架橋の関係で、垂れ流し式のトイレからの汚物が沿線に被害を及ぼすことを避けるために、本所より西側ではトイレの使用が禁止されていた。総武鉄道の力では隅田川を渡る橋を建設することが難しかったこともあり、両国橋駅は総武鉄道の都心側のターミナルとして機能するようになった。当初の駅舎建物は駅の西側に建てられており、木造2階建てで面積170坪(約562平方メートル)、建設費は約9,000円であった。また、脇に同じく木造2階建ての総武鉄道本社も建てられていた。プラットホームは全長212 mあり、その先の東側にも地下道を通じて亀沢町方面への出口が造られていた。隅田川からの運河が構内に掘られ、水運との連絡が行われるようになっていた。貨物営業は1904年9月1日に開始された。また、吾妻橋駅(現在のとうきょうスカイツリー駅)をターミナルとしていた東武鉄道も亀戸線を建設して総武鉄道に乗り入れるようになり、両国橋駅は開業と同時に房総方面だけではなく北関東方面へのターミナルとしても機能するようになった。このために吾妻橋駅は一時廃止されるが、1907年9月1日に総武鉄道が国有化されて国鉄となったこともあり、1910年3月1日に吾妻橋駅を浅草駅に改称して旅客営業が再開され、3月27日に両国橋駅への東武鉄道の列車の乗り入れが廃止された。ただし、貨物列車については、1926年7月1日に小岩駅と金町駅を結ぶ新金貨物線が開通するまで、東武亀戸線を経由して北千住駅で常磐線と連絡する運転が継続された。1923年9月1日、関東大震災が発生した。駅舎は倒壊しなかったが、延焼により焼失した。高架橋も大きな被害を受けて、復旧して運転を再開したのは10月9日のこととなった。バラック立ての仮駅舎を建設して暫定的に営業を行っていたが、増大する旅客・貨物需要を捌ききれなくなったため、1929年12月30日に新駅舎が営業を開始した。これは2012年現在供用されている駅舎である。この時点で行き止まり式の2面4線の構造となった。駅舎の面積は3,034坪(約10,030平方メートル)であった。当時は乗車口と降車口が分離されており、外から駅舎に向かって左側に乗車口、右側に降車口があった。内部には出札口、2等待合室、3等待合室、手荷物カウンターなどが設置されていた。元々隅田川の両岸を両国(17世紀まで隅田川が武蔵国と下総国の境界であったため)と称し、そこに架かる橋を両国橋と呼んでいたことから、橋の近くにある駅を両国橋と名付けたものであったが、次第に隅田川東岸のことを両国と称するようになった。駅名もまた、一般には単に両国駅と呼ばれることが多くなっていた。そこで、1931年10月1日に正式に「両国駅」へ改称した。この頃、房総方面にあった全部で94の駅の中では、東京側のターミナルであった両国駅は乗降客数と収入の面ではぬきんでた1位であり、貨物取扱量も第2位であった。東京の鉄道駅の中では東京、上野、新宿、横浜、新橋に次ぐ第6位の取扱収入で、当時は渋谷や池袋などよりも収入の大きな駅であった。しかし、両国駅より西側の総武本線の建設が行われると、このターミナルとしての繁栄は次第に凋落していくことになった。関東大震災で焼失した市街地の区画整理が行われたことで線路用地の捻出が可能となり、1932年7月1日に御茶ノ水までの線路が完成し、総武本線の起点が御茶ノ水に変更された。これにより両国は孤立したターミナルの状態を脱することになった。御茶ノ水と両国の間は電化されて電車が折り返し運転を行うようになり、房総方面への列車の乗換駅となった。これに合わせて、現在も使用されている1・2番線のプラットホームが整備された。地下道で従来の列車用ホームとの連絡がなされ、また電車用のプラットホームへ直接出入りできる改札口が高架下に設けられた。当初は両国より東側はまだ電化されていなかったので、房総方面へは両国駅での乗換を必要としていたが、それでも乗り換えだけの乗客は改札口を通過しないため両国駅の乗降客数や収入は大きく減じることになった。さらに電化が東へ進展して1935年7月1日に千葉駅まで完成すると、房総方面の列車が同駅で折り返すものが増え、次第に両国駅の列車ホームで発着する列車は減少していくことになった。特に第二次世界大戦後の石炭不足による蒸気機関車牽引列車の減少と房総方面が気動車化の重点線区とされたことで、当駅を始発・終着とする房総方面の列車は2往復まで減少することになった。しかし外房線・内房線とも千葉から先はまだ非電化であり、1958年7月10日から気動車準急「犬吠」の運転が開始され、その始発・終着駅となった。さらに房総方面の準急・急行は増発され、一部総武緩行線経由で新宿方面へ乗り入れる列車もあったものの、多くの優等列車は当駅始発・終着とされた。これにより再び房総方面へのターミナル駅としての地位が高まることになった。特に毎年夏には房総への海水浴客を輸送するための臨時列車が多数設定されて両国駅の列車ホームは賑わった。後に列車ホームは電化された。次の大きな転機となったのは、1972年7月15日の総武本線複々線化である。東京駅から錦糸町駅までの地下線で総武快速線が建設され、総武線の快速列車が東京駅へ直通するようになった。183系の特急がこの時より完成した東京地下駅から総武線、内房線、外房線に乗り入れを開始する。この線路は当駅構内の北側を通過してはいるが、地下から地上へ出てくるところにあり、また急カーブでもあることから、当駅にホームは設けられなかった。これにより総武快速線の列車は当駅に停まらなくなった。貨物営業も近隣の越中島駅などへ集約されることになり、物流拠点としての役目を終えた。この時点ではまだ房総方面への急行列車の一部など両国駅発着で残存していたが、1982年11月15日のダイヤ改正により房総方面の急行列車は全廃され、特急「しおさい」「あやめ」「すいごう」が1日1往復だけ当駅に発着する状態となった。1988年3月13日のダイヤ改正でこれらの発着も終了し、当駅は総武線各駅停車のみが停車する駅となって、現在に至っている。一方、東京で進んでいた地下鉄網整備の中で、両国地域を通る路線は長く開業していなかったが、2000年に都営大江戸線の駅が開業し、両国から地下鉄の利用が可能となった。元来、両国とは両国橋を挟んだ隅田川の両岸を指す地名であった(隅田川西岸は日本橋両国)。しかし、総武鉄道は当初隅田川の東岸までの開通に留まったため、両国橋の東、東両国に両国橋駅を開業し、後に両国駅と改称した。駅名の影響に両国国技館の開設も加わり、現在では両国という地名は専ら両国橋の東の地域に対して用いられる。地名についての詳細は両国 (墨田区)を参照のこと。JRの駅は東西に出入口があり(階段の位置はホームの両端ではなくやや中央寄り)、駅舎は高架下にある。ホーム横にはターミナル駅の面影を残す駅舎とホームが残されている。この旧駅舎コンコースを利用し、居酒屋チェーン「はなの舞」の独自業態「大江戸八百八町・花の舞」が営業していたが、現在は清澄通り沿いの総武線高架下に移転している。なお、2016年11月下旬に両国駅旧駅舎を改装して複合飲食施設「-両国-江戸NOREN」が開業予定。都営大江戸線の駅はJR駅の東側を通る清澄通り(東京都道463号上野月島線)の地下に建設され、出口も同通りの両側に設置されている。JR総武線と都営大江戸線の乗り換えはJR駅の東口から乗り換えるが、駅間がかなり離れている。近くに大相撲興行などが開催される両国国技館があるため、西口改札を入ってすぐの所にはタイルの色が違う所があり、これはよく見ると土俵の形になっている 。総武線各駅停車用の島式ホーム1面2線の電車ホームと、単式ホーム1面1線の列車ホームを有する高架駅である。電車ホームから一段低い高さに列車ホームがある。1番線の案内の一部には、物理的に直通していない東京駅・上野駅の表記があるが、両駅へ行く場合は秋葉原駅での乗り換えが必要となる。また、その旨の案内はされていない。当駅北側には、総武快速線・総武トンネルの入口がある。列車ホームは、総武快速線東京駅(総武トンネル)開業前、長らく総武本線、成田・鹿島線、内房・外房線などへの中・長距離列車の発着ホームで東京都心のターミナル駅の一つとして機能していた。JR発足当初は5番線まであり、特急「あやめ」「すいごう」の発着もあったが、現在では定期旅客列車の発着がなくなっている。現在では3番線のみとなり、まれに臨時列車が使用するのみとなっている。総武快速線の団体列車がここで折り返すことも多かったが、東京トンネルの入線制限が緩和されたためにほとんどの列車が東京駅まで直通できるようになり、使用頻度は大きく減少した。なお、新宿方面から総武線千葉方面に乗り入れる特急などはすべて当駅の電車ホームを通過する。なお、3番線ホームは2008年秋の観光キャンペーン「ぐるっと ゆめ半島ちば」を機に全面リニューアルされ、同年11月29日発の「快速 ぐるっと ゆめ半島1号」より使用が開始された。3番線ホームへは西口からしか入れず、また通常は閉鎖されている。また、旧4・5番線は現在は保線基地となっていて、架線が撤去され列車が入線することができなくなった。2010年3月12日までは、旅客以外の定期列車として内房・外房両沿線の新聞販売店や主要駅のキヨスク向けに夕刊を発送する新聞輸送列車が一日1本、3番線ホームから発車していた。2008年9月2日に発車メロディとスピーカーが変更された。発車メロディは現在当駅のみで使用されている。西口には、バリアフリー施設としてエスカレーターやエレベーターなどを併設している。島式ホーム1面2線を有する地下駅である。「江戸東京博物館前」の駅名併称が付けられている。各年度の1日平均乗降人員は下表のとおりである。各年度の1日平均乗車人員は下表のとおりである。大相撲の興行施設である両国国技館(上の写真の緑の屋根の建物)が駅の近くにあるほか、江戸時代には勧進相撲が執り行われた両国回向院が駅の南側にあり、相撲部屋や力士サイズの服を取り扱う洋品店などがあるなど相撲の街として全国に知られている。1909年竣工の旧・両国国技館は回向院の境内にあったが、第二次大戦後の蔵前国技館使用期を挟んで、1985年に竣工した現・両国国技館は駅の北側に位置している。駅北側には、国技館に隣接して東京都江戸東京博物館がある(同博物館はJR駅より都営地下鉄駅の方が近い)。かつては貨物駅があり、総武快速線建設に伴い貨物駅が閉鎖された後には国鉄バスの東京自動車営業所(後のジェイアールバス関東東京支店)があったが、現在は江東区塩浜に移転し、その跡地に両国国技館が建設されている。国技館の北隣には旧安田庭園がある。同施設のある一角には両国公会堂があるが、老朽化が激しく倒壊の恐れがあるため、現在は利用を休止して改修しているが、現在でも外観を見ることができる。これらの施設の西側には隅田川が流れ、川岸に首都高速6号向島線の高架が建設されている。同高速はほぼ南北に伸び、JR駅の西側で総武線の上を通る。旧安田庭園の東側、江戸東京博物館の北側には2004年にNTTドコモ墨田ビルという超高層ビルが竣工した。ここには「NTTドコモ歴史展示スクエア」というショールームがあり、予約制だが過去のNTTドコモなどの携帯電話端末などを一堂に見ることができる。旧安田庭園の北東側、NTTドコモ墨田ビルの北側、清澄通りと蔵前橋通りに面した角の一角には都立横網町公園がある。ここには関東大震災で多数の犠牲者を出した陸軍本所被服廠跡地で(因みに震災当時は既に「跡地」であった)、都立公園の中でも慰霊を目的とした特異な存在である。敷地内には震災犠牲者や東京大空襲犠牲者などを祀る東京都慰霊堂や震災復興記念館、東京空襲犠牲者追悼碑などが建てられており、毎年3月10日(東京大空襲忌日)と9月1日(関東大震災忌日)には慰霊法要が営まれる。この横網町公園へはJR駅より都営地下鉄の駅の方が近い。JR東口から南に向かって京葉道路(国道14号)を越え、さらに南に少々入った辺りに本所松坂町公園(吉良上野介の屋敷跡・忠臣蔵の討ち入りの舞台)がある。さらにその近くの両国公園には「勝海舟生誕の地」碑がある他、附近には江戸から明治期の著名人の足跡(芥川龍之介生育の地など)が数多くある。また、駅南東側一帯は池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」の主要な舞台になったことでも知られている。JR西口から南側に向かうと、京葉道路との交点(両国二丁目交差点)の南側に再開発地域の複合ビル「両国シティコア」があり、内部に劇場「シアターΧ」(シアターカイ)が運営されている。旧・両国国技館はここに位置していた。シティコアの南側に両国回向院があり、そこからさらに南に進むと堀割と首都高速7号小松川線の高架橋が東西方向へ伸びる。同高速は隅田川岸に作られた両国ジャンクションで6号向島線から分離しているが、当駅近辺には両路線とも出入口は設置されていない。最寄りの停留所は、JR西口、両国ビューホテル前付近の「両国駅前」、京葉道路沿いの「両国駅入口」「両国・江戸東京博物館」、都営大江戸線の駅近辺、清澄通り上の「都営両国駅前」の4箇所であり、都営バスと京成バス、JRバス関東、東武バスセントラル、セグラスツーリズムエージェンシーによって運行されている。都営バスの詳細は江東営業所・江戸川営業所・臨海支所の記事を参照のこと。JR両国駅にバスが乗り入れたのは平23乙系統(現在の上23系統)の頃からである。その後、門33・錦27系統の両国駅行設定(その後錦27系統は全便が当駅までに短縮)墨38系統(東京都リハビリテーション病院行)の新設などによって様々な系統が乗り入れて来るようになる。しかし、ターミナルとしては中途半端であったことも影響して、平23乙系統は1990年11月には上37系統と経路交換のうえ上野松坂屋へ向かうこととなって当駅には来なくなり(上37系統は当駅ではなく隣の錦糸町駅に向かう錦37系統となる)、また、門33系統には豊海水産埠頭からの両国駅前折り返し便が設定され、草28系統も神田駅まで運行していたが、いずれも都営大江戸線の開業により廃止、草28系統も当駅までに短縮、両28系統となった。錦27系統はかつて京成バスと共同で運行していた。一方、「都営両国駅前」停留所は都営大江戸線の開業に伴って改称されたものであり、同線の駅が開業する前までは「横網一丁目」、さらに墨田区役所が横網一丁目(現在の国際ファッションセンタービル一帯)から現在地(リバーピア吾妻橋)に移転するまでは「墨田区役所前」を名乗っていた。また、移動も頻繁に行われており、「横網一丁目」時代の停留所の位置は亀戸駅方面が国際ファッションセンター前(現在郵便ポストがある場所)、豊海水産埠頭前方面はそのほぼ向かい(たい焼き屋の斜め前)と、現在の場所よりもかなり北方にあった。なお、「両国駅前」停留所はJRの駅よりさらに西にあるため、同停留所に発着し京葉道路を経由する両28・錦27両系統の錦糸町駅方面行へ都営大江戸線から乗り換える場合、「両国駅前」よりもA5出口から左に歩いて交差点を左折したところにある「緑一丁目」停留所が最寄りとなる。2008年4月26日から2012年3月19日までは、観光路線バス「東京→夢の下町」(S-1系統)が乗り入れていた。墨38系統は2015年3月31日をもって廃止され、墨田区内循環バス「すみだ百景 すみまるくん・すみりんちゃん」南部ルート が「国技館・水上バス乗り場」や「両国駅西口(回向院入口)」に停車するようになった。当駅周辺には国技館や相撲部屋等、相撲関連の施設が多いためか、駅の所在地名を「よこづな(横綱)」と誤解しやすいが、正しくは「よこあみ(横網)」である。

出典:wikipedia

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