井口 資仁(いぐち ただひと、1974年12月4日 - )は、千葉ロッテマリーンズに所属する、日本のプロ野球選手(内野手)。本名は「井口 忠仁」(読み同じ)。2016年シーズンから日本プロ野球(以下:NPB)における最年長の野手(投手以外)となった。1974年12月4日、東京都田無市(現:東京都西東京市)で生まれる。童話作家の寺村輝夫の次男が、友達や近所の大人を集めて、少年野球チームの「ビクトリー」を作ったが、これに寺村や長男も参加し、寺村が監督になる。その後、「ビクトリー」に入って来たのが小学校の4年の時の井口であり、寺村は「井口君は俺が育てた。」と言う(参照:寺村輝夫)。小学校の4年の時に捕手として野球を始め、中学校まで捕手を務める。小学校の5年の時に少年野球チームの「保谷リトルクラブ」に移籍する。小学校と中学校では最高学年で主将を務める。中学校の3年の時には全国大会に出場。井口は「守備の際に使用するレガースとプロテクターを着けるのが好きで、両親に買ってもらって喜んでいた一幕もありました。」と言うように当時の思い出を話していた。国学院久我山高等学校で内野手になり、遊撃手としてプレーするようになる。2年の夏に3番・遊撃手として全国大会に出場。2年の秋から3年の夏までは主将を務め、3番・遊撃手としてプレーするが、春と夏の全国大会の出場を逃した。その後、青山学院大学へ進学。高等学校時代に引き続いて、遊撃手としてプレーする。4年の春から4年の秋まで主将を務める。4年の時にはアメリカ合衆国で開催されたアトランタオリンピックで野球日本代表に選ばれ、銀メダル獲得に貢献。この時にキューバ代表のプレーに衝撃を受けたことが後のメジャー挑戦を意識するきっかけになった。また、 同期のチームメイトである澤崎俊和、清水将海、倉野信次などと一緒に全日本大学野球選手権大会の優勝を始め、多くの輝かしい実績を残した。個人としても、1番・遊撃手の「青い核弾頭」として活躍し、東都大学リーグ史上唯一である三冠王や、リーグ記録となる1シーズン8本塁打などを記録。大学通算成績は101試合出場、366打数、103安打、打率.281、24本塁打、61打点、32盗塁。 東都大学通算24本塁打は現在も破られていないリーグ記録である。また、最高殊勲選手2回、ベストナイン4回の受賞の経験がある。プロ野球の各チームの争奪戦の末、福岡ダイエーホークスを逆指名した。1996年のドラフト会議ではダイエーが1位指名で交渉権を獲得し、契約金1億円、出来高払い5000万円、年俸1300万円(金額は推定)で入団し、念願のプロ入りを果たした。背番号は「7」に決まった。青山学院大学のチームメイトでは澤崎が広島東洋カープ1位(逆指名)、清水が千葉ロッテマリーンズ1位(逆指名)でそれぞれ指名され、同一チームから同時に3人のドラフト1位選手が出た。2007年7月27日には右手を骨折したチェイス・アトリーの代役として、マイケル・ダビーとのトレードでフィラデルフィア・フィリーズへ移籍した。2007年12月18日にサンディエゴ・パドレスと1年385万ドルで契約を結んだ。2008年9月5日に前年に所属したフィリーズと契約。その後フィリーズはポストシーズンに進出。井口の入団はポストシーズン出場選手登録期限後のため出場資格はなかったが、同年にフィリーズに所属していた田口壮と一緒に2個目のチャンピオンリングを手にすることになった。ダイエー時代の監督である王貞治によると右方向への長打が特長である。メジャーリーグではクリーンアップへの繋ぎを求められる2番での出場が多かった。ホワイトソックス時代はチームの方針からほぼ毎打席1ストライクを捨てながらも20本近い本塁打を放ち、A.J.ピアジンスキーから「打順が変われば、25本塁打まで打てる力がある。」と言われ、他チームのスカウトマンたちからも「2番ではなく、6番を打たせれば、30本塁打まで打てる力がある。」と長打力が高く評価されていた。ロッテ移籍当初は4番や2番で出場したが、後に3番に定着した。には12チームトップのIsoD.118を記録するなど、ロッテ移籍後は選球眼に磨きがかかり、また、同年は外角打率.313で12本塁打を放つなど、外角に強さを発揮した。スイングが大きいために一塁到達までは4.3秒と平均的だが、ダイエー時代は通算盗塁成功率約78%を記録し、2度の盗塁王を獲得している。メジャーリーグ移籍以降は盗塁数が減少し、ロッテ移籍後は5年間で14盗塁とダイエー時代に比べて走らなくなっている。ダイエー時代は2000年までは遊撃手を務めていたが、2000年秋のキャンプから二塁手のコンバートに取り組んだ。一塁への送球距離が短くなったことで、無理に前進せずにボールを引き付けて捕球するケースが増え、打席でも「前に突っ込まなくなった」という。二塁手としては3度ゴールデングラブ賞に輝いた。守備では深めの位置で守ることが多く、肩の強さは二塁手としてはメジャーでも強肩の部類に入ると評された。ジミー・ロリンズは井口と初めて二遊間を組んだ時について、「あの日は練習時間を間違えて球場入りしてしまったんだ。練習や打ち合わせなしで本番に臨んだ。でも、初回から彼のプレーを見て、『本物だ。それに僕と感覚が似ている。僕と同じで基本の枠を越えてプレー出来る選手だな。』と実感した。素晴らしいね。」と語った。2006年には『ベースボール・アメリカ』誌で監督投票による「最も守備に定評がある内野手」の2位に選ばれるなど、グラブ捌きにも定評があったが、守備範囲は広くなく、MLB通算UZRは-4.3、DRSは-5を記録するなど、各種守備指標で平均を下回り、ロッテ移籍後も得点換算などで平均を大きく下回った。2013年は一塁手として99試合に出場し、規定試合数に到達したが、UZRでは400イニング以上出場した一塁手としてはリーグワースト2位となる-5.2と平均を下回っている。2015年にも一塁手としてリーグワーストのUZRを記録した。西武時代の松坂大輔との対戦では通算で打率.365(85打数、31安打、3本塁打、9打点)を残して得意としていたことから、「松坂キラー」と呼ばれた。ホワイトソックス時代には本拠地のUSセルラー・フィールドで井口が打席に入る時や好プレーをした時になると、ブーイングに似た「GUU-! GUU-!」という唸り声をホームの観客が発した。これは「グーイング(guing)」と呼ばれる井口への応援である。現地では「イグチ(井口)」の「グ」にアクセントが置かれた特徴的な発音で呼ばれることが多く、これに由来する。
出典:wikipedia
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