亀田郡(かめだぐん)は、北海道(渡島国)渡島総合振興局の郡。以下の1町を含む。1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記1町のほか、以下の区域にあたる。平安時代、保延元年(崇徳天皇のころ)に人々は海上安全を願って神社を祀った。古くは観音堂と呼ばれ、これは江戸時代以降の船魂大明神の前身である。室町時代までに道南十二館のうち宇須岸館と志苔館が築かれていた。宇須岸館はその形から箱館とも呼ばれ、函館(箱館)という地名の由来となっている。応仁の乱のちょうど10年前の1457年(康正3年、長禄元年)に起きたコシャマインの蜂起は志濃里(志海苔)で戦端が開かれた。江戸時代の亀田郡は和人地となっており、箱館には北前船も寄港していた。陸上交通は、箱館と津軽郡の松前を結ぶ奥州街道(松前道)や、茅部峠を経て茅部郡の鷲ノ木方面に至る道が通じていた。宝永7年、真宗大谷派函館別院の前身の阿弥陀堂が上磯郡の木古内村より箱館に移転している。亀田郡域は当初松前藩領となっていたが、江戸時代後期の文化4年、亀田郡域を含む渡島国域が天領とされ箱館奉行が置かれた。文政4年いったん松前藩領に復したが、安政2年、亀田郡域は再び天領とされ箱館奉行もおかれている。同4年、幕命により箱館の阿弥陀堂を本願寺箱館御坊浄玄寺として、本願寺の掛所とされた。安政年間には茅部峠よりも距離の短い藤山 - 軍川間の軍川新道や、箱館方面と檜山郡の江差方面を結ぶ鶉山道(大野越)が開削されている。元治元年には箱館奉行所が五稜郭に移転。警固は西部から亀田半島周辺まで松前藩が、東部は南部藩がおこなった。戊辰戦争(箱館戦争)は蝦夷共和国(旧幕府軍)と官軍によって戦われ、亀田郡域では二股口の戦いなどの激戦が繰り広げられた。箱館戦争終結直後の1869年、大宝律令の国郡里制を踏襲して亀田郡が置かれた。
出典:wikipedia
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