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富士銀行

株式会社富士銀行(ふじぎんこう)株式会社 富士銀行(ふじぎんこう、英称:"The Fuji Bank, Limited")は、戦前から存続していた安田財閥系の 安田銀行が、財閥解体等を経て1948年に商号変更した都市銀行であり、2000年から2002年までみずほフィナンシャルグループ 傘下に入っていた日本の都市銀行である。2002年から、日本興業銀行と合併しみずほコーポレート銀行に商号を変更した後、2013年には2002年に第一勧業銀行が商号変更して誕生した(初代)みずほ銀行をみずほコーポレート銀行が吸収し、それに合わせてみずほコーポレート銀行は現在のみずほ銀行へと商号を変更した。英字略称は「FBK」。本店は東京都千代田区大手町(二代目の みずほフィナンシャルグループ 本部およびみずほ銀行東京中央支店・かつての所在地)に置かれていた)。芙蓉グループの中核。この項目では同行の前身である安田銀行についても説明する。安田財閥の創始者・安田善次郎は1864年、江戸日本橋乗物町(現在の東京都中央区日本橋堀留町)に露天の乾物商兼両替商・安田屋を開業した。2年後の1866年には日本橋小舟町へ移り安田商店と改称。発足したばかりでまだ信用力のない明治新政府の不換紙幣や公債を率先して引き受け、その流通に積極的に協力。1870年に正金金札等価通用布告がなされると、これらを額面引き換えし更なる巨万の利益を得ることになる。この強固な資本を基盤に1876年、川崎八右衛門と共に日本橋小舟町に第三国立銀行を開業。また1880年には、本体の安田商店を合本 安田銀行 に改組した。こうして資本金20万円、従業員31人、店鋪数3をもって銀行としての歴史が始まった。明治の日本にあって、安田銀行は鉄道・築港などの大規模公共事業に資金を提供し、政府や自治体からの信頼を厚くする。そして、当時の 東京府 東京市 や 大阪府 大阪市 の二府もその中に含まれ、その後の富士銀行の本金庫業務(指定金融機関)としての地位、「公金の富士」の名声を築いていくこととなる。時代が大正に移ると、第一次世界大戦 や 関東大震災、それに続く不況によって社会情勢は不安定化。資金力・信用力が脆弱な中小の銀行は経営難に陥ったが、安田銀行はこれを援助し、時には吸収・合併を行い預金者の救済にあたった。こうして親密となった11行が1923年に大合同、新・安田銀行となる。資本金1億5,000万円、預金5億4,200万円、貸出金5億2,100万円、店鋪数211、従業員数3,700人などいずれの分野においても国内首位となり、この座は1971年の第一勧業銀行誕生まで不動だった。初代安田銀行末期の店舗網は栃木県から東北方向に伸びていた。安田銀行は安田家と決別する意味で終戦後の財閥解体とともにその名を変え、1948年、富士銀行と改称。「富士」という新商号は、日本最高峰である富士山にちなんでおり、「国民」「共立」「日本商業」「富士」などの中から京浜地区の行員によるアンケートの結果選ばれたものである。戦前からの強みであった公金分野に加えて、芙蓉グループの結成により一大企業系列の中核となった。個人向け業務の分野でも「みなさまの富士銀行」を掲げ、創業80周年の1960年には「カラコロ富士へ」(=下駄履きで気軽に入れる銀行)をキャッチコピーに採用。法人・個人の双方に強い名門都銀として、また東京都及び特別区との強いつながりから「東京の地銀」として長らく歩んだ。1980年に、従来の行章に代えて、正方形の中に富士を台形で表した宣伝用ロゴマークを制定。さらに1988年にCIを導入。ランドーアソシエイツによる青・緑のグラデーションを地とした新ロゴが考案された。1993年、イメージキャラクターに俳優の本木雅弘を採用。これが顧客から好評をうけ、みずほ銀行に再編される直前の2002年3月まで実に9年もの間、彼がイメージキャラクターを務め続けた。こうして紛れもない上位行ではあったものの、1970年代以降は第一勧業銀行が発足して長年君臨していた預金量業界トップの座を奪われるなど、その地位は徐々に低下していた。このため、1970年代後半には同じく都銀上位行であった三和銀行との合併を画策し、業界トップの座の奪回を狙っていた。東京本店の富士銀行と大阪本店の三和銀行は店舗網のバランスでも補完性が非常に高く、経営状態、総資産も両行ほぼ同じで事実上の非財閥銀行同士であり、吸収されるリスクも皆無であったため互いに合併のメリットが大きかった。更に三和銀行系の多くの企業が富士銀行をサブメインバンク、もしくは三和銀行と並ぶメインバンクにしていたため、合併交渉も順調に進み三和とは合意寸前にまで達したが、金融業界全体が護送船団方式にどっぷりつかっていた当時では「巨大銀行の誕生は預金の寡占につながり、銀行業界にとって好ましくない」という理由で大蔵省からの認可が下りなかったため、この合併はご破算となってしまった。1980年代になると、住友銀行が積極的な営業を展開し、これがバブル期に突入するとさらに加速。焦る富士は対抗して営業部隊を投入、白兵戦を繰り広げ「FS戦争」(両社の頭文字から。「富士住友戦争」とも言う)と呼ばれる熾烈な貸出競争に走ったが、バブル崩壊後にはそれらの貸出が不良債権化していった。1990年代、不良債権問題・金融システム不安の拡大と並行して、富士銀行の経営は悪化の一途を辿る。金融ビッグバンの流れに乗って1994年に富士証券(現・みずほ証券)、1996年に富士信託銀行(現・みずほ信託銀行)を設立するなど業績改善を図ったが、いずれも収益の柱となるには至らなかった。また、1995年に日本興業銀行に合併の打診をしたが、破談になった。しかし、これが第一勧銀・興銀との統合へとつながったことは否めない。1997年11月には山一證券が自主廃業、親密だった富士は「山一を支援するだけの余力がなかった」と市場からみなされ、株価が暴落する事態になった。1997年6月に1,860円だった富士銀行株は、翌1998年10月には252円まで値下がりしている。国内50拠点を統廃合、海外拠点をほぼ半減し、1998年から2000年にかけて行員1,700名のリストラを余儀なくされた。金融早期健全化法に基づく公的資金注入は、都銀の中でも最大規模の1兆円に達した。1999年には系列の安田信託銀行(現・みずほ信託銀行)が経営危機に陥り、第三者割当増資を引き受け救済子会社化するが、もはや富士独力での再建は不可能だった。ここで浮上したのが第一勧業銀行との連携であった。2行の傘下にあった富士信託銀行と第一勧業信託銀行を合併し、第一勧業富士信託銀行とした上で、安田信託の中でも比較的高収益だった法人・年金部門を分割譲渡。こうした経緯から第一勧銀との関係が生まれ、みずほフィナンシャルグループ発足へとつながっていった。この連携の素地には1969年にクレジットカード業務を行うために設立した合弁会社であるユニオンクレジットの成功による両行の信頼関係が存在していた。また、1960年代後半に地方店舗整理の際日本勧業銀行と一部店舗を交換(相手行店舗と統合)した。合併統合を目前にした2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件で、ハイジャックされたユナイテッド航空175便が世界貿易センタービル南棟78-84階に衝突。当行のニューヨーク支店および現地法人は南棟79-82階に入居していたため直撃を免れず、勤務中だった みずほフィナンシャルグループ 傘下の 富士銀行の行員12名が犠牲となった。2002年12月に行方不明となった1行員の妻がこれについて綴ったエッセイを上梓し、2004年9月11日には2時間ドラマ「9・11 NYテロ真実の物語」としてフジテレビ系のプレミアムステージ枠にて実写化・放映された。2005年9月11日には、みずほフィナンシャルグループ本部前( 事件発生当時の 富士銀行本店 )には追悼のモニュメントが設置された。ニューヨーク市消防局から寄贈されたもので、犠牲者の名が刻まれている。2008年に同地の再開発に伴い、みずほフィナンシャルグループ本部と共に「丸の内二丁目ビル」に仮移転している。2002年4月1日に、株式会社第一勧業銀行(現・株式会社みずほ銀行 )に「カスタマー・コンシューマー銀行業務に関する諸営業」を承継させ、また同行から「コーポレート銀行業務に関する諸営業」を承継し、並びに 株式会社日本興業銀行を合併。株式会社みずほコーポレート銀行と改称した。2002年から2013年までの富士銀行の法定手続上の承継会社はみずほコーポレート銀行であった。なお、株式会社みずほコーポレート銀行は2013年7月1日に 株式会社みずほ銀行を吸収合併し、行名を 株式会社みずほ銀行に変更している。このため、2013年7月以降の新・みずほ銀行の直接の前身行はこの 富士銀行 となった。●(新)安田銀行に時代に店舗が存在した地域■富士銀行になってから撤退した地域(#統合直前のノーマークの県を除く)○大正期に初出店した地域□富士銀行になってから出店した地域を参照。

出典:wikipedia

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