一条 兼良(いちじょう かねよし)は、室町時代の公卿・古典学者。名は一般には「かねら」と読まれることが多い。関白左大臣・一条経嗣の六男。官位は従一位・摂政関白太政大臣、准三宮。桃華叟、三関老人、後成恩寺などと称した。病弱であった兄の権大納言・経輔隠居の後を受け応永19年(1412年)元服して家督を継ぐ。翌年従三位に叙せられて公卿に列し、累進して正長2年(1429年)に左大臣に任ぜられるが、実権は従兄弟の二条持基に握られていた。永享4年(1432年)には摂政となったが、月余で辞退に追い込まれ、同時に左大臣も辞職を余儀なくされる。その背景には同年に実施された後花園天皇の元服を巡る兼良と二条持基の対立があった。その後は不遇をかこったが、学者としての名声は高まり、将軍家の歌道などに参与した。享徳4年(1455年)頃、『日本書紀纂疏』を著す。応仁元年(1467年)1月に関白に還補したが、同年9月に応仁の乱が勃発し、一条室町の邸宅と書庫「桃花坊文庫」が焼失した。応仁2年(1468年)8月に奈良興福寺大乗院に子で門跡の尋尊を頼って身を寄せた。奈良でも講書、著作に力を入れ、源氏物語注釈書『花鳥余情』を完成させる。のち斎藤妙椿の招きで美濃におもむき、文明5年(1473年)には『ふぢ河の記』を執筆している。文明9年(1477年)、応仁の乱が終息し、12月に帰京。9代将軍足利義尚や生母日野富子の庇護をうける。富子の前で『源氏物語』を講じ、『樵談治要』を義尚に贈り、政道の指南にあたると共に公武を問わず好学の人々に学問を教えた。兼良は、当時の人々からは、「日本無双の才人」と評され、兼良自身「菅原道真以上の学者である」と豪語しただけあって、その学問の対象は幅広く、有職故実の研究から、和歌・連歌・能楽などにも詳しかった。また、古典では従来の研究を集大成し、宋学の影響を受け、一種の合理主義的な立場から、神仏儒教の三教一致を説いた。主要著作は70歳を過ぎてからのものであり、その後女児3人をもうけるという精力家であった。文明13年(1481年)4月2日薨去。享年80。その死に対して、「五百年来この才学無し」とまで惜しまれた。墓は京都東山東福寺常楽院にある。※日付=旧暦
出典:wikipedia
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