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ゴジラ (1954年の映画)

『ゴジラ』は、1954年(昭和29年)11月3日に、東宝が製作・公開した日本映画。観客動員数961万人。モノクロ、97分、スタンダード。巨大怪獣ゴジラが登場するゴジラシリーズ第1作。日本の怪獣映画の元祖である。海底に潜んでいたジュラ紀の怪獣「ゴジラ」が水爆実験で安住の地を追われ、東京に上陸する。監督は本多猪四郎、円谷英二。原作は香山滋。脚本は村田武雄と本多猪四郎。出演は平田昭彦、河内桃子、宝田明ら。怪獣映画、特撮映画、パニック映画、反核映画の傑作として名高い。ある日、太平洋の小笠原諸島近海で貨物船「栄光丸」が原因不明の沈没事故を起こし、救助に向かった貨物船「備後丸」も沈没する。大戸島の漁船が生存者を救助し、大戸島に連れ帰ろうとするが、彼らも消息を絶ってしまう。やがて漁師の山田政治が大戸島に流れ着き、何かに船を沈められたと証言する。数日後、本土から新聞記者の萩原がやってきて、連続難破事件について島民に取材する。事情を聞かれた島の古老は、事件は大戸島の伝説の怪物呉爾羅(ゴジラ)の仕業で、近頃の不漁もゴジラが魚を食い荒しているせいだと話した。ゴジラは海に食物が無くなると陸に上がって人間を食らうので、昔は生贄の若い娘を沖に流してゴジラを鎮めていたという。そしてある暴風雨の夜、低い足音を響かせて「何か」が島に上陸し、家屋を破壊して住民を殺傷する。政治も母のくにと共に命を落とす。この事態に政府も重い腰をあげ、大戸島に調査団を派遣することを決める。調査団には古生物学者の山根恭平博士と娘の恵美子、恵美子の恋人で南海サルベージ所員の尾形秀人らが同行することになる。出発の日、調査船に乗り込んだ恵美子は見送りの人々の中に元婚約者の芹沢大助博士の姿を認める。大戸島に到着した調査団は、破壊された村が放射能を帯びていることや、差し渡し何メートルもある足跡に絶滅したはずのトリロバイト(三葉虫)が残されていることを発見する。生きたトリロバイトを見つけて興奮を隠せない山根だが、そのとき非常の出来事を告げる半鐘が鳴り、巨大生物が尾根の向こうで頭をもたげるのを目の当たりにする。東京へ戻った山根は、巨大生物を大戸島の伝説に因んでゴジラと命名し、トリロバイトと残留放射能などを根拠に「海底洞窟に潜んでいたジュラ紀の生物が、水爆実験で安住の地を追われ、出現したのではないか」とする見解を国会の公聴会で報告する。ゴジラによると思われる船舶の遭難は続き、政府はついにゴジラの討伐を決断する。大戸島西方沖にフリゲート艦隊が派遣され、ゴジラを爆雷で攻撃する。政府の方針に、太古の生物の生き残りを死なせたくない山根は心を痛めるが、いち学者に過ぎない彼にはどうすることもできない。爆雷攻撃を生き延びたゴジラは、その後も近海に出没し、シーレーンを脅かす。日本政府はゴジラ問題を担当する特別災害対策本部に山根を召喚し、ゴジラの生命を断つ方法を尋ねる。だが山根は古生物学者の立場から、水爆の洗礼を受けてなお生命を保つゴジラを殺すことは不可能だとしたうえで、ゴジラを殺す方法よりゴジラの生命力の研究を行うべきだと主張する。一方、萩原は恵美子を訪ね、ゴジラ対策に有効なプランを持つと噂される芹沢との面会を仲介するよう頼み込んだ。かつて芹沢は恵美子と婚約していたのだが、戦争で片目を失うと婚約を破棄し、いらい世捨て人のように自宅地下の研究室にこもっていた。恵美子は萩原を芹沢のもとに連れていくが、芹沢は萩原を追い返すと、恵美子にある実験を見せ、他言を固く禁じる。その夜、ゴジラが東京湾に現れ、防衛隊の銃撃をものともしないで芝浦に上陸する。山根は防衛隊に「ゴジラに光を当ててはいけない」と進言するが受け入れられない。ゴジラは品川運転所を破壊し、足に衝突した列車を踏みつぶし、八ツ山橋を破壊して海に去っていく。ゴジラの猛威に、人々は恐れおののき、逃げ惑うばかりだった。東京湾にひそむゴジラから東京を防衛するため、政府は「5万ボルトの高圧送電線を東京湾沿岸に張り巡らせ、ゴジラを水際で感電死させる」作戦を発動する。送電線が完成して間もなく、ゴジラが現れ、京浜地区に上陸を試みる。防衛隊は送電線の背後に戦車や野砲を展開し、ゴジラを待ち受ける。やがてゴジラは送電線に接触し、感電する。防衛隊も総攻撃を開始し、無数の弾丸をゴジラに命中させる。しかしゴジラは死なず、放射能を帯びた白熱光を吐き出しはじめる。送電線は瞬時に赤熱し、水飴のように融け落ちてしまった。防衛線を突破したゴジラは、銀座松坂屋を燃やし、和光ビルや日本劇場、国会議事堂を叩き壊し、報道陣もろともテレビ塔をなぎ倒すと、勝鬨橋をひっくり返して東京湾に向かう。ようやくジェット戦闘機部隊が到着し、ロケット弾で攻撃するが、効果は見られず、ゴジラは海中へ姿を消す。東京は火の海となり、ゴジラのまき散らした放射能は罪のない児童たちにもおよんだ。恵美子は臨時救護所で被災者たちの救護に当たるが、あまりに凄惨な状況に耐えられなくなり、芹沢に見せられた実験の全てを尾方に明かすことを決意する。それはあらゆる生物を死滅させ、液状化する化学物質「オキシジェン・デストロイヤー」であった。尾形と恵美子は芹沢のもとに向かい、ゴジラを殺すためにオキシジェン・デストロイヤーを使わせてほしいと必死に懇願する。しかし芹沢は、オキシジェン・デストロイヤーは原水爆に匹敵する大量破壊兵器であり、その存在と製造法が知れわたれば、戦争の道具にされないはずがない、と首を縦に振らない。だが尾形と恵美子の熱意や、テレビに映し出された「平和への祈り」に心を動かされ、ついに「今回一回かぎり」の条件でオキシジェン・デストロイヤーの供出と使用を認める。海上保安庁の巡視船「しきね」が東京湾に潜むゴジラを探知する。芹沢は尾形のサポートを受けて海底に降り、ゴジラの足元でオキシジェン・デストロイヤーの装置を作動させる。海水が激しく泡立ち、ゴジラが苦しみ始める。成功を確認した芹沢は命綱と空気管を切断し、彼だけが記憶するオキシジェン・デストロイヤーの秘密を世界から抹消する。やがてゴジラも断末魔の悲鳴を残し、泡になって消える。船上で行方を見守っていた人々が、ゴジラを倒した喜びや芹沢の犠牲の悲しみに騒然となる中、山根が孤独につぶやいた。「あのゴジラが最後の一匹とは思えない。もし水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類がまた世界のどこかへ現れてくるかもしれない……」と。本作のプロデューサー田中友幸は、1953年(昭和28年)に『さらばラバウル』(本多猪四郎監督)を製作した折に、前年に東宝に復帰したばかりの円谷英二と出会い、円谷が手掛けた特撮の成功もあって、「特撮物はいける」と実感していたという。田中は続いて8月に、谷口千吉を監督に、インドネシアとの合作映画『栄光の影に』を企画。ところが、翌年1954年(昭和29年)4月にいよいよ谷口監督、主演の池部良、山口淑子らをそろえたロケ隊の出発という段になって、外交上の諸事情からビザが下りず、泣く泣くこの企画を断念することとなった。「腹の虫が治まらなかった」という田中は急遽代替企画を立てざるを得なくなったが、こうした事情から、発想がどうしてもインドネシア周辺の海洋を舞台にしたものに向かったという。ちょうどその頃、ビキニ環礁での核実験と、第五福竜丸の被爆事件(同年3月)が社会問題となっていた。これに着想を得た田中は、「ビキニ環礁海底に眠る恐竜が、水爆実験の影響で目を覚まし、日本を襲う」という特撮映画の企画を立てた。この時点での企画仮題は、『海底二万哩(マイル)から来た大怪獣』であった。田中がこの企画を東宝本社の企画会議に提出したところ、製作担当の森岩雄の目にとまることとなった。森は戦前から東宝に関わり、円谷を招いた本人であるが、1952年(昭和27年)に公職追放解除を受け、本社に復帰してハリウッド視察を行い、特撮映画の重要性を再認して、戦後解体されていた「特殊技術課」を東宝内に再編成し、円谷を再度招いてこの部門の強化を進めていた。こうして、東宝上層部が「到底撮影は無理」として満場一致で反対するなか、森岩雄ただ1人がこの企画に賛成意見を述べ、強硬に支持し、ついにはGOサインにこぎつけることとなった。この前代未聞の企画に臨み、本企画は「G作品」(Gはジャイアントのイニシャルから)と銘打たれ、極秘裏に進行されることとなった。大まかなストーリーや怪獣の設定が決まると、田中は次に、文芸部の松下忠と2人で、田中自身ファンであった怪奇幻想作家の香山滋の自宅を飛び込みで訪ね、原作執筆を依頼したところ快諾を得た。5月中旬のことだった。こうして香山の筆によって、田中曰く「シナリオ風の原作」が1週間ほどして完成し、これを基に「G作品検討用台本」が印刷された。この時点で、正式に円谷英二が企画に参加することとなった。円谷は1952年(昭和27年)の春に「海から現れた化け物のようなクジラが東京を襲う」、また、1953年(昭和28年)には「インド洋で大蛸が日本の捕鯨船を襲う」という特撮映画のプロットを企画部に提出していた。この円谷の企画の着想は、1945年(昭和20年)の東京大空襲の最中、防空壕に避難していた時に思いついたものであり、家族に対しても、これで戦争の恐ろしさを書いてみたいと語っていた。このいきさつもあり、円谷は怪獣の設定を「大蛸」にすることを主張した。一方、田中は「(当時の)風潮によりマッチする」としてこれを「太古の恐竜」とすることを主張、結果として田中案が採用され、主役の怪物のキャラクターは「太古の恐竜」となった。田中はただちに監督に、前年に2本の特撮作品『太平洋の鷲』と『さらばラバウル』で円谷と組んだ本多猪四郎を抜擢、また、同じく前年に円谷と日本初の立体映画『飛び出した日曜日』を撮った村田武雄をいれ、本多と村田の2人で脚本製作に入ってもらった。田中友幸は、題名が『海底二万哩から来た大怪獣』では長いので、もっと良い題名はないものかと考えあぐねていたところ、佐藤一郎プロデューサーから、当時東宝演劇部にいた"「クジラ」が好物で「ゴリラ」のような容貌"をした網倉志朗(後の東宝演芸部部長)という人物のあだ名が「グジラ」だと聞きつけ、語呂の良いこのあだ名を参考にし、「ゴリラ」と「クジラ」を合わせて「ゴジラ」とした。しかし、この名称もまだ完全決定というわけでなく、「"ゴジラ"では印象が弱いから"ゴジラー"にしては」といった意見もあったという(向山宏談)。村田と本多による「G作品準備稿」が仕上がると、「ピクトリアル・スケッチ」(場面ごとに画にしたイメージ・ボード)が制作された。渡辺美術監督が飯塚定雄ほか、4、5人の学生を指導して描き上げた、全228シーン、306カットに上るこの絵コンテは企画室に張り出され、森製作部長を前に、村田、本多、円谷、田中がシーンごとの説明を行い、検討が重ねられた。浅井正勝によると、ゴジラの吐く「白熱光」や「光る背びれ」は、こうした検討段階で「かっこつけ」で生まれたアイディアだったという。この検討会議が終わると、森岩雄は「成功疑いない」と宣言したという。次に「ゴジラ」のデザインが検討され、『サンケイ新聞』夕刊で『山男ダンさん』を連載中だった漫画家の阿部和助にデザイン画が依頼されたが、この起用は、「関係者による子供たち相手のアンケートの結果による」と当時報じられている。阿部のデザインはキノコ雲のイメージが強すぎたため、参考程度にとどめ、実際のデザインは渡辺明が行った(下項参照)。渡辺、利光貞三による粘土原型が完成したのは6月末のことだった。当初、円谷英二はゴジラの撮影方法について欧米に倣い、人形アニメの技法を検討したが、11月3日の封切り上映日から逆算して工程上無理と判断し、演技者が中に入る形でのぬいぐるみ方式を採った。メインの演技者を務めた中島春雄は円谷に、「人形アニメでやれば7年かかるが、お前が演ってくれれば3月でできる」と口説かれたという。それまでの映画の怪獣というと人形アニメでの表現しかなく、カメラマンの有川貞昌も中島も「ぬいぐるみでやるぞ」と円谷に言われても全くイメージが湧かなかったという。『ゴジラ』は本格的な「ぬいぐるみ怪獣」としても日本初の取り組みだった。制作に当たっては、超大作の扱いで公称7000万円(当時)という大型予算が組まれ、本編面では黒澤組から志村喬を準主演に、成瀬組からカメラの玉井正夫と美術の中古智、照明の石井長四郎を迎え入れる等ベテランを起用。予算面での規模が大きかった為、当時製作部長だった北猛夫を特別に「美術監督」に据えている。 特撮を担当した円谷英二は、本作の為に飯塚定雄、井上泰幸、開米栄三、入江義夫等、各方面から若いスタッフを集めている。この面々は以後、日本特撮界に欠かせない重鎮となっている。これらのスタッフをもとに、本多組の本編A班、円谷組の特撮B班、向山組の合成C班の3班体制が採られた。ラストの海中撮影のため、「日本で最も海の水の透明度の高い処」が調査され、伊勢志摩の五ヶ所湾がロケ場所に選ばれ、同時に「大戸島」のロケ地にも決定。8月2日には鳥羽ロケの先発ロケハン隊が出発。ゴジラの造形などに手間取り、特撮B班の準備が遅れたため、本多組本編A班が円谷組特撮B班より先に、8月7日に撮入。「大戸島」に設定した伊勢志摩の「石鏡町(いじかちょう)」(後述の「エピソード」を参照)ほかで1週間ロケを行い、都合51日かけ、9月下旬にクランク・アップした。円谷組の特撮B班の撮入は少し遅れ、8月下旬からとなり、10月下旬まで71日間、都合3カ月かけての撮影となっている。円谷監督は若いスタッフを率い、徹夜作業を重ね凝りに凝って撮影に当たった。「朝9時にセットに入り、準備を経て17時ごろから撮入、朝の4、5時に撮影を終わる」という連日の強行スケジュールで、スタッフからは「ゴジラは5時らにならないと終わらない」と言われていた。ミニチュア設営に時間がかかるため、大道具係から照明係にいたるまで、総動員してもこのような進行にならざるを得なかったのである。公開時の「東宝スタジオ・メール」には、「だんだん調子が出てきてこれならと思っているうちにクランク・アップした。特殊撮影では、最高を誇るアメリカ映画界に負けない自負を持っている。自慢したいようなしたくないような妙な気持ちです」とコメントしている。10月25日、作品が完成。撮影所内では完成を祝い、興行成功を祈って、本尊にゴジラの撮影用の「2号」ぬいぐるみをまつって神式の「ゴジラ祭」(修祓〈しゅばつ〉式)が開かれた。宮司役に平田昭彦、巫女役には河内桃子が扮して、田中、本多、円谷らスタッフ陣、香山滋が祈祷を捧げている。この式典の後、東宝の上層部、スタッフを集めて撮影所内で行われた完成試写では、その本編・特撮のでき栄えのあまりのよさに場内総立ちとなり、巻き起こった万歳斉唱と大拍手はいつまでも鳴り止まなかったという。そんな中、原作者の香山滋は、ラストシーンでゴジラが「オキシジェン・デストロイヤー」によって溶けて死ぬシーンを哀れに思い、1人座ったまま感極まって泣いていたという。マスコミ向けの関係者試写は続いて浅草宝塚劇場でも行われたが、この際も香山は目を潤ませていたほどで、円谷によると、香山は作品のできに感激し、公開後にはスタッフ一同を招いて熱海で一泊の宴席を開いてくれたという。こうして完成した本作は、封切りと同時に、当時としても例を見ない観客動員数を記録して空前の大ヒット。東宝の同年度の初日動員観客数の記録を塗り替えた。渋谷東宝に並ぶ観客の列は道玄坂まで伸び、待ち時間は2時間に達した。封切り初日は都内だけで14万 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15万人の動員があったという。あまりの大入りに、田中友幸自ら渋谷東宝や日劇でチケットもぎを手伝うこととなった。1番館での封切り動員だけで観客動員数は961万人に上り、国民のほぼ10人に1人はこの映画を見たことになる。『ゴジラ』の成功は、当時がたついていた東宝の屋台骨を一気に立て直したとも言われている。東宝の重役陣もこの大成功に喜び、撮影スタッフらが重役室に招かれ、各館の興行レコードが次々報告される中、藤本真澄ら本社重役がビールや洋酒をふるまうという異例の待遇でこれをねぎらっている。東宝では封切り劇場内で多数の児童にアンケートが採られ、ゴジラに同情する意見が多く寄せられた。また、観客からも「なぜゴジラを殺したんだ?」「ゴジラがかわいそうだ」という抗議の声があったという。宝田明も「ゴジラにシンパシーを感じた」「何故人間が罪のない動物を殺さなければならないのか、無性に涙が出るのを禁じえなかった」、脚本担当の村田も「ゴジラがかわいそうですよ」と語っており、スタッフ内にも同情の意見は多い。一方、公開時の日本のジャーナリズムの評価は概ね低く、「ゲテモノ映画」「キワモノ映画」と酷評する向きも多かった。各新聞の論評でも、特撮面では絶賛されているものの、「人間ドラマの部分が余計」として、本多の意図したものを汲んだ批評はみられなかったが、田中によればこのなか、三島由紀夫のみが「原爆の恐怖がよく出ており、着想も素晴らしく面白い映画だ」「文明批判の力を持った映画だ」として当時、ドラマ部分を含めて本作を絶賛してくれたという。著名人としてはのちに小津安二郎、手塚治虫、淀川長治、水木しげるらが本作を絶賛している。この作品は海外でも大評判となり、すでに特撮技術者として並ぶ者のなかった円谷英二の名が、広く海外にまで知れ渡ることとなった。田中や本多は、「まず欧州で認められ、アメリカで大ヒットしたことで、日本国内の評価が定まったようだ」としている。この大作『ゴジラ』の公開に当たっては、東宝の営業・宣伝部の斉藤忠夫、内田和也らによって、現在でいうメディアミックス形式での派手な前宣伝が行われた。まず、長期宣伝の手始めとして、まだ撮影にも入っていない公開から4か月先立つ7月5日に、朝刊各新聞紙において『ゴジラ』の題名とともに製作の発表を行っている。続いて、7月17日よりニッポン放送でラジオドラマを開始(下項参照)。公開間際には、雑誌、週刊誌、新聞、電車の車内吊りなど、あらゆる宣伝媒体を用いて入念な宣伝が行われた。また、公開前後には、ゴジラの人形を乗せた宣伝トラックが都内を周遊し、さらにこれをあおった。ゴジラの宣伝用ビニール人形も東宝で用意されたほか、ゴジラの原デザインを担当した阿部和助による漫画も発行され、劇場で配られた(下項参照)。少年雑誌とのタイアップ特集記事では、撮影に使用したゴジラのぬいぐるみの「水葬イベント」が行われた。結果として『ゴジラ』は東宝の興行史に残る一大宣伝作となった。工藤明宣伝部部長(当時)は公開翌年に、1954年度の宣伝成功作として、『七人の侍』『生きる』『蝶々夫人』を挙げたうえで、この『ゴジラ』をこれらを上回る「空前の大ヒット作」と振り返っている。本作では作曲家伊福部昭による劇中音楽も評価が高く、特にメインテーマは後の「平成ゴジラシリーズ」にも受け継がれている。伊福部は、田中が製作した『銀嶺の果て』(谷口千吉監督、1947年)が映画音楽デビューで、掛下慶吉の推薦もあり、同じ田中に見込まれての依頼だった。担当が決まり、本作の製作発表で会見を受けた後、伊福部に対して、「ゲテモノ映画の音楽なんかやってると、仕事がとれなくなるよ」と、大真面目で忠告してくる人もいたという。しかし、伊福部は「とんでもない、と大乗り気でやりました」と語っている。これには伊福部自身が水爆実験の結果誕生したゴジラという怪獣に対し、戦後の混乱期に放射線障害を負っていた自分自身と共鳴するものがあった、とも言われている。伊福部は本作について、「特撮映画は下手な音楽論が出てこないから大好きだ」「とくに爬虫類が活躍するなんていうと黙っちゃおれないという気がします」とし、「近くの幼稚園から聞こえてくる音楽が虚脱した旋律ばかりで、こんな教育してたら子供はダメになると考えていたところ、ちょうど子供が『ゴジラ』なんかをみる年頃だったので、それじゃあひとつと、かなり真面目にやりました」と述べていて、つねづね「子供に聴かせる音楽に嘘はいけない」としていた伊福部は、この『ゴジラ』では「大きいものが出てくる場合は大きい音で」という正攻法の作曲を心がけたという。こうしたわけで、ゴジラの主音は「大きな音」が出るコントラファゴットやチューバが使われた。コントラファゴットは当時、東京芸大に一つしかなく、前日に借りるなどして楽器集めには苦労したという。また、重低音の楽器が主旋律となるため、「連日の吹奏で演奏者は脳震盪すれすれだった」と語っている。オーケストラはNHK交響楽団による。スクリーンに本編を映写しながらの演奏録音だったため、演奏者が演奏そっちのけで背後の画面に見入ってしまい、自らタクトを振った伊福部は「ひどい目にあいました」と語っている。演奏自体は和気あいあいとした雰囲気で行われたが、演奏メンバーの中には、この作品の「ドシラ、ドシラ…」という音階の「ゴジラのテーマ」に、「ゴジラ、ゴジラ、ゴジラが出てきたぞ」と歌詞をつけて歌う者がいたという。黒柳徹子は、自らが聞き手を務めるトーク番組のスペシャル版である「出張!徹子の部屋パート7 夢トーク豪華3本勝負」(2014年6月26日、テレビ朝日)に『GODZILLA ゴジラ』の番宣を兼ねてゲスト出演した渡辺謙に、NHK交響楽団のコンサートマスターだった父(黒柳守綱)」について「最初のゴジラには私の父のバイオリンが入ってるんです」と明かし、渡辺が「1954年ですよ!」と感心して話すと、黒柳は「ええ。ジャジャジャンというあの音楽を聴くと父を思い出すんです」と語った。伊福部は1949年(昭和24年)に、出張先の京都での月形龍之介との酒席が、円谷英二(公職追放中で困窮していた)との初対面だったが、月形が知り合い同士と思って紹介しなかったため、互いに名も知らないまま、しばらくは会うたびにただ酒をおごらされる付き合いとなっていた。その5年後、本作の制作発表の壇上で再会し、初めて互いの素性を知って驚いたという。こうしたいきさつで円谷とは「気兼ねなく仕事ができた」といい、本作では例外的に編集前の特撮フィルムを見せてもらい、作曲イメージを構築したという。ただ、この作品での円谷はかなり秘密主義だったため、白抜けのフィルムだけを見せられることもあり、これには閉口したという。伊福部の作曲は劇伴だけでなく、「オキシジェン・デストロイヤー」の実験時の効果音的旋律などにもおよんでいる。ゴジラの鳴き声は伊福部の発案で、外したコントラバスの弦を松ヤニをつけた皮手袋でしごいて起こした音を、音響技師の三縄一郎が加工して使用している。この「ゴジラの声」は、以後の作品でもさらに加工して連綿と使用されている。タイトルバックから鳴り響く「足音」は、録音技師の利根川孝太郎が自作していた音響増幅用の箱を、試しに叩いてみたところちょうどいい音がしたので、伊福部が採り入れ、劇伴録音の演奏場に持ち込んで、三縄一郎、下永尚とで使った。田中友幸は、この企画のテーマを、「水爆に対する恐怖」とした。脚本を担当した村田はラストの山根博士の台詞に、「原水爆反対の悲願を込めた」と語っている。本多は、本作公開時の東宝宣伝部の発行紙に、「(この映画で)私の狙う真実は、水爆下の恐怖に喘ぐ現代人の心理的デフォルマシオンである」とコメントしており、また、のちに本作について「私自身も思いもよらぬ影響を与えた作品であり、良いにつけ悪いにつけ、『ゴジラ』は私の人生を大きく決定づけた」と述べている。本多猪四郎は制作に当たり、田中、円谷と3人で「撮影に当たり我々自身、決して荒唐無稽の怪獣映画との照れの気持ちを絶対に持たないこと。原爆の驚怖(原文ママ)に対する憎しみと驚きの目で造っていこう、現に目の前に原水爆実験で蘇生した、とてつもない怪獣が日本へ、東京へ現れたらどうするか、その現実感の狙いを忘れないで撮影しようと固く申し合わせた」と著している。実際の演技指導に当たっても、その方針の通り、円谷と入念に打ち合わせを行い、ゴジラを前にした演技者たちの目線の統一を徹底し、画面にリアリズムを持たせている。公開時のマスコミの論調では、「生き物が火を吐くわけがない」として『ゴジラ』をゲテモノ扱いする向きもあったが、本多は「放射能は炎でないことは分かっている。映画的な嘘である」としている。本多はまた、「一番の被害者はいつも民衆である。この映画の原イメージは、自らの戦争体験である」と述べている。こうして本多は一貫して「真正面から戦争、核兵器の怖ろしさ、愚かさを訴える」というドキュメントタッチの演出姿勢を貫き、当作品に単に時勢に乗って作られた怪獣映画に終わらせない普遍性を持たせていて、第五福竜丸の被曝事件のみならず、菅井きん演じる女性議員や戦災遺族・孤児、疎開、本作の2年前に警察予備隊から再編成された自衛隊の登場など、随所に当時の時代背景を象徴するファクトを織り込んでいる。当時の政界では造船疑獄、犬養健法務大臣の指揮権発動などもあり、吉田茂内閣や政治への不信感が国民の間に高まっていた時期であった。そのような時代背景か、助監督として参加した梶田興治によると、ゴジラが国会議事堂を破壊したシーンでは観客が立ち上がって拍手をしたという。当時、東宝には戦後間もなく解体されて以来、「特殊技術課」はまだ正式に再発足しておらず、「特殊美術」のセクションもなかった。美術監督の渡辺明ら美術スタッフは、本編美術の部屋を借りて作業していた。井上泰幸は新東宝から本作のために7月から参加したが、本作完成後、説得されて東宝のスタッフとなった。撮影初日にゴジラのぬいぐるみが重さに負けてひっくり返り、セットを踏み抜いたために、初日から美術スタッフは徹夜となった。劇中のゴジラの身長が、円谷の「和光ビルの時計台を壊そう」という意見から、「ビル街の上から頭が覗く」とされ、「50メートル」と設定されたため、これに合わせて、ミニチュアはすべて25分の1スケールに統一された。東京の市街地の精巧なミニチュア群が作られたが、銀座のミニチュア制作では、当該ビルから図面の提供を受けられないことも多かったため、円谷は渡辺、入江義夫、牧野金太郎、井上泰幸ら美術スタッフとともにロケハンを行い、歩測して寸法を割り出し、井上と入江が図面を引いた。銀座のビルの上でのロケハンでは、円谷が「あそこのビルを燃やそうか」などと打ち合わせをしていて警察官から不審尋問を受けている。この銀座の町並みのミニチュアは、実景写真と見比べながら寸分違わないよう制作され、1カ月ほどかかった。美術スタッフには、当時美大生だった成田亨もアルバイト参加し、ミニチュアのビルの製作などを担当しているが、当初、彼ら美大のアルバイトや、出入りの石膏屋が図面を見ずに作るため、ミニチュアの縮尺がばらばらになってしまった。美術監督の渡辺はこれに怒って、図面通りに全部やり直させている。市街地のミニチュアがほぼ完成した頃に、円谷監督は「もうすこし生活感がほしい」と要望。カメラマンの有川の発案で、糸ヒューズを使って、都電や電信柱の電線を張り巡らせることとなった。すでにスタッフは手一杯だったので、有川ら撮影班が作業に駆り出されたが、撮影に入ると照明の熱でヒューズ線が伸びてしまい、張り替えの連続だったという。こうして本作用に作られたミニチュアの総数は、当時の映画技術誌での発表によると、「建物500軒」「戦車10台」「大砲10門」「飛行機50機」「テレビ塔・高圧送電塔10基」「船舶20隻」「自動車18台」と膨大なものだった。本作の制作時にはまだ東宝に特撮専用のステージは無く、不十分な広さを補うため、町並みのセットにはパースをつけて、手前から奥へ向かって徐々に低く造られた。「松坂屋」のセットも同様である。国会議事堂の破壊シーンでは、実際の議事堂がゴジラと同じ高さ(50メートル)なので、ゴジラの巨大さを表現するため、33分の1に縮小したミニチュアが作られた。ゴジラの壊す日本劇場のミニチュアには、スタッフのお遊びで、『美女とゴジラ』と題した映画看板がかけられている。銀座和光ビルの時計塔は、本番でうまく壊れてくれず、作り直して再度撮影を行っている。ゴジラの吐く「白熱光」で、溶け落ちる高圧鉄塔は、井上泰幸らは「円谷監督の指示で、蝋を用いて作った」としているが、有川貞昌は「使ったのは鉛で、蝋や飴で作ったとか、なんでそんな話になってるのかわからない」とコメントしていて 、美術スタッフと撮影スタッフとで証言が食い違っている。なお、監督の本多は「蝋と鉛を混ぜて作った」と語っている。ゴジラの足跡で発見されたトリロバイトは、美術スタッフによってゴム製の5寸サイズのミニチュアが用意された。品川駅付近でゴジラの足に衝突してきた国鉄EF58形電気機関車の模型は交通博物館から借りたものである。東京湾でゴジラを追撃する戦闘機は、F-86F セイバー。2尺サイズの木製ミニチュアが数機作られている。戦車隊は、M4中戦車およびM24軽戦車の2尺サイズの模型が使われた。円谷が「モーター類では一番強い」として買いそろえておいたジューサーミキサーのモーターを内蔵しており、人間を乗せて走れるほどしっかりしたものが作られた。方向転換などはできず、ピアノ線で引っ張ってこれを行った。発砲カットは、実際の火薬発火にマズルフラッシュと照り返しを作画合成し、白抜けのフィルムを挟むことで強調する演出が採られている。作品中に登場する「大戸島」のロケ地は、三重県鳥羽市を本拠とし、鳥羽奥の相河町(おおかちょう)と、石鏡町(いじかちょう)という漁村で撮影された。ゴジラの出現シーン、フリゲート艦隊による爆雷投下、終盤の潜水シーンがこの石鏡町で行われた。設定上は「島」だが、石鏡町は実際には島ではない。ただし、助監督として参加した梶田興治によると、撮影当時の石鏡町周辺は幹線道路が貧弱であったため、鳥羽市から船を使用し、2時間もの時間を要して機材を運ぶような「陸の孤島」であったという。この石鏡町の撮影では、「ゴジラが出たぞ」と半鐘が鳴り、住民が逃げるシーンで、地元住民約300人がエキストラとして参加している。合成シーンが多いので、この鳥羽のロケには円谷も立ち会っている。本多によると、ゴジラが出現して島民が逃げるシーンの撮影で、当時映画の撮影など見たこともないエキストラの石鏡町民たちに、「ゴジラは(今、目の前のここに)いないのに、どうやってそんなものを撮るんだ?」と口々に聞かれて説明するのに苦労したそうである。また、地元民たちはどうしても理解できなかったようで、「あそこにゴジラがいます」などと説明するたびに彼らが笑うのにも閉口したと述懐している。伊勢志摩は、『伊勢志摩』(1949年、東宝教育映画)や『青い真珠』(1951年、東宝)で本多にはなじみのロケ地だった。この本多班の撮影中、同じ鳥羽の「神島」では、『栄光の影に』が中止となった谷口千吉が『潮騒』を撮影していた。大戸島の神社での神楽のシーンは、鳥羽の賀多神社での神楽をそのまま撮影した。天狗の面や踊りの奉納などもすべて現地のもので、伊福部の作曲した神楽のみが架空のものである。大戸島の民家の破壊跡は、世田谷大蔵のオープンセットで撮られた。山根博士らの調査団を取り巻く村人は、東宝の大部屋俳優50余名の出演による。ゴジラの劇中初登場は山から顔を出すシーンだとされることが多いが、実際には嵐の夜の大戸島襲撃シーンに足が写っている。主要襲撃地点は小笠原諸島の大戸島(架空の島)、東京特別区。2度目の東京にしたときのルートは、芝浦岸壁 - 札の辻 - 田町駅前 - 新橋 - 銀座尾張町 - 銀座4丁目(松坂屋) - 数寄屋橋 - 国会議事堂 - 平河町 - 上野 - 浅草 - 隅田川 - 勝鬨橋 - 東京湾(ただし、上野から浅草を経て隅田川まで達する場面は劇中には無く、テレビの実況アナウンサーの台詞で処理されている)。ゴジラが劇中で銀座和光ビルの時計塔を壊すシーンがあるが、梶田興治によると、和光本社はこれに激怒し、以後2年間ほどは東宝の一切のロケ使用を許可しなかったそうである。梶田によると映画を観た後、本当に銀座和光ビルが壊されたかどうか、確かめに来る人たちがいたという。また、ゴジラの白熱光で炎上する松坂屋の社長は、「縁起でもない」と怒り狂ったという。「キングコング対ゴジラ」のオーディオ・コメンタリーによればこの件でしばらく銀座出入り禁止になったらしい。大戸島の台風のシーンでは、本作のために作られた、トラックのエンジンにセスナのプロペラをつけた特製の大型扇風機が使われている。合成シーンで使われたオプチカル・プリンターは、円谷が戦前に自作した手動式のものだった。合成技師の向山宏によると、「旧式だが使いやすかった」という。ゴジラが初めて出現するシーンなどの合成は、カメラレンズに黒紙のマスクを張って現場でマスク処理する「生合成」だった。白黒映画で鮮明な画面となる「生合成」は、非常に熟練を必要とする、ベテランの向山ならではの技法であり、向山は一度フィルムが引っ掛かって失敗した以外、すべて成功させて見事な合成画面を実現させている。自衛隊、海上保安庁に対しては、担当各庁に脚本閲覧の元に全面協力を得たが、自衛隊が映画に協力したのは本作が初めてのことである。鳥羽ロケでは海上保安庁の「こうづ」「こたか」「愛知丸」の巡視船が撮影に協力している。この五ヶ所湾でのロケでは、海中撮影のために本職のサルベージ会社が協力したが、このサルベージ会社の係員がうっかり送気ポンプの操作を誤り、水中撮影中の逢沢譲カメラマンが窒息しかけるアクシデントがあった。この真夏の海上ロケで、巡視船の上で上半身裸で撮影に臨んでいた本多は、日焼けしすぎて背中に水ぶくれができてしまった。劇中、テレビ塔でゴジラの実況中継をするアナウンサー役の橘正晃は、汗に濡れた顔の表現をするために自らの発案でオリーブ・オイルを顔に塗り、目の前で火をたいて演技している。クライマックスで芹沢らが着る潜水服は、オレンジ色だった。真夏の8月の炎天下での撮影であり、芹沢博士、尾形役の平田・宝田両人は船上での演技のみであったため「まるで溶鉱炉の中にいるようでした」とコメントしている。宣伝部、営業部によって、製菓会社「森永製菓」、オートバイ会社「キャブトン」、電機会社「ユタカ電機製作所」、音響機器会社「オンキヨー」とのタイアップが行われた。社名や製品を作品内に登場させる見返りに、前売り券をさばいてもらった。ゴジラの死が明確に描写された作品は、本作と『ゴジラvsデストロイア』(1995年)の2作品のみである。また、人類自身の手でゴジラを葬り去ったのは本作だけである。ゴジラを倒す芹沢博士役の平田昭彦は『大怪獣バラン』ではバランを特殊火薬で倒した藤村博士、『ウルトラマン』ではウルトラマンでも倒せなかったゼットンを無重力爆弾で倒した岩本博士役と本作以降も怪獣を兵器で一撃で倒す役柄を演じている。のちに大橋史典はオリジナル怪獣『アゴン』を作った際、東宝から「ゴジラの盗作である」として訴えられた。しかし、本作の造形に携わっていたということで、これは取り下げられたそうである。本作は『原子怪獣現わる』(1953年)から強い影響を受けている。例えば、本作の制作段階の仮題『海底二万哩から来た大怪獣』は『原子怪獣現わる』の原題『The Beast from 20,000 Fathoms』と酷似している。また、「核実験で目覚めた怪獣(恐竜)が都市を襲撃するが、架空の兵器で倒される」大筋もよく似ている。この作品は、アメリカのハリウッド資本に買い取られ、主演をレイモンド・バーとして監督のもと追加撮影が行われ、再編集されたのちに日本映画で初めてメジャー系の配給網に乗せられ、1956年に『』(『怪獣王ゴジラ』)との題名で全米公開された。封切り後には4日間で1万7千ドル(当時)を稼ぎ出し、最終的に50万ドル(当時)を上回る興行成績となった。海外版では、アメリカの新聞記者スティーブ・マーティンがカイロへ行く際に立ち寄った東京でゴジラに遭遇し、その体験を回想して語る形式になっている。光学合成で焼きこまれた、ゴジラの光る背びれや口から吐く白熱光によって高圧送電線の鉄塔が溶け落ちるシーンは、海外でも大評判となった。本多によると、とくにこの白熱光を見たアメリカのバイヤーは「素晴らしいリアリズムだ」と絶賛し、すぐさま売買契約を申し込んできたという。海外版『ゴジラ』は全米のみならず世界50か国で上映されて人気を呼び、400億円もの外貨を得ると共に、怪獣「ゴジラ」の名を世界に轟かせた。スティーヴン・スピルバーグも少年時代に本作を観て「どうして怪獣をあんなに滑らかに動かせるんだろう」と衝撃を受けたという。ただし、当時の時代背景に配慮したためか、「政治的な意味合い、反米、反核のメッセージ」は丸ごとカットされている。当時の日本映画の海外契約は、すべてフィルムの買い取り形式であり、フィルムの編集権は売却先の興行側にあった。本多監督は「そういう契約だったから」とコメントしているものの、本来こういった監督の了解を得ない形での再編集は本意でないことも断っている。アメリカで正式な完全版の『ゴジラ』が上映されたのは2005年になってようやくのことであり、今更ながらそのテーマ性と完成度の高さが同地で絶賛されている。劇中の登場人物がゴジラの大きさを「身長400フィート以上」「建物30階ほどの高さ」というシーンがあり、オリジナル版の倍の大きさのように演出されている。日本では、1957年に日本語字幕をつけて画面の上下をカットしたシネスコサイズ(東宝スコープ)で公開され、エンドクレジットも海外版と違うものに差し替えられた。このバージョンは長い間、所在不明とされていたが、後年にようやくフィルムが発見され、2014年11月24日に日本映画専門チャンネルで初放送された。2016年7月12日に創刊された『ゴジラ全映画DVDコレクターズBOX』(講談社)の2017年1月24日発売号で初めて一般販売される。前回のデアゴスティーニの『東宝特撮DVDマガジン』ではオミットされていた。作中で歌われる「平和への祈り」の撮影は、当時女子高だった桐朋学園(現:桐朋学園大学)が全面協力し、大講堂に在校生2,000余名が集められての斉唱が行われた。生徒たちには鉛筆などの記念品が贈られたという。初公開以降、劇場以外で本作が上映されたのは1967年(昭和42年)、NHK総合でのテレビ放映が初だった。東宝公式の再上映としては1979年(昭和54年)に全国4劇場で行われた特集興行『ゴジラ映画大全集』で、8月2日に初日上映された。また、2014年(平成26年)6月7日(一部劇場では21日)からは、「初回上映状態の再現」を目標に4Kスキャンなどを用いて7か月間におよぶ修復作業を新たに施した『ゴジラ 60周年記念デジタルリマスター版』が、全国の劇場にて順次公開された。上述の通り、香山滋によって執筆された「G作品検討用台本」は、小説版としても出版されている。香山によるこの「小説版」は、あまり売れ行きは芳しくなかったという。香山は「印税代わりに本をどっさり貰った」と述懐している。すべて香山の筆による。『怪獣ゴジラ』(1954年7月17日 - 9月25日、全11回、ニッポン放送ラジオ)『仇討珍剣法』

出典:wikipedia

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