カーブル市(カーブルし、)は、アフガニスタンの首都、カーブル州の州都。日本の主だった報道機関各社は「カブール」という呼称を用いているが、学術的にも一般的にも「カーブル」が妥当である。現地語での発音も「カーブル」に近い。ヒンドゥークシュ山脈の南縁、カイバル峠の麓の沿いの狭小な丘陵に位置する標高約1,800mの町。商業が非常に活発であるほか、皮革・家具・ガラス工業、テンサイ糖の生産なども行われる。アフガニスタンの経済的・文化的中心地で国内最大の都市である。1931年に開学された同国を代表する最高学府である国立カーブル大学はこの都市にある。ガズニー、カンダハール、ヘラート、マザーリシャリーフとアフガニスタン国内を一周する環状の高速道路で結ばれている。3000年以上の歴史を持ち、古くから"文明の十字路"と呼ばれた。現在、数十年続いた戦災からの復興の途上にある。カトマンズと並び、ヒッピーの聖地と言われていた時期もある。現地の公用語であるダリー語(アフガン・ペルシア語)やパシュトー語で使用される表記体系であるアラビア文字ないしペルシア文字では、" と綴る。したがって、ラテン文字への転写は " であり、カナ転写は「」となる。発音はいずれの言語でも「カーブル」に近い。しかしながら、日本においては、報道関係者の不注意な聞き間違いから、「カブール」表記が広まった。日本国外務省も「カブール」表記を採用し続けている。日本放送協会も外務省表記に従い「カブール」表記を採る。とはいえ、「カーブル」表記の採用例も無視できないほど多く、専門家が一般人に向けて書いた啓蒙書では「カーブル」が普通である。駐日アフガニスタン大使館が提供する公式ウェブサイトでも「カーブル」表記である。また、英語では または と発音されることが多い。アレクサンドロス大王の東方遠征以来、たびたび中央アジア・ペルシアの勢力のインドへの侵入路となった。7世紀にアラブ人によって征服され、イスラム世界の一部となる。ムガル帝国の創始者バーブルは、シャイバーニー朝にサマルカンドを追われてこの都市を首都に定め、インドを征服した。ムガル帝国とサファヴィー朝との争奪を経て1738年にアフシャール朝のナーディル・シャーによって征服され、その死後、パシュトゥーン人(アフガン人)がアフガニスタンの起源となるドゥッラーニー朝を興すとその首都となった。1839年と1879年に、2度のアフガン戦争で2度とも一時イギリス軍の占領下に置かれる。1979年、ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻が始まると、12月23日にソ連軍によって占領され、1988年に撤退するまでその司令部が置かれてムジャーヒディーンのゲリラとの激しい攻防の中心となった。1992年にナジーブッラーの共産主義政権が崩壊すると、カーブルはムジャーヒディーンの手に落ちたが、ムジャーヒディーン各派の紛争によって甚大な被害を受けた。同年12月、かつては市内に86台走っていたトロリーバスはすべて運行停止を余儀なくされた。1993年までに、市内の電気系統と上下水道は完全に機能を停止した。当時、ラッバーニーが率いる(タジク人中心)が市内を掌握していたが、有名無実の首相ヘクマティヤール率いる (HIG) が市街を1996年まで3年間にわたり包囲した。市内では、イスラム協会、ドスタム将軍派のイスラム民族運動(ウズベク人勢力)、イスラム統一党(ハザーラ人系)の間で戦闘が続き、数万人の民間人が犠牲になるとともに、大量の難民が発生した。1996年にカーブルはターリバーンに陥落し、ナジーブッラーは公開処刑された。ターリバーンのカーブル占拠の間は、カーブルを巡る紛争はすべて止んだ。ラッバーニー、ヘクマティヤール、ドスタム、マスードらはカーブルから撤退した。ターリバーン政権(アフガニスタン・イスラム首長国)期も引き続き首都はカーブルとされ、省庁も同市内に置かれたが、政治の中心は南部のカンダハールだった。同地はアフガニスタンの最大民族パシュトゥーン人の都市で、パシュトゥーン人主体のターリバーンにとっては本拠地だった。ターリバーンの指導者はパシュトゥーン人以外にもタジク人、ウズベク人、ハザーラ人など多民族が共存する大都市カーブルの風土に馴染まず、本拠地カンダハールに住み続け、同地からカーブルの省庁に指令を下すといった首都機能の逆転現象が見られた。約5年後、2001年10月にアメリカがアフガニスタンに侵攻した。米軍による激しい空爆によって、同年11月21日ターリバーンはカーブルを放棄し、北部同盟が代わってカーブルを支配下に治めた。ターリバーン政権期に政治の中心としての機能を失っていたカーブルは首都機能を回復し、12月20日にはカーブルにアフガニスタン暫定行政機構の本部が置かれた。カルザイ大統領の率いる現政権(アフガニスタン・イスラム共和国)が制定した憲法で首都がカーブルに指定され、再度首都としてアフガニスタンの中心都市になり、現在に至る。標高が高いため気温は低めである。夏は乾燥し、降水量のほとんどは冬に集中する。ケッペンの気候区分ではステップ気候(BSk)に属する。人口は2,536,300人(2006年の公式推計)。2010年の都市的地域の人口では337万人であり、世界の第97位、同国では第1位である。ペルシア語系住民が市内人口の多数を占め、スンナ派のタジク人が最大のグループで、シーア派のハザーラ人とタジク人がそれに続く。ペルシア語化したパシュトゥーン人の住民も多い。少数派では、パシュトー語系のスンナ派住民がもっとも多く、テュルク系のウズベク人が続く。他にインド語派方言を話すヒンドゥー教徒とシク教徒も相当数が居住している。カーブル国際空港がカーブル市民の長距離移動の玄関口となっている。同空港は、アフガニスタンの国営航空であるアリアナ・アフガン航空のハブ空港であるだけでなく、多くの外国の航空会社にも利用されている。2008年には3,500万ドルの費用を掛けた新ターミナルが完成している。カーブルには公営のバス会社 (Millie Bus) も運営されており、市内の多くの路線がある。2007年現在、約200台のバスが稼働しているが、さらに増便される予定である。かつてカーブルを走行していた、近代的なトロリーバスを再導入する計画も検討中である。バスに加えて、タクシーも市内のどこでも利用することができる。自家用車の利用もカーブルでは増えつつあり、トヨタ、ランドローバー、BMW、ヒュンダイなどの代理販売店が市内中に見られる。一般道路や高速道路の整備が進むに連れて、自家用車を購入する人が増えている。カーブル市内でもっとも普通に見られるのはトヨタのカローラである。バイクを除いて、カーブル市内のほとんど全ての交通機関は軽油を利用している。GSM/GPRS携帯電話サービスが、Afghan Wireless、Roshan、Areebaの3社によって提供されており、携帯電話の利用が飛躍的に伸びている。2006年6月、アラブ首長国連邦の通信会社Etislatは、アフガニスタン国内での営業免許を政府から取得したことを発表し、全国規模の携帯電話ネットワークの構築の意志を明らかにした。同年11月、アフガニスタン通信省と中国の通信機器メーカー中興通訊 (ZTE) は、6,450万ドルで全国に光ファイバーネットワークを構築する契約を交わした。これによって、カーブル市内だけでなく全国で、電話、インターネット、テレビやラジオ放送の通信状態が向上することが見込まれる。2009年現在、アフガニスタンのテレビ放送局は6社ある。2010年1月時点で、アフガニスタン国際銀行(INGグループによって運営されている)、カーブル銀行、ウエスタンユニオンなど、カーブル市内には14の銀行がある。2005年には、4つ星クラスの高級ホテルが6階の最上階に入った屋内式のショッピング・モール、カーブル・シティ・センターがオープンした。5つ星の高級ホテル、セレナホテルは2005年にオープンし、ハイアットリージェンシーホテルは2007年なかばにオープン。長年カーブルのランドマークであるインターコンチネンタルホテルも、改装されて営業中である。また、カーブル川南岸とJade Meyward通りに囲まれたカーブル旧市街は、内戦で破壊された建造物に混じって数多くの古いモスクが存在し、また、活発な商業活動が行われている地域であるが、更なる発展のために、20-25年の長期かつ大規模な商業的、歴史的、文化的再開発事業計画 (City of Light Development) が、、カルザイ大統領と政府の支援を得た民間資本 (ARCADD) によって進められている。カーブルから約6.4km(4マイル)離れた郊外、バグラミ地区に、近代的な設備を備えた89,000m(22エーカー)の工業団地が完成し、近い将来、新たなビジネスセンターになると思われる。2006年9月には、2,500万ドルの費用を掛けたコカ・コーラの工場がオープンした。カーブルの旧市街には、細い曲がりくねった小路沿いに多くのバザールがひしめいている。その他の見所には、カーブル国立博物館(アフガニスタン国立博物館)、ダルラマン宮殿(アマーヌッラー・ハーンの王宮)、バーブル廟、戦勝記念塔、カーブル動物園などがある。
出典:wikipedia
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