越前松平家(えちぜんまつだいらけ)は、越前国を発祥とする徳川氏の支流で、御家門のひとつ。単に越前家ともいう。越前松平家または越前家という呼称は、徳川家康の次男秀康を家祖とする一門全体を指す場合と、その領地の場所から福井松平家(福井藩)のみを指す場合とがある。幕末の福井藩主と津山藩主は徳川将軍家から養子を迎えたため、御家門筆頭とほぼ同等の扱いを受けた。家祖の秀康は、長兄信康自刃ののちは家康の庶長子であったが、はじめ豊臣秀吉の養子となって徳川家を離れ、のちに下総結城氏を継いだこともあって、徳川家の家督および将軍職の後継者に選ばれなかった。関ヶ原の戦いののち越前国北ノ庄(福井)に67万石、またそれまでどおり下総国結城郡も与えられた。これにより秀康の石高は75万石となった。晩年、名乗りを結城から「松平」に戻し(史実として立証されている保科正之と同視された上で、秀康は最期まで結城姓のままであったという説もあり、また「徳川」を名乗ったとする説もある)、これにより越前松平家が成立する。「家康は秀康が重篤と知るや、100万石の朱印状を出したが、秀康死去となり幻のものになった」という俗談も残っている。越前藩は長男の忠直が継いだが、将軍家に反抗的であるなどの理由で、叔父で岳父でもある第2代将軍秀忠によって、元和9年(1623年)に豊後国に配流された。秀康以来の重臣本多富正や、多賀谷村広・土屋昌春・矢野宗喜・雪吹重英らをはじめとする家臣団は、幕命で弟の忠昌が越後国高田から移動した際に継承した。ただし忠直の附家老であった丸岡本多家の本多成重は独立した大名となり将軍家に直属し、弟の直正・直基・直良への分封および越前敦賀郡の没収により、忠昌が入った福井藩は忠直時代から大幅に縮小し50万石となった。以後25万石への減封などを重ねながら幕末へと至る(廃藩時は32万石)。ただし田安家から養子を迎えたため忠昌の血筋は途中で断絶している。一方、忠直の嫡男光長に対しては、忠昌が支配していた越後高田の地に25万石(26万石とも)が与えられた。しかし越後騒動が勃発すると改易となり、光長は配流処分となった。数年後、光長家の継嗣として、支流の直基流松平家より養子として宣富(直基の孫)が迎えられ、宣富に対して美作国津山に10万石が与えられた。以後、将軍家から養子を迎えるなどしつつ、紆余曲折を経ながらも幕末まで続いた。初代の直基は結城晴朝に養育され、父秀康と他の兄弟が松平氏に復縁したため、養祖父から下総結城氏の家督(名跡)を継承した。しかし祖父の死後に松平氏を称した(家紋は結城氏のものを継承)。最終的に前橋藩主として明治時代を迎えたが、江戸時代の間に姫路藩、山形藩、白河藩、川越藩など何度も転封を繰り返しており、第2代当主の直矩のように一代で何度も転封させられた者もいる。なお、歴代当主は大和守を称した者が多い。それらのことから、同家系は結城松平家もしくは松平大和守家と称される。忠直流の津山藩松平家、忠昌流の福井藩松平家のどちらを宗家とするかについては諸説あり、兄弟順に併記する。忠直の嫡男・光長以降の祭祀継承系統が越前松平家宗家であるとの説。忠直の配流と、幕命による弟・忠昌の越前国入国および領土継承・主要家臣団相続によって、忠昌以降の系統が越前松平家宗家になったとされる説。ここまでが「秀康 - 忠直 - 忠昌 - 以降福井藩主家」を正統とする、幕府公式見解についての説明である。また、越前家第2代忠直の子である光長を経て、津山藩立藩に至る行程に関しては以下の通りである。以上のことから、忠直から光長を経て津山藩祖宣富の立藩までの過程に、藩制度上および血統・家の連続性は無い。「越後守」の名乗り継承や祭祀の継承をもって、津山藩の出発点を光長に求める場合は「光長に関連し派生した、越前松平家の新しき一門連枝」となる。
出典:wikipedia
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