Ju 52(独:Ju 52, ユー 52)は、ドイツのユンカース社が開発した航空機である。原型機(Ju 52/1m)は1930年に単発で初飛行したが、1932年にBMWのエンジンを3発にすることによって性能が向上した。一般にJu 52といえばこの3発型Ju 52/3mのほうが知られている。枝番号3mのmは、ドイツ語のエンジンを意味する"Motor"(モトール)の頭文字である。ルフトヴァッフェ(ドイツ空軍)の兵士たちからは、Tante Ju(タンテ・ユー=「ユーおばさん」の意)と呼ばれ親しまれた。機体構造は、ユンカース社が得意とする鋼管骨格にジュラルミンの波形外板(コルゲート)を貼ったものである。これは、重量を増さずに機体の強度を上げる狙いがあったが、速度を増すと空気抵抗が増える弱点も抱えていた。離着陸距離が短いため、小さな飛行場での運用も可能で、一説にはサッカーグラウンドでも離着陸が可能であったといわれる。これは、ことに軍用輸送機として非常に大きな利点であった。欠点としてはエンジンの非力さ、それによる速度の低さが挙げられる。初期のエンジン1基の出力は524hpに過ぎず、後に830hpのエンジンに換えられたが、それでも最大速度は295km/hでしかなかった。この鈍足さに加え、防御火器の貧弱さや制空権の逸失という事情もあって、第二次世界大戦中期以降、多くの機体が連合国軍機により撃墜された。Ju 52の喪失は結果として輸送力の低下を招き、戦線を拡大しすぎたドイツ国防軍にとって大きな痛手となった。また、ユンカース流の鋼管構造とジュラルミン波板による機体構造は、1930年代後半以降、モノコック構造(応力外皮構造)の新型航空機が出現すると、早くも旧式化した。輸送機としての効率面で、たとえば、連合国側のC-47 スカイトレイン(ダグラス DC-3の軍用輸送機形)などに比して劣ることは否めなかった。Ju 52は、第二次世界大戦開戦までの1930年代にかけて、ルフトハンザ社の主力旅客機として多用され、ベルリン-ローマ間を8時間で結ぶなど各路線で活躍した。また、友好国のフィンランドやスペインにも輸出され、各国の航空会社で使用された。輸出型も造られ、プラット・アンド・ホイットニー R-1340 エンジンや、ブリストル ペガサス・エンジンに換装された機体もあった。軍用では、1936年に勃発したスペイン内戦でスペイン側やコンドル軍団が運用した。一部は、銃座や爆弾槽を有する爆撃機として使われ、ゲルニカ爆撃に用いられたのも当機である。第二次大戦ではドイツ空軍の主力輸送機として、電撃戦での空挺降下や戦術輸送に多用されたが、低速で武装が貧弱であるため、多くが撃墜された。Ju 52は、1930年代後半以降は時代遅れの感が強い機体であったが、第二次大戦終了までドイツ軍輸送機の主力であり続けた。これは、この機の高い信頼性や扱いやすさによるものだったが、戦況の悪化により、ドイツがより近代的な輸送機を量産できなかったことも理由である。終戦までに軍民合わせて4,800機あまりが生産された。戦後もフランスやスペインでCASA 352/3Mとして1952年までライセンス生産され、1960年代までヨーロッパの定期航路を飛び続けた。軍用機としてもフランス空軍やスペイン空軍のほか、ユーゴスラビア空軍や南アメリカの各国軍などで運用された。フランス空軍の機体はインドシナ戦争で用いられ、一部はゲル化ガソリンを詰めたドラム缶を投下する簡易爆撃機として用いられた。スイス空軍では1980年代まで使用された。2000年にはスイスのJU-AIR所有の機体(HB-HOS)がIWCの世界一周プロモーションで1月にスイスを出発し、中東・マレーシアを経由して3月に日本に来たが、ロシアの通行許可が出ず、来た逆の経路でスイスに戻った。現在でもまだ数機が残っており、2009年夏にルフトハンザドイツ航空が定期遊覧飛行を復活させた。
出典:wikipedia
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