所沢市(ところざわし)は、埼玉県南西部にある人口約34万人の市。東京都特別区部への通勤率は25.4%(平成22年国勢調査)。特例市に指定されている。人口はさいたま市、川口市、川越市、越谷市に次ぐ県内5位(平成27年国勢調査速報値)。東京のベッドタウンとして、新所沢、小手指地区には集合住宅が多く、所沢駅前はプロペ通りを中心にした繁華街となっている。東所沢地区はJR武蔵野線が開業した当時に比べ、人口が急増している。その反面、北部の富岡地区は江戸時代に行われた開拓により整備された農地(三富新田)が広がり、南部には宮崎駿監督作品の映画『となりのトトロ』の舞台にもなった狭山丘陵(トトロの森)が広がっており、豊かな自然にも恵まれている。日本で初めて飛行場が建設された地で、かつて飛行場であった所には所沢航空記念公園が作られ、所沢航空発祥記念館もある。東京航空交通管制部も当市にある。プロ野球・埼玉西武ライオンズの本拠地球場である西武プリンスドームの所在地である。また、西武グループの本拠地(本社所在地、本店所在地は主に池袋)でもあり、駅前には西武百貨店(ただし旧セゾングループ)など、西武の名を冠するビルが連なっている。「所沢」という地名は、野老(トコロ。ヤマノイモ科の植物)が群生する湿地の意といわれるが不詳。古くは「野老澤」(ところさわ)と称した。市内西部から市内中心部を通り、東部に流れる東川(あずまがわ)を指しているとする説が有力である。埼玉県西部、武蔵野台地に位置し、南部には狭山丘陵が広がっている。狭山丘陵から流れる東川、柳瀬川は市内東部へ流れ、最終的には荒川に至る。山口貯水池(通称:狭山湖)は当市内にあるが、東京都民用の水源となっている(東京都水道局が管理)。池袋を起点とする西武池袋線と西武新宿を起点とする西武新宿線の2つの幹線が東と南からやってきて、所沢駅に互い違いで乗り入れている。その後2つの路線はそれぞれ北と西とに進路を変え、当市内を横断する。西武池袋線は西武有楽町線経由で東京メトロ有楽町線・副都心線・東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい21線と相互直通運転を行っている。JR武蔵野線は、当市内での他路線との接続はない(ただし、市境付近に新秋津駅と西武池袋線秋津駅がある)。関越自動車道が東部を通過しており、国道463号(旧・県道浦和所沢線)と所沢ICで接続する。国道254号と国道463号は新座市の英インターで交差した後、市中心近くに至り、宮本町交差点を起点にそこから2本に分かれ(北側は通称「行政道路」、南側は通称「(国道463号、若しくは行政)バイパス」と呼ばれる)、入間市へと続いている。所沢駅前のプロペ通りを中心とした地域は繁華街で西武百貨店、イオン(旧ダイエー)の他、多くの飲食店、衣料品店などがある。プロペ通りから続くファルマン通りも古くからの繁華街で、旧市役所のあった元町を経て、金山町の交差点まで続く銀座商店街がある。現在は高層マンションが立ち並んでいる。航空公園を中心とする並木地区には公共機関が集中し、また在日米軍所沢通信基地がある。新所沢は都市公団(現・都市再生機構)、小手指は西武鉄道とそれぞれが開発した集合住宅が広がっている。近年では旧市街地に超高層マンション建設が相次いでいる。所沢の近辺には、約2万年前から人類が定住しており、砂川遺跡を筆頭に市内には旧石器時代以降の遺跡や貝塚が点在している。東日本各地に多く見られることだが、当地にも日本武尊の東征伝説がある。戦勝を祈願したといわれる神社(所澤神明社や北野天神社の由来)や、あるいは篭手をかざした(地名・小手指の由来)と言った伝承がある。7世紀に律令制度のもと、武蔵国国府が現在の東京都府中市に設置されると、当地は武蔵国入間郡の一部となり、あわせて武蔵国国府と上野国国府を結ぶ官道が築かれた。これが東山道武蔵路であり、市内の南陵中学校でも遺構が確認されている。また、かつての郡境にあたる現在の松が丘付近には悲田処(行路病人などの救護施設)が設置されたという伝承がある。武蔵国一帯は朝鮮半島からの渡来人(現在の朝鮮半島に住んでいる民族とは異なる人種)が数多く定住しており、当地にも渡来人のコミュニティが存在していたとの説もある。平安時代末期になると世情が乱れ、野武士軍団である武蔵七党の一派、村山党が定着した。現在も市内に多く存在する山口、村山、金子といった姓は、この流れである。1192年に鎌倉幕府が成立すると、府中方面に通じていた街道は鎌倉街道上道となり、軍事的にも経済的にも重要な幹線道路として整備された。特に所沢は、上道と間道である堀兼道・羽根倉道の合流地点として栄えたという。1333年、隠岐島に島流しされていた後醍醐天皇が伯耆国船上山(現・鳥取県東伯郡琴浦町内)で蜂起すると、上野国(群馬県)の新田義貞は呼応して鎌倉へ向かって進軍し、小手差原(現在の北野付近)で北条氏の兵と衝突、決着はつかず両軍とも一時兵を引いた。世にいう小手指原の戦いである。市内に残る白旗塚・将軍塚(松が丘)・誓詞橋(砂川堀)・勢揃橋(柳瀬川)といった地名は、この戦いに由来する。その後、1352年にも義貞の遺児である義興・義宗の兄弟が足利軍と小手指原付近で衝突している。(武蔵野合戦)戦国時代は関東管領扇谷上杉氏の支配下にあり、上杉氏家臣で守護代の大石氏が統治していた。のちに河越夜戦で上杉氏が衰退し後北条氏が台頭してくると、八王子城主北条氏照の支配下となった。柳瀬川沿いに山口城址・滝の城址などの中世城館跡が数か所残っている。江戸時代には江戸近郊として幕府直轄領が多く直接支配が及んでいたが、一部には川越藩領や旗本領も存在している。ただし、現在の市域のうち、日比田村だけは多摩郡に属し、明治13年に入間郡大岱村(現在の東村山市恩多町付近)と交換されるまで飛び地となっていた。近世には河原宿(現在の宮本町付近)から江戸四谷への道(江戸街道・おおむね現在の西武新宿線沿い・現所沢街道に近い)が整備され、東(江戸街道)・西(秩父道)・南(府中・八王子方面)・北(川越方面)へ延びる主要道路の中継地、あるいは物資の集積地として機能した。また、市北部の富岡地区では、川越藩主柳沢吉保期に新田開発(三富新田開拓)が行われた(このうち上富地区は、現在は入間郡三芳町の域内にあたる)。なお、地層が関東ローム層と礫層に覆われた武蔵野台地では地下水脈が深い乏水地域で、所沢市域でも井戸水の確保に苦労した。その惨状たるや「所沢の火事は土で消せ」と言われたくらいであり、実際に1818年(文化15年)2月の神明社、薬王寺及び民家142戸が焼失する大火など、江戸期には数回の大火が発生している。明治維新後、現在の当市域の旧幕府直轄領だった大部分は1869年(明治2年)3月21日(旧暦2月9日)に品川県になり、同4月には市西部にあたる部分が韮山県に移管され。、1871年8月29日(旧暦7月14日)に川越藩領だった一部は川越県となった。同年12月25日(旧暦11月14日)に入間県発足で全域が入間県になり、1873年6月15日に熊谷県になった後、最終的に1876年8月21日、埼玉県に組み入れられた。1881年(明治14年)には上新井村の本宿と久米村の金山を編入し、所沢村から所沢町になった。1889年(明治22年)4月1日、町村制施行に伴い、入間郡所沢町が成立した。明治時代にも1875年(明治8年)、1880年(明治13年)、1885年(明治18年)などに大火があり、蔵造りの街並みが造られた。1911年(明治44年)現在の並木地区を中心とした一帯に陸軍が日本初の飛行場(のち陸軍航空整備学校)を設置し、基地の町という新たな顔をもつことになった。現在、所沢が所沢航空記念公園を持ち「航空発祥の地」を標榜しているのは、これに由来する。また、臨時軍用気球研究会所沢試験場が翌1911年4月1日に開場。4月5日に陸軍大尉徳川好敏による初飛行が行われたが、この際使用した飛行機がアンリ・ファルマン式複葉機だったことにちなみ、所沢駅西側には「ファルマン通り」という道が存在する。なお、飛行場完成に合わせて武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)や旧西武鉄道(現在の西武新宿線)も競って基地への最寄駅を設置した(現在は両駅とも廃止)。一方、交易中継地としての機能も健在で、「所沢飛白」「湖月縮」といった名産品により、「織物の町・所沢」として最盛期を迎えた。1927年(昭和2年)東京市民の水がめとして、山口貯水池(狭山湖)の建設が開始され、1934年(昭和9年)に完成した。このため山口村の旧勝楽寺村と上山口村にわたる一帯が水没し、村の住民は隣の小手指村などに移住した。狭山湖畔からの景観や付近の桜景色は、同湖完成直後から観光名所となり、後に周辺一帯が一大レジャーエリアとして開発される端緒となった。しかしながら同湖の水は当市には供給されないため、町内では江戸時代と変わらず水の確保に苦労する状況であった。1934年(昭和9年)4月には大干ばつに見舞われ、近隣の町や陸軍飛行学校から給水を受ける有様であった。この状況は、上水道が完成する1937年(昭和12年)3月まで続いた。1943年(昭和18年)所沢町と小手指・富岡・吾妻・松井・山口の5村が合併した。戦時中の1945年(昭和20年)にはアメリカ軍による空襲で旧所沢町だけで死傷者が30名以上、家屋への被害も65棟に及んだ。3月10日の東京大空襲では、所沢飛行場にも戦闘機が配備されていたが、強風と延焼により迎撃できなかった。8月15日の敗戦とともに、陸軍所沢飛行場および周辺施設はアメリカ軍に接収され、1971年(昭和46年)に6割、1978年(昭和53年)にさらに1割は返還されたものの、現在も通信基地として残っている。埼玉県内の自治体で唯一、2行輪番制を採用している。また、水道事業及び病院事業(市民医療センター)は三菱東京UFJ銀行である。これはかつての所沢銀行が合併を経て、現在の「三菱東京UFJ銀行所沢支店」となっている為である。"所沢市議会も参照。"2015年5月19日現在※2015年4月26日執行の所沢市議会議員選挙で自由民主党公認で当選したのは、越阪部征衛、青木利幸、入沢豊、近藤哲男、松本明信、杉田忠彦、大石健一。狭山茶が有名だが、ホウレンソウやサトイモ、ニンジン等の栽培も盛ん。また、サツマイモ掘りやブドウ狩り等の観光農園も点在している。2020年までに所沢駅西口に駅ビルが建設予定となっている。当市は、「所沢市育英奨学金」・「所沢市遺児奨学金」という奨学金制度(高等学校・高等専門学校対象)がある。所沢市には集配郵便局が2つある。郵便番号は、市内全域が「359-xxxx」である。上記の駅のほか、西武池袋線秋津駅(東京都東村山市)駅舎の一部が所沢市に属する。また、西武西武園線西武園駅及び西武多摩湖線西武遊園地駅(ともに東京都東村山市)が市境付近にある。なお、武蔵野線と西武鉄道との相互乗り入れは行われておらず、新秋津駅(東京都東村山市)からの連絡線による甲種輸送のみである。全て西武バスの運行タクシーの営業区域は県南西部交通圏で、川越市・東松山市・飯能市・和光市などと同じエリアとなっている。地域的なもののみ掲載。トコろんは所沢市のイメージマスコット。 トコろんは、市の鳥「ひばり」をモチーフに、日本航空発祥の地にちなんでプロペラ飛行機のイメージから、頭にプロペラをつけている。首に巻いた緑色のスカーフは、所沢市の名産“狭山茶”をイメージして巻いている。市制施行60周年記念事業の一環として、2010年(平成22年)に誕生した。 誕生日は11月3日。マスコットデザインは、2010年5月1日~31日に募集し、5歳~78歳まで、幅広い年齢層の方から応募があった196点のなかから、第1次審査がおこなわれ、埼玉県立芸術総合高校(以下芸術高校)美術教員、市内中学校美術担当教員、市内保育園保育士、庁内プロジェクト委員の23名が、10点に絞り込んだ。 その後、「若い世代に親しまれ、愛されるキャラになってほしい」と、市内の小学6年生と中学3年生、芸術高校美術科の生徒に、10点の作品の中から、好きな作品に投票してもらった。 最終選考には、市長・市議会正副議長・副市長・教育長・学校教育部長・日本大学藝術学部教授が加わり、所沢市在住の竹浪かおるさんの作品に決定した。 愛称についても一般公募し、1,232点の応募の中から「トコろん」に決定した。2012年のゆるキャラグランプリはランキング43位(県内6位)。2013年のゆるキャラグランプリでは、ランキング26位(県内2位)となった。2014年はランキング39位(県内2位)。2015年はランキング58位(県内6位)。ゆる玉応援団 - 団員No.41
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