太田 昭宏(おおた あきひろ、1945年10月6日 - )は、日本の政治家。公明党所属の衆議院議員(7期)、公明党全国議員団会議議長。北区ボディビル・フィットネス連盟最高顧問。新進党副幹事長、公明党幹事長代行、公明党国会対策委員長、公明党代表(第2代)、国土交通大臣(第18・19代)、水循環政策担当大臣(第1・2代)などを歴任した。愛知県新城市に生まれ、生後間もなく豊橋市へ転居する。愛知県立時習館高等学校、京都大学工学部土木工学科卒業。京大在学中は相撲部に所属した。京都大学大学院工学研究科修士課程を修了した後、1971年4月に公明党機関紙局に就職し、公明新聞で国会担当記者を務める。1982年、創価学会青年部長に就任。公明党の「プリンス」とよばれる。1990年、第39回衆議院議員総選挙に公明党公認で旧東京8区から出馬するも、落選。1993年の第40回衆議院議員総選挙では旧東京9区に国替えして出馬し、初当選した。同年8月、当時の公明党委員長石田幸四郎の下で党副書記長、政策審議副会長に就任。早くから「公明党のプリンス」と目された。1994年、公明党解党により公明新党を経て新進党結党に参加する。新進党では副幹事長に就任した。小選挙区比例代表並立制導入後初めて実施された第41回衆議院議員総選挙では比例東京ブロック単独で出馬し、再選。1998年、新進党解党により、旧公明党系議員が結成した新党平和に参加した後、新党平和・黎明クラブ・公明の合併による公明党再結成に伴い、党幹事長代行に就任。2000年の第42回衆議院議員総選挙では比例東京ブロック単独で出馬し、3選。2003年の第43回衆議院議員総選挙では比例単独から東京12区に国替えし、初めて小選挙区で当選。この選挙では自由民主党、保守新党の推薦を受けた(保守新党は選挙後自民党へ合流)。2005年の第44回衆議院議員総選挙では、郵政民営化法案の採決で反対票を投じた八代英太(自民党の公認が得られず無所属で出馬)らを破り、5選。2006年、神崎武法の退任に伴う公明党代表選挙に立候補し、太田以外に立候補者がいなかったため無投票で党代表に選出された。2009年の第45回衆議院議員総選挙で従来通り重複立候補を辞退し東京12区のみに立候補したが、民主党の青木愛に僅差で敗れ現職の与党党首でありながら落選した。公明党で党首が落選するのは立党以来初めてであった。総選挙後、9月3日の党常任役員会で党代表辞任を表明し、了承された。なお、同じく落選した党幹事長の北側一雄も併せて辞任した。同年9月8日の公明党全国代表者会議において、太田の辞任と山口那津男の新代表就任が正式に決まる。これに併せて党規約が改正され、太田は新設ポストである全国代表者会議議長に就任、執行部に残留した。同年12月6日、2010年7月の第22回参議院議員通常選挙における比例区候補として公明党から公認された。しかし、2010年2月2日には一転、公明党は太田の公認を取り消し、党ホームページの参院選立候補予定者欄から太田の名前を削除した。太田の参議院への出馬に対し、創価学会婦人部など学会内部から否定的な意見が多かったことが遠因といわれる。この公認取り消しの混乱で政治生命の衰えも一部で指摘されたが、その後も党議長として党内序列2位を維持し、参院選や地方選挙の候補者応援などの政治活動を継続。2011年11月17日、公明党中央幹事会は太田を第46回衆議院議員総選挙の東京12区候補予定者に決定。なお、太田の出馬は議員在任中に66歳を超えないとする党の内規に抵触するが、党は太田を例外扱いとすることを認めた。2012年12月16日に行われた総選挙の結果、太田は民主党から日本未来の党に移籍した青木を破り当選、国政に復帰した。12月26日、第2次安倍内閣において国土交通大臣として初入閣。2013年5月26日、ミャンマー訪問中の内閣総理大臣安倍晋三の代理として大相撲夏場所総理大臣杯を白鵬に授与した。2014年5月20日、国土交通大臣と兼務して初代水循環政策担当大臣に就任。9月3日に発足した第2次安倍改造内閣でも同職に再任された。同年9月21日、公明党全国代表者会議の廃止に伴い、衆参両院議員団と全国地方議員団会議で構成する公明党全国議員団会議の初代議長に就任した。同年12月14日に執行された第47回衆議院議員総選挙で7期目の当選を果たし、12月24日に発足した第3次安倍内閣では国土交通大臣及び水循環政策担当大臣に再任される。2015年10月7日、第3次安倍第1次改造内閣発足に伴い、党政務調査会長の石井啓一に後を託し、大臣職を退任した。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。