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足利義昭

足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代(最後)の将軍。(在職:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って覚慶(かくけい)と名乗り一乗院門跡となった。兄・義輝らが松永久秀らに暗殺されると、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。美濃国の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたがやがて京都から追われ備後国に下向し、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後はこれを辞し、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。天文6年(1537年)11月13日、第12代将軍・足利義晴の次男として生まれる。幼名は千歳丸。兄に嗣子である義輝がいた。跡目争いを避けるため、あるいは寺社との結びつきを強めるために嗣子以外の息子を出家させる足利将軍家の慣習に従って天文11年(1542年)11月20日、外祖父・近衛尚通の猶子となって仏門(興福寺の一乗院門跡)に入室し(『親俊日記』『南行雑録』)、法名を覚慶と名乗った。のちに興福寺で権少僧都にまで栄進している。このまま覚慶は高僧として生涯を終えるはずであった。永禄8年(1565年)5月の永禄の変で、第13代将軍であった兄・義輝と母・慶寿院、弟で鹿苑院院主であった周暠が松永久通や三好三人衆らによって暗殺された。このとき、覚慶も久通らによって捕縛され、興福寺に幽閉・監視された。しかし、義輝の側近であった一色藤長、和田惟政、仁木義政、畠山尚誠、米田求政、三淵藤英、細川藤孝および大覚寺門跡・義俊(近衛尚通の子)らに助けられて7月28日に脱出し、奈良から木津川をさかのぼり伊賀国へ脱出した覚慶とその一行は、さらに近江国の六角義賢の許可を得た上で甲賀郡の和田城(伊賀 - 近江の国境近くにあった和田惟政の居城)にひとまず身を置き、ここで覚慶は足利将軍家の当主になる事を宣言した。11月21日には和田惟政と仁木義政の斡旋により六角義賢・義治親子の許可を得た上で、甲賀郡から都にほど近い野洲郡矢島村(守山市矢島町)に進出し、在所とした(矢島御所)。この際に上杉輝虎(謙信)らに室町幕府の再興を依頼している。また輝虎と武田信玄・北条氏政の3名に対して和睦を命じたりしている。永禄9年(1566年)2月17日、正統な血筋による将軍家を再興するため、覚慶は矢島御所において還俗し足利義秋と名乗った。当時の義昭のことを記した書物には、将軍家当主をさす矢島の武家御所などと呼ばれていたことが記されている。4月21日には従五位下・左馬頭(次期将軍が就く官職)に叙位・任官。矢島御所において義秋は、三管領家の一つである河内国の畠山高政、関東管領の上杉輝虎、能登守護の畠山義綱(近江滋賀郡在国)らとも親密に連絡をとり、しきりに上洛の機会を窺った。特に高政は義秋を積極的に支持していたとみえ、実弟の畠山昭高を、この頃に義秋に従えさせた。六角義賢は当初は上洛に積極的で、和田惟政に命じて浅井長政と織田信長の妹・お市の婚姻の実現を働きかけている。義秋や六角・和田の構想は敵対していた六角氏・浅井氏・斎藤氏・織田氏、更には武田氏・上杉氏・後北条氏らを和解させ、彼らの協力で上洛を目指すものであったと考えられている。実際に和田惟政と細川藤孝の説得で信長と斎藤龍興は和解に応じ、信長は美濃から六角氏の勢力圏である北伊勢・南近江を経由して上洛することになった。この義秋の行動に対して、三好三人衆の三好長逸の軍勢3,000騎が突然矢島御所を襲撃してきたが、この時は大草氏などの奉公衆(親衛隊)の奮戦により、からくも撃退することが出来た。しかし、永禄9年(1566年)8月、先の約束通り上洛の兵を起こした信長の軍は斎藤龍興の襲撃にあって尾張国に撤退し、さらに六角義賢・義治父子が三好三人衆と密かに内通したという情報を掴んだため、妹婿である武田義統を頼り、若狭国へ移った。斎藤龍興と六角義賢の離反がほぼ同時に起きているのは三好方による巻き返しの調略があったとみられている。しかし、京都北白川に出城も構え、応仁の乱では東軍の副将を務め隆盛を極めた若狭武田氏も、義統自身が息子との家督抗争や重臣の謀反などから国内が安定しておらず、上洛できる状況でなかった。9月には若狭から越前国の朝倉義景(仁木義政の親族であるという)のもとへ移り、上洛への助力を要請した。義秋は朝廷に義景の母を従二位にすることを上奏して、実現したりしている。朝倉義景は細川藤孝らによる覚慶(義昭)の奈良脱出の黒幕であったととする見方がある一方で、すでに足利将軍家連枝の「鞍谷御所」・足利嗣知(足利義嗣の子孫)も抱えており、仏門から還俗した義秋を奉じての積極的な上洛をする意思を表さなかったため、滞在は長期間となった。この頃、義秋のもとには上野清延・大館晴忠などのかつての幕府重臣や諏方晴長・飯尾昭連・松田頼隆などの奉行衆が帰参する。なお、義昭は朝倉氏よりも上杉輝虎を頼りにしていたという。しかし輝虎は武田信玄との対立と、その信玄の調略を受けた揚北衆の本庄繁長の反乱、越中の騒乱などから上洛・出兵などは不可能であった。血筋や幕府の実務を行う奉行衆の掌握といった点で次期将軍候補としては対抗馬である従兄弟の足利義栄よりも有利な環境にありながらいつまでも上洛できない義昭に対し、京都の実質的支配者であった三好三人衆が擁する義栄は、義輝によって取り潰された伊勢氏(元政所執事)の再興を約束するなど朝廷や京都に残る幕臣への説得工作を続け、その結果、永禄11年(1568年)2月8日に義栄は摂津国滞在のまま将軍宣下を受けた。永禄11年(1568年)4月15日、義秋は「秋」の字は不吉であるとし、京都から前関白の二条晴良を越前に招き、ようやく元服式を行って義昭と改名した。加冠役は朝倉義景が務めている。やがて、朝倉家の家臣であった明智光秀の仲介により、三管領斯波氏の有力家臣であった織田信長を頼って尾張国へ移る。永禄11年(1568年)9月、北近江の浅井氏などの支持も受けた上で、直接には織田信長軍と浅井長政軍に警護されて上洛を開始した。途中、六角義賢の抵抗もあったが退け、父・義晴が幕府を構えていた桑実寺に遷座、そしてさらに進軍し無事京都に到着した。これをみて、三好三人衆の勢力は京都から後退した。また、9月30日には病気を患っていた14代将軍・足利義栄も死去した(『公卿補任』)。10月18日、朝廷から将軍宣下を受けて第15代将軍に就任した。同時に従四位下、参議・左近衛権中将にも昇叙・任官された。なお、当時の人々の間では新興勢力である信長は義昭に従う供奉者として認識されており、信長側でも信長は御供衆の1人であるという認識があった(池田本『信長記』)。将軍に就任した義昭は義輝暗殺及び足利義栄の将軍襲職に便宜を働いた容疑で近衛前久を追放し、二条晴良を関白職に復職させた。近衛家は義昭の生母であった慶寿院以来、将軍の御台所を輩出してきたが、前久追放による関係の冷却化によって正室を迎えることが出来なくなった。また、幕府の管領家である細川昭元や畠山昭高、朝廷の関白家である二条昭実に偏諱を与え領地を安堵し政権の安定を計り、兄の義輝が持っていた山城国の御料所も掌握した。また山城国には守護を置かず、三淵藤英を伏見に配置するなどし治めた。幕府の治世の実務には、兄の義輝と同じく摂津晴門を政所執事に起用し、義昭と行動を供にしていた奉行衆も職務に復帰して幕府の機能を再興した。また伊勢氏当主も義栄に出仕した伊勢貞為を弟の貞興に代えさせて義昭に仕えさせたとされる。このように幕府の再興を見て、島津義久は喜入季久を上洛させて黄金100両を献上して祝意を表し、相良義陽や毛利元就らも料所の進上を行っている。義昭は当初、本圀寺を仮御所としていたが、永禄12年(1569年)1月5日、信長の兵が領国の美濃・尾張に帰還すると三好三人衆の巻き返しに晒され、本圀寺を襲われた(本圀寺の変)。兄・義輝と同様の運命になるかとも思われたが、この時は奉公衆および北近江の浅井長政・摂津国の池田勝正・和田惟政・伊丹親興・三好義継らの奮戦により、これを撃退した。烏丸中御門御第の再興および増強は、このような理由で急遽行われた。なお、この変事の直後である1月7日、義昭は大友宗麟に毛利元就との講和を勧め、13日には互いに講和して三好氏の本拠である阿波に出兵させようとしたが、この計画は実現しなかった。義昭は信長に命じて兄・義輝も本拠を置いた烏丸中御門第(旧二条城とも呼ばれる)を整備する。この義昭の将軍邸は、二重の水堀で囲い、高い石垣を新たに構築するなど防御機能を格段に充実させたため洛中の平城と呼んで差し支えのない大規模な城郭風のものとなった。この烏丸中御門第には、室町幕府に代々奉公衆として仕えていた者や旧守護家など高い家柄の者が続々と参勤し、ここに義昭の念願であった室町幕府は完全に再興された。新将軍として幕府を再興した義昭はまず信長の武功に対し幕閣と協議した末「室町殿御父(むろまちどのおんちち)」の称号を与えて報いた。将軍就任直後の10月24日に信長に対して宛てた感状で、「御父織田弾正忠(信長)殿」と宛て名したことはことに有名である。信長は上洛の恩賞として尾張・美濃領有の公認と旧・三好領であった堺を含む和泉一国の支配を望んだために義昭は信長を和泉守護に任じた。さらに、信長には管領代または管領の地位、そして朝廷への副将軍への推挙を申し入れた。しかし信長は受けず、弾正忠への正式な叙任の推挙のみを受けた。この時その他の武将にも論功行賞が行われ、池田勝正を摂津守護に、畠山高政・三好義継をそれぞれ河内半国守護に、細川藤賢は近江守護に任じられた。山城国には守護はおかれず将軍家御領(上山城守護代として長岡藤孝、下山城守護代として真木島昭光)となる。後に山岡景友が守護に任ぜられたともされるが、実質は義昭と信長によって共同統治された。しかし幕府再興を念願とする義昭と、武力による天下統一を狙っていた信長の思惑は違っていたために、両者の関係は徐々に悪化していくこととなる。信長は伊勢国の北畠氏を攻めて本拠地である大河内城を攻めたものの北畠氏の抵抗で城を落としきれず、信長の要請を受けた義昭が仲介に立つ形で和議が行われた(大河内城の戦い)。ところが、両者の意見の齟齬から、信長が自分の次男(後の織田信雄)を北畠氏の養子に押し付けるなど、義昭の意向に反する措置を取ったことがその不快感を招き、関係悪化の一因になったとされている。信長は将軍権力を制約するために、永禄12年(1569年)1月14日、殿中御掟という9箇条の掟書を義昭に承認させた。さらに永禄13年(1570年)1月には5箇条が追加され、義昭はこれも承認した。この殿中御掟については近年、信長が単純に将軍権力を制約しようとしたのではなく、ほとんどの条文が室町幕府の規範や先例に出典が求められるもので、信長が幕府法や先例を吟味した上で幕府再興の理念を示したものだとする説も出されている。また、義昭期の幕府機構を研究していく中で、義昭が信長の傀儡とは言えず室町幕府の組織が有効に機能しており、むしろ義昭個人の将軍権力の専制化や恣意的な政治判断による問題が浮上し始めていたとする指摘もある。だが、義昭が殿中御掟を全面的に遵守した形跡はなく、以後両者の関係は微妙なものとなっていく。元亀元年(1570年)4月、信長は徳川家康とともに姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍に勝利する。信長は続いて、義昭と共に三好三人衆らを討伐に出るが(野田城・福島城の戦い)、途中で石山本願寺および浅井氏・朝倉氏が挙兵。信長は近江へ引き返したが、浅井・浅倉氏は比叡山延暦寺に立てこもり、さらに伊勢で一向一揆が蜂起するなど連合軍の巻き返しに遭い、12月には信長方から和睦を申し出た。その際、信長から朝倉方との和睦の調停を依頼された義昭は、旧知の関白・二条晴良に調停の実務を要請している。元亀2年(1571年)4月14日、烏丸光宣に嫁いでいた義昭の姉が急死するが、後難を恐れた光宣が出奔してしまう。これに激怒した義昭が同28日に一色藤長らに烏丸邸を襲わせている。信長に不満を持った義昭は、自らに対する信長の影響力を相対化しようと、元亀2年(1571年)頃から上杉輝虎(謙信)や毛利輝元、本願寺顕如や甲斐国の武田信玄、六角義賢らに御内書を下しはじめた。これは一般に信長包囲網と呼ばれている。この包囲網にはかねてから信長と対立していた朝倉義景・浅井長政や延暦寺、兄の敵でもあった松永久秀、三好三人衆、三好義継らも加わっている。ただし、松永久秀追討に義昭の兵が参加するなど、義昭と信長の対立はまだ必ずしも全面的なものにまではなっていなかった。この年の11月には、摂津晴門の退任後に空席であった政所執事(頭人)に若年の伊勢貞興を任じる人事を信長が同意し、貞興の成人までは信長が職務を代行することになった。元亀3年(1572年)10月、信長は義昭に対して17条の意見書を送付した。この意見書は義昭の様々な点を批判している。これによって義昭と信長の対立は抜き差しならないものになり、義昭は挙兵。東では武田信玄が上洛を開始し、12月22日の三方ヶ原の戦いで信長の同盟者である徳川家康の軍勢を破るなどすると、信長は窮地に陥り、義昭は寵臣・山岡景友(六角義賢の重臣で幕府奉公衆でもある)を山城半国守護に任命する。だがその後、朝倉義景が12月3日に越前に撤退してしまったため、義昭は翌年2月に信玄から遺憾の意を示されて義景に重ねて出兵するように求めている(『古証記』)。義昭も義景、あるいは朝倉一族に対して5,000から6,000の兵を京都郊外の岩倉の山本に出兵するように命じている(『牧田茂兵衛氏所蔵文書』天正元年2月29日付義昭文書)。元亀4年(1573年)正月、信長は子を人質として義昭に和睦を申し入れたが、義昭は信じず、これを一蹴した。義昭は近江の今堅田城と石山城に幕府の軍勢を入れ、はっきりと反信長の旗を揚げた。しかし攻撃を受けると数日で両城は陥落している。その頃、東では信玄の病状が悪化したため、武田軍は4月に本国への撤退を始める。信玄は4月12日には死去した。信長は京に入り知恩院に陣を張った。幕臣であった細川藤孝や荒木村重らは義昭を見限り、信長についた。しかし義昭は(おそらく信玄の死を知らなかったため)、洛中の居城である烏丸中御門第にこもり、抵抗を続けた。信長は再度和睦を要請したが、義昭は信用せずこれを拒否した。信長は威嚇として幕臣や義昭の支持者が住居する上京全域を焼き討ちにより焦土化し、ついに烏丸中御門第を包囲して義昭に圧力をかけた。さらに信長はふたたび朝廷に工作した末、4月5日に勅命による講和が成立した。しかし7月3日、義昭は講和を破棄し、烏丸中御門第を三淵藤英・伊勢貞興らの他に日野輝資・高倉永相などの武家昵近公家衆に預けた上で、南山城の要害・槇島城(山城国の守護所)に移り挙兵した。槇島城は宇治川・巨椋池水系の島地に築かれた要害であり、義昭の近臣・真木島昭光の居城でもあったが、烏丸中御門第で最後まで籠っていた三淵藤英も10日に降伏し、槇島城も7万の軍勢により包囲された。7月18日に織田軍が攻撃を開始すると槇島城の施設がほとんど破壊されたため、家臣にうながされ、しぶしぶ降伏した。信長は他の有力戦国大名の手前、足利将軍家追放の悪名を避けるため、義昭の息子である義尋を足利将軍家の後継者として立てるとの約束で義昭と交渉のうえ自身の手元に置いた(人質の意味もあった)が、後に信長の憂慮が去ると反故にされている。信長は義昭の京都追放を実行し、足利将軍家の山城及び丹波・近江・若狭ほかの御料所を自領とした。続いて7月28日に天正への改元を行う。8月には朝倉氏、9月には浅井氏も滅亡し、信長包囲網は完全に瓦解した。一方で信長は、これまで幕府の政所や侍所が行ってきた業務を自己の京都所司代である村井貞勝に行わせ、続く天正2年(1574年)には塙直政を山城・大和の守護に任じ、畿内の支配を固めた。それまで信長は義昭を擁することで、間接的に天下人としての役割を担っていたが、義昭追放後は信長一人が天下人としての地位を保ち続け、一般的にはこの時点をもって室町幕府の滅亡と、現時点の歴史書では決めている。しかし、義昭が京都から追放されたとは言っても、かつて10代将軍であった足利義稙が明応の政変で将軍職を解任された後も大内義興らによって引き続き将軍として支持を受けて後に義興に奉じられて上洛して将軍職に復帰したように、義昭が京都に復帰する可能性も当時は考えられていた。実際に義昭は征夷大将軍であり続けたと公式記録(『公卿補任』)には記されている。また義昭も将軍職としての政務は続け、伊勢氏・高氏・一色氏・上野氏・細川氏・大館氏・飯尾氏・松田氏・大草氏などの幕府の中枢を構成した奉公衆や奉行衆を伴い、近臣や大名を室町幕府の役職に任命するなどの活動を行っていた。そのため近畿周辺の信長勢力圏以外(北陸・中国・九州)では、追放前と同程度の権威を保ち続け、それらの地域の大名からの献金も期待できた。また京都五山の住持任命権も足利将軍家に存在したため、その任命による礼金収入は存在していた。その一方で、所領安堵と引換に信長に従った奉公衆や奉行衆などもおり、その中には最後の政所執事である伊勢貞興、侍所開闔を務めた経験を持つ松田頼隆、他に石谷頼辰・小笠原秀清などがいた。ただし、そのほとんどがこれまでの幕府の職務から離れ、細川藤孝や明智光秀などの麾下に置かれた。これは幕臣たち所領の多くが彼らの支配下に置かれた事や個人的なつながりに由来すると考えられる。一方で、京都の統治を担当した村井貞勝の麾下に置かれた名のある幕臣はおらず、旧来の統治のノウハウが室町幕府から織田政権に継承されることはなかった。こうした一連の流れは、室町幕府の幕臣達は信長によって荘園制など中世的な秩序が解体されて将軍・幕府の権威を必要としない支配体制を構築されつつある中で、義昭の再上洛・復権に賭けるか、現実的な京都の支配者である信長に従って所領安堵を図るかの判断に分かれたとみられる。その一方で、信長側からみても幕臣が義昭に従う者と信長に従う者に二分された結果、政所や侍所など幕府機構の維持に必要な人材が不足して機能停止の状態に陥ったため、これらの機構に依拠しない支配体制を構築する方向性に進み、政所や侍所の職員だった幕臣も信長の下で新たな役割を与えられることで、京都における室町幕府の機構は完全に解体されることになった。また、これまでの室町将軍の動座・追放の際にはそれまで将軍を支持して「昵近」関係にあった公家が随伴するのが恒例で、彼らを仲介して朝廷との関係が維持され続けていた。実際に義昭の越前滞在時にも未だに将軍に就任していないにも関わらず前関白(当時)二条晴良や飛鳥井雅敦らが下向し、義昭に追われる形となった前将軍・義栄にも水無瀬親氏が最後まで従っている。ところが、今回の義昭追放においては烏丸中御門第で信長に抵抗した高倉永相や日野輝資のような公家はいたものの、彼らは最終的には信長の説得に応じ、義昭に従って京都を離れた公家は皆無であった。これは義昭の将軍就任以降の5年間に元亀から新元号への改元問題を巡る朝廷との対立や近衛前久の出奔や烏丸邸の襲撃などによる伝統的に足利将軍家と「昵近」関係にあった公家との関係悪化があり、また、信長による公家への所領安堵があったとみられている。そして朝廷では追放後の義昭を従来通りの将軍の別称である「公方」「武家」と呼んで引き続き将軍としての地位を認め、新たに天下人となった信長に対してその呼称を用いることはなかったものの、義昭側に仲介となる公家がいなかったこともあり、両者の間に関係が持たれる事は無かった。『公卿補任』によると、関白・豊臣秀吉と共に御所へ参内し、准三后となり正式に征夷大将軍を辞する天正16年1月13日(1588年2月9日)まで足利家の源義昭が征夷大将軍であったと正式に記録されている。その一方で、200年余り続いた室町幕府の中で、征夷大将軍が足利家の家職であり「(足利家と同じ清和源氏であったとしても)他家の人間が征夷大将軍に就任する事はありえない」という風潮が確立されており、出家後の義昭をその死去まで将軍とみなす社会認識があったとして、そのことが朝廷が積極的に義昭の解任の動きを見せなかった理由、織田信長が義昭に代わる征夷大将軍の地位を求めなかった理由とする説もある。京都からの追放後、義昭はいったん枇杷荘(現:京都府城陽市)に退いたが、顕如らの仲介もあり、妹婿である三好義継の拠る河内若江城へ移った。護衛には羽柴秀吉があたったという。しかし信長と義継の関係も悪化したため、11月5日に和泉の堺に移った。堺に移ると信長の元から羽柴秀吉と朝山日乗が使者として訪れ、義昭の帰京を要請した。この説得には毛利輝元の家臣である安国寺恵瓊、林就長もあたっている。しかし義昭が信長からの人質提出を求めるなどしたため交渉は決裂している。翌・天正2年(1574年)には紀伊国の興国寺に移り、ついで泊城に移った。紀伊は室町幕府管領畠山氏の勢力がまだまだ残る国であり、特に畠山高政の重臣であった湯川直春の勢力は強大であった。直春の父・湯川直光は紀伊出身でありながら河内守護代をも務めたことがある実力者である。天正3年(1575年)、義昭がかねてより望んでいた右近衛大将に信長が任官してしまう。天正4年(1576年)、義昭は毛利輝元の勢力下であった備後国の鞆に移った。鞆はかつて足利尊氏が光厳天皇より新田義貞追討の院宣を受けたという、足利家にとっての由緒がある場所であった。また第10代将軍・足利義稙が大内氏の支援のもと、京都復帰を果たしたという故事もある足利家にとって吉兆の地でもあった。これ以降の義昭の備後の亡命政府は鞆幕府とも呼ばれる。鞆での生活は、備中国の御料所からの年貢の他、足利将軍の専権事項であった五山住持の任免権を行使して礼銭を獲得できたこと、日明貿易を通して足利将軍家と関係の深かった宗氏や島津氏からの支援もあり財政的には困難な状態ではなかったと言われている。一方で、征夷大将軍として一定の格式を維持し、更に対信長の外交工作を行っていく以上、その費用も決して少なくはなく、また恒常的に保証された収入が少ない以上、その財政はかなり困難であったとする見方もあり、天正年間後期には真木嶋昭光・一色昭孝(唐橋在通)クラスの重臣ですら吉見氏や山内首藤氏など毛利氏麾下の国衆への「預置」(一時的に客将として与えて面倒をみさせる)の措置を取っている。近畿東海以外では足利将軍家支持の武家もまだまだ多かった。この地から、義昭は信長追討を目指し全国の大名に御内書を下しており、同年には甲斐の武田、相模の後北条、越後の上杉三者の和睦をもちかけているが、実現を見ていない。また、毛利氏が上洛に踏み切らないのは、北九州で大友宗麟の侵攻を受けているからだと考えた義昭は島津氏や龍造寺氏に大友氏討伐を命じる御内書を下した。島津義久はこれを大友領侵攻の大義名分として北上し、日向国の伊東義祐を旧領に復帰させるために南下しようとしていた大友宗麟と激突、天正6年(1578年)の耳川の戦いの一因になったとする説もある。天正5年(1577年)9月の手取川の戦いで織田軍を打ち破った上杉謙信も天正6年(1578年)3月に死去し、天正8年(1580年)には石山本願寺も信長に降伏した。しかし、義昭がまだ備後鞆に滞在中であった天正10年(1582年)6月2日に信長と嫡子の織田信忠は本能寺の変で明智光秀に討たれた。光秀の家臣団には伊勢貞興や蜷川貞周といった、旧室町幕府幕臣が多くいた。同年、義昭は鞆城から居所を山陽道に近い津之郷(現福山市津之郷町)へと移させる。信長の死を好機に、義昭は毛利輝元に上洛の支援を求めた(一方、羽柴秀吉や柴田勝家にも同じような働きかけを盛んに行なっていた)。親秀吉派であった小早川隆景らが反対したこともあり、秀吉に接近しつつあった毛利氏との関係は冷却したとも言われるが、天正11年(1583年)2月には、毛利輝元・柴田勝家・徳川家康から上洛の支持を取り付けている。同年、毛利輝元が羽柴秀吉に臣従し、天正14年(1586年)、秀吉が関白太政大臣となる。その後、「関白秀吉・将軍義昭」という時代は2年間続いた。この2年間は、秀吉が天下を統一していく期間に該当する。義昭は将軍として秀吉との和睦を島津義久に対して勧めていた。天正14年(1586年)12月4日には一色昭秀を鹿児島に送って和議を勧めている。天正15年(1587年)、秀吉は九州平定に向かう途中に義昭の住む備後国沼隈郡津之郷の御所付近を訪れ、そばにある田辺寺にて義昭と対面した(太刀の交換があったといわれている)。同年4月、義昭は再び一色昭秀を送って島津義久に重ねて和睦を勧めている。島津氏が秀吉の軍門に下った後の10月、義昭は京都に帰還する。その後、天正16年(1588年)1月13日に将軍職を辞して受戒し、名を昌山(道休)と号した。また朝廷から准三后の称号(待遇)を受けている。秀吉からは山城国槇島において1万石の領地を認められた。1万石とはいえ前将軍であったので、殿中での待遇は大大名以上であった。文禄・慶長の役には、秀吉のたっての要請により、由緒ある奉公衆などの名家による軍勢200人を従えて肥前国名護屋まで参陣している。晩年は斯波義銀・山名堯熙・赤松則房らとともに秀吉の御伽衆に加えられ、太閤の良き話相手であったとされる。毛利輝元の上洛の際などに名前が見られる。慶長2年(1597年)8月、大坂で薨去。死因は腫物であったとされ病臥して数日で没したが、老齢で肥前まで出陣したのが身にこたえたのではないかとされている。義演は日記の中で「近年将軍ノ号蔑也、有名無実弥以相果了」と感想を記している。享年61。義昭の嫡男・足利義尋は、信長の人質となった後、興福寺の大乗院門跡となった。義尋は後に還俗して二人の子をもうけたが、二人とも仏門に入った。このため義昭の正系は断絶した。大坂の役の際に義昭の子と称する一色義喬が総数563人分の「家臣連判帳」を提出して徳川方として参加しようとして果たせなかったという。その孫・義邵は会津松平家に仕え陸奥会津藩士となり、坂本姓を名乗る。仕官の際に足利氏菩提寺の鑁阿寺に相伝の家宝の一部を寄進したという(『足利市史 上巻』)。「永山氏系図」(『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集』所収)において泉州蟄居の際にできた子として、義在という人物の名が記されている。同史料に寄れば、義在は薩摩藩士となり、舅の姓に改姓して「永山休兵衛」と称したという。ただし、義喬と義在の存在は同時代史料では確認されていない。明治12年(1879年)には押小路実潔が、名家の子孫を華族に取り立てるよう請願書を提出しているが、この中で「西山義昭将軍裔ニして細川家ニ客タリ足利家」も名家の一つとして数えている。これは肥後熊本藩士であった尾池義辰の子孫、西山氏を指すものであるが、この西山氏の先祖は義輝という説や義昭の弟という説もあるため明確になっていない。

出典:wikipedia

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