マザー・グース () は、英米を中心に親しまれている英語の伝承童謡の総称。イギリス発祥のものが多いが、アメリカ合衆国発祥のものもあり、著名な童謡は特に17世紀の大英帝国の植民地化政策によって世界中に広まっている。600から1000以上の種類があるといわれるマザー・グースは、英米では庶民から貴族まで階級の隔てなく親しまれており、聖書やシェイクスピアと並んで英米人の教養の基礎となっているとも言われている。現代の大衆文化においても、マザー・グースからの引用や言及は頻繁になされている。なお、英語の童謡を指す言葉としてほかにナーサリーライムがあり、イギリスでは童謡の総称としてはマザー・グースよりもこちらが使われる傾向もある。しかし「ナーサリー・ライム」が新作も含む童謡全般を指しうる言葉であるのに対して、「マザー・グース」は伝承化した童謡のみに用いられる点に違いがあると考えられる。後述するように「マザー・グース」が童謡の総称として用いられるようになったのは18世紀後半からであるが、それに対して「ナーサリー・ライム」が童謡の総称に用いられるようになったのは1824年のスコットランドのある雑誌においてであり、「ナーサリー・ライム」のほうが新しい呼称である。英語の童謡は古くから存在したが、それらに対して「マザー・グース」という言い方が定着するようになったのは18世紀からである。この「マザー・グース」(ガチョウ婆さん)という呼称は、もともとは同じ意味のフランス語「マ・メール・ロワ」(Ma Mère l'Oye) の訳語であったと考えられている。1729年、フランスの著作家シャルル・ペローの童話集『』(1697年)がロバート・サンバーによって英訳されイギリスに紹介されたが、この本の口絵では「コント・ド・マ・メール・ロワ」(ガチョウ母さんのお話)という文字が、壁にかかった額のようなものの中に書かれていた(右図)。英訳ではこの部分を「マザー・グースィズ・テイルズ」(Mother Goose's Tales) とした上で本の副題として採用しており、後には本のタイトルにも使われている。これが英語圏における「マザー・グース」という言葉の初出であった。この英訳本は18世紀中に何度も増刷されて広く読まれており(アメリカ合衆国でも1794年に刊行されている)、こうしたことが背景となって英国人に「マザー・グース」という言葉へのなじみができ、伝承童話や童謡と結び付けられるようになっていったものと見られている。1780年には、ロンドンの出版者(ニューベリー賞の由来となった人物)によって『マザー・グースのメロディ』と題する童謡集が出版され、以後同じような童謡集や伝承童謡に対して「マザー・グース」という語を用いる慣行が定着していった。もともとフランスではガチョウは民話や童話に頻出する動物であり、またイギリスでも家畜として重宝されている動物であった。おとなしいために比較的世話が楽であるガチョウは、しばしば家庭の「お婆さん」がその世話を受け持った。また時間を持て余している「お婆さん」はしばしば伝承童話や童謡の担い手でもあり、このことから「ガチョウ」「童話・童謡」「お婆さん」の3つが結びついたものと考えられる。「マザー・グース」(ガチョウ婆さん)は、上述のような童謡や童謡集の伝説上の作者として紹介されることもあり、一部の英和辞典などでは童謡の総称としてよりもこちらの説明を載せているものもある。伝説上の人物としての「マザー・グース」は、アヒル(ガチョウ)の背に乗ってどこへでも自由に飛んでいく老婆(魔女)として描かれている。この鵞鳥にまたがった魔女としてのマザー・グース像は、1806年、ドゥルリー・レインの王立劇場で初演されたトマス・ディプソン脚本によるパントマイム『ハーレクィンとマザー・グース、あるいは黄金のたまご』で初めて描かれ、この劇が成功したことによって定着したものである。一時期、アメリカ合衆国では「マザー・グース」が実在するアメリカ人だという説が広まった。この説によれば、1665年にボストン生まれのエリザベス・グースという人物が、夫アイザック・グースに先立たれたのち、1719年に英語の童謡集『子供たちのためのマザー・グースのメロディ』という本を出版し、ここから「マザー・グース」が伝承童謡の総称として広まったとされる。この説は後述の北原白秋による『まざあ・ぐうす』のはしがきでも事実として触れられている。しかし、ジョン・フリート・エリオットというエリザベス・グースの曾孫に当たる人物により、上述のようなタイトルの書物は存在せず、1860年にボストンの新聞に匿名で投書されたことから広まった作り話だったことが明らかになった。前述のように「マザー・グース」という言葉が童謡集の題名として用いられたのは、ジョン・ニューベリーが1780年に刊行した『マザー・グースのメロディ』であるが、伝承童謡を集めたものとしては1744年5月に『』という書物がロンドンで出ており、これが実在が確認されている最古のマザー・グース集である。この本は第2巻となっており、現物は確認されていないものの、同年3月に出版されたらしい『』の続篇であると考えられている。『トミー・サムの可愛い唄の本』には「6ペンスの唄」「ロンドン橋落ちた」など、今日でもよく知られている童謡が確認できる。いっぽうニューベリー編の『マザー・グースのメロディ』は52篇の童謡を収めており、このうち23篇は(確認できる限りでは)この本が文献初出となっている。ただし、この52篇の中には、ニューベリーと親しかった作家オリヴァー・ゴールドスミスの創作が相当数混じっているのではないかという説もある。19世紀半ばには、文献学者による『イングランドの童謡』(1842年)によって、600あまりのマザー・グースが渉猟された(初版は299)。ハリウェルの集成はより学問的な方法に基づいており、個人の創作らしきものを注意深く排除し、集めた童謡を「歴史的」「文字遊び」「物語」など18の項目(初版では14)へ分類したうえで注釈と解説を施している。この書物は同著者の『イングランドの俗謡と童話』(1849年)とともに、以後100年あまりの間イギリスの伝承童謡の唯一の典拠となっていた。その後、20世紀半ばにによる集成『オックスフォード版 伝承童謡辞典』(1951年)、『オックスフォード版 伝承童謡集』(1955年)および『学童の伝承とことば』(1959年)があらわれ、これらが現代におけるマザー・グース集成の決定版と見なされている。前述のように19世紀のマザー・グース集はすでに600を超える童謡を収録していたが、現代のマザー・グース集の収録作を合わせ重複分を除くとその数は1000を超える。その種類も、「ハンプティ・ダンプティ」のようななぞなぞ唄、「」のような子守唄、「ロンドン橋落ちた」のように実際の遊びに伴って唄われる遊戯唄、「ペーター・パイパー」のような早口唄、「」のような物語性のある唄、「」のように一節ごとに行が増える積み上げ唄、「月曜日に生まれた子供は」のような暗記歌、そのほかお祈りやおまじないの唄など多種多様である。全体的な特徴としては、残酷さのあるものやナンセンスなものが多いということが挙げられる。またマザー・グースは「伝承童謡」と訳されているものの、実際には特定のメロディを持たないものも多く、メロディにのせて唄うためばかりでなく「読むための唄」「読んで聞かせる唄」つまり押韻詩としての側面も強く持っている。マザー・グースに数えられる童謡の多くはイギリス発祥だが、「メリーさんの羊」のようにアメリカ合衆国発祥の著名なマザー・グースもある。伝承であるために作者がわかっていないものも多いが、「きらきら星」や「10人のインディアン」のように、作者のはっきりしている新作童謡がのちに伝承化しマザー・グースに加えられるケースもある。人物としてのマザー・グースを主題とした唄である「」などは、もともとは1815年ごろに出版されたチャップ・ブック向けの韻文物語であったものが、マザー・グースそのものが主題であったためによく親しまれて伝承化した例である。また作者不詳の古い唄には、12世紀の羊毛税の導入あるいは15世紀の囲い込みを唄っているのではないかと言われる「 」、イングランドとスコットランドの統一から発生したのではないかと言われる「ライオンとユニコーン」のように、歴史的な出来事に関連して発生したものと推測されているものもある。マザー・グースはイギリスにおいては身分・階層を問わず広く親しまれており、このことを言い表すのに「上は王室から下は乞食まで」という言葉も使われる。王室関係者がマザー・グースに親しんでいることを示す出来事として、ヴィクトリア女王が庶民の子供と「」をめぐってやりとりをしたというエピソードや、チャールズ皇太子が生まれた際、貴族院のメンバーが「」にちなんだ祝いの言葉を述べた、といったエピソードも伝えられている。庶民に親しまれている例としては、「キャット・アンド・フィドル」(「」)のようなマザー・グースから取られた店名を持つパブがイギリス各地に点在していることなどがあげられる。マザー・グースの引用や登場人物、またそれにちなんだ言い回しは、近代から現代にいたる英米の社会において、新聞記事や雑誌、文学作品や漫画、映画などあらゆる分野のなかにひろく見ることができる。文学においてはルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』が物語のなかにマザー・グースを用いたことでよく知られており、特に後者はハンプティ・ダンプティ、トゥイードルダムとトゥイードルディーといったマザー・グースのキャラクターを個性的に描き出している。そのほか『メアリー・ポピンズ』『秘密の花園』『指輪物語』など、児童文学やファンタジーの古典にもマザー・グースの引用例は多い。ミステリの分野では、「10人のインディアン」をモチーフとして連続殺人が行われるアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』、「誰がこまどりを殺したの?」など4つの童謡の詩句に沿って連続殺人が行われるヴァン・ダインの『僧正殺人事件』などをはじめとして、多数の作品での引用例がある。日本における初期の訳業としては、大正時代の北原白秋による『まざあ・ぐうす』が知られているが、白秋以前に画家・詩人の竹久夢二が翻訳を試みたことがある。おそらく添えられているイラストから興味を持ち始めて自分で訳すようになったものと考えられ、1910年(明治43年)の著書『さよなら』に収録した物語のなかに「誰がこまどりを殺したの?」の訳を入れて以降、さまざまなマザー・グースを訳出している。ただし夢二は翻訳であるという断りをいれずに訳して自分の創作詩といっしょにあつかったりしており、翻訳というより翻案に近いようなものもある。なお現在のところ日本で最初のマザー・グースの訳は、1881年(明治14年)に出された自習書『ウヰルソン氏第二リイドル直訳』のなかで「小サキ星ガ輝クヨ」として掲載された「きらきら星」の直訳とされている。北原白秋による訳は、まず児童雑誌『赤い鳥』の1920年1月号に「柱時計」()と「緑の家」が掲載され、続けて同誌にマザー・グースの訳が発表されていった。そして翌1921年(大正10年)末に、日本初のマザー・グース訳詩集『まざあ・ぐうす』としてアルス出版から刊行された。この訳詩集では132篇を収録しており、『赤い鳥』に掲載されたものもより滑らかな口語に直されている。挿絵は恩地孝四郎が担当した。その後は英文学者・詩人の竹友藻風による『英国童謡集』が1929年(昭和4年)に出ている。これは学習者向けの対訳詩集で、87篇の訳を原詩とともに収めたものであるが、とりたてて反響はなかったものと見られる。それから半世紀後の1970年(昭和45年)に、リチャード・スカーリー著、詩人の谷川俊太郎訳による絵本『スカーリーおじさんのマザー・グース』で、洗練された口語による翻訳が刊行された。この絵本では50篇のみの訳出であったが、1975年-76年には177篇の訳を収めた『マザー・グースのうた』全5集が草思社より刊行されている(イラストは堀内誠一)。読みやすい谷川訳による『マザー・グースのうた』の出版には大きな反響があり、これをきっかけに日本におけるマザー・グースブームが起こった。前後してマザー・グースを引用した作品であるアガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』がハヤカワ・ミステリ文庫創刊第1弾として刊行されたこと(1976年4月)や、人気少女漫画『ポーの一族』(萩尾望都、1972年-1976年)でマザー・グースが扱われたことなども、このブームを後押ししたと見られている。
出典:wikipedia
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