ブルーインパルス(Blue Impulse)は、航空自衛隊に所属する曲技飛行隊(アクロバット飛行チーム)の愛称である。当初は部隊の中の1チームという位置づけであったが、1995年には正式に1部隊として独立した。制式部隊名は「第4航空団飛行群第11飛行隊」で、広報活動を主な任務とし、展示飛行を専門に行う部隊である。世界の曲技飛行隊の中でも、スモークを使用して空中に描画を行う、いわゆる「描きもの」が得意なチームとして知られている。本項では、大日本帝国海軍が行なっていた曲技飛行(アクロバット飛行)の歴史も含めた上、第11飛行隊の体制についても解説する。また、第11飛行隊では、ブルーインパルスがイベント等で行う飛行のことを「展示飛行」、展示飛行の開催地に向かうことを「展開」と称しているため、以下本項でもそのように記述する。なお、航空交通管制における編隊のコールサインは、愛称がそのまま用いられている。本項では、自衛隊以前での階級については当時の階級で記述する。使用機材の変遷については歴代運用機節を参照。1916年に開隊された横須賀海軍航空隊は、当初の任務は教育や飛行練成が主であったが、飛行隊が各地に開隊される頃からは、戦技研究や航空機の実用試験を主な任務として行うようになっていた。海軍では、一般からの献金によって製造された戦闘機や爆撃機を「報国号」と称していたが、1932年ごろから献納式典の際に、民衆の前で曲技飛行(アクロバット飛行)を行うようになった。これが日本におけるアクロバット飛行の始まりで、当時は「編隊特殊飛行」と称していた。この編隊特殊飛行を考えたのは、当時海軍の戦闘機分隊長だった小林淑人大尉で、小林が率いる編隊特殊飛行チームは「三羽烏」「空中サーカス」と新聞で持てはやされた。一方、1931年に発生した柳条湖事件を機として満州(現在の中国東北部)を制圧した関東軍に当時の日本社会は高揚し、「報国号」の献納数も増えることになった。ちょうど1933年に源田實が戦闘機分隊に配属され、編隊特殊飛行チームを受け継いだ時期と重なったため、曲技飛行の機会も増加し、使用する戦闘機の数も9機にまで増加した。これらの編隊特殊飛行は、専ら九〇式艦上戦闘機を使用して行なわれた。課目には「3機編隊で急降下し、引き起こし中に1機だけ背面飛行となり、そのまま急上昇」というものもあったが、列機はほとんど姿勢を崩さなかったという。こうして、編隊特殊飛行チームは「源田サーカス」という通称が定着していったが、戦争の激化と共に編隊特殊飛行は行なわれなくなった。第二次世界大戦が終結した後しばらくは、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の「301号訓令」によって、日本では航空機の製造や研究などが許されない時期が続いた。これが解除されたのはサンフランシスコ講和条約によって日本の主権が回復した1952年で、同年10月には保安隊が発足し、翌1953年1月からは保安隊航空学校において操縦教育が開始された。さらに、1954年には自衛隊法が成立し、保安隊は自衛隊に改組されることになり、同年7月には航空自衛隊が発足した。1955年にはMSA協定によって、航空自衛隊はアメリカからジェット戦闘機のF-86Fセイバーの供与を受けることになった。これに対応し、パイロットの一部は教官課程に進むためにアメリカに留学することになった。この時に日本のパイロットが留学していたのがアメリカ空軍のネリス空軍基地で、留学生のうちの1人のパイロットは、基地で見たサンダーバーズのアクロバット飛行演技に深く感銘を受けた。また、アクロバット飛行チームのメンバーになることが、戦闘機パイロットにとっては大変な栄誉であることも目の当たりにした。このパイロットは帰国後に浜松基地の第1航空団第1飛行隊の教官として着任したが、当時浜松基地に主任教官として在日アメリカ軍事援助顧問団 (MAAGJ) から赴任していたジョー・ライリー大尉の助言を受け、同僚を誘い、1958年ごろから飛行訓練の合間にアクロバット飛行の訓練を行うようになった。これは極秘裏に行なった訓練であったが、やがて飛行隊長の知るところとなった。この飛行隊長は叱責するどころか訓練の趣旨に共感し、すぐに航空団の上層部にかけあって、正式に訓練できる環境を整えた。その上、1958年秋に行われる浜松基地開庁記念式典のアトラクションとして、アクロバット飛行の公開を行うことが認められた。まもなく3番機が訓練に加わり、3機編隊での本格的な訓練が開始された。この時期の第1飛行隊のコールサインは「チェッカー」で、編隊飛行の際にはこれに編隊名として色名をつけており、アクロバット飛行チームでは「チェッカー・ブルー」というコールサインを使用していた。同年10月19日には、この3名によるチームにより、航空自衛隊によるアクロバット飛行が初めて一般に公開された。使用機材は通常装備のF-86Fであり、スモークも特別塗装もなかったが、ジェット機のアクロバット飛行は映画の中でさえ珍しかった時代においては、航空自衛隊関係者と観客に与えた衝撃はかなりのものだったといわれている。この後に4番機が加わり、翌1959年3月15日には愛知県犬山市で行なわれた日本平和防衛博覧会の開会式、同年3月20日の防衛大学校卒業式、同年4月26日の名古屋空港祭において展示飛行が行われた。ここでチームはいったん解散という形態をとることになるが、アクロバット飛行の訓練は継続された。その後、同年8月にアクロバット飛行チームのリーダーは交代することになったが、リーダーの所属する第2飛行隊のコールサインが「インパルス」であったため、アクロバット飛行チームは「インパルス・ブルー」というコールサインを使用することになった。同年12月にアメリカ空軍のサンダーバーズが来日し、同年12月12日には埼玉県のジョンソン基地(当時)において超音速ジェット戦闘機のF-100Dスーパーセイバーを使用したアクロバット飛行を披露した。この時、航空自衛隊のアクロバット飛行チームもフライトを見学し、パイロットや地上要員のパフォーマンスを観察したほか、整備員はサンダーバーズのメンバーからスモーク発生方法に関する情報を得ることが出来た。この間にアクロバット飛行チームはいったん活動休止状態になったものの、水面下では航空自衛隊アクロバットチーム設立に向けた準備が進められていた。とはいえ、自衛隊内部でも「基地上空での曲技飛行は規則違反」「国家公務員が曲芸ショーなどやる必要はない」という反対意見も根強かった。しかし、1959年7月に航空幕僚長が交代すると、航空幕僚長自身がアクロバットチーム設立に対して直接介入するようになった。この時の航空幕僚長は、戦前に「源田サーカス」と称してアクロバット飛行を披露していた経験がある源田實だったのである。源田は過去の経験から、アクロバット飛行が一般人を引きつけることで、自衛隊が国民に親しまれる効果だけではなく、隊員の士気向上にも効果があることを知っていたと考えられている。また、非公認のままでは、訓練中に事故死しても殉職扱いにならない可能性があるため、源田は「万一の事故でも名誉ある措置が取れるように」と考えたのである。こうして、アクロバット飛行チームの制式化は航空幕僚長である源田の内諾を得られ、パイロットも7名に増員されて訓練が続けられた。1960年3月4日には、浜松北基地で第1航空団司令と空幕防衛部長がアクロバット飛行の仕上がり具合をチェックすることになり、16課目のアクロバット飛行を披露した。まだアクロバット飛行チームは制式化されていなかったが、これがブルーインパルスの第1回目の公式展示飛行とされている。この検閲の結果、第1航空団司令と空幕防衛部長は「合格」という判断を下した。この報告を受けた源田は、同年4月12日の公式展示飛行を視察した上、同年4月16日にアクロバット飛行チームの編成を下命した。この下命を受けて、第2飛行隊内に「空中機動研究班」が制式発足した。空中機動研究班の目的は「戦闘機パイロットには不可欠の要素である操縦技術・チームワーク・信頼心・責任感・克己心を研究訓練し、技術と精神力の限りない練磨と向上」、展示飛行の目的も「チームの力を最大に発揮し、戦闘隊戦力の一端を多くの人に身近に観察する機会を与えるとともに、航空意欲の高揚を図る」と定められていた。なお、空中機動研究班は1個の独立した部隊ではなく、第1航空団の教官から選抜されたパイロットによるチームであり、教官としての職務の傍らでアクロバット飛行訓練と展示飛行を行うという状態であった。また、このときに考えられた課目は、ほぼすべてがサンダーバーズの課目構成に倣ったものであった。同年5月21日にはジョンソン基地において行われた「三軍統合記念日公開」において展示飛行が行われ、このときに初めてスモークが使用されたが、機体にはまだ特別な塗装はされていなかった。同年8月1日には部隊名が「空中機動研究班」から「特別飛行研究班」に変更されたが、これとは別に親しみやすい愛称を設定することになり、自衛隊の部内で公募を行なった結果、浜松基地の近くを流れる天竜川にちなんで「天竜」という愛称が採用されることになった。ところが、航空交通管制のコールサインとして使用すると、アメリカ軍の航空管制官にとっては発音が難しい上、古臭いという意見もあった。これまで使用していた「インパルス・ブルー」を逆にした「ブルーインパルス」(青い衝撃)としたところ、語呂もよく一般にも分かりやすいという理由により、正式な愛称として決定した。こうして、制式化された「ブルーインパルス」は、1960年には13回の公式展示飛行を行った。ところが、公式展示飛行が20回を超えた後の1961年7月21日、次期編隊長機として訓練を行なっていたF-86Fが伊良湖岬沖で墜落しパイロットは殉職、ブルーインパルスでは初の犠牲者となってしまった。このため、ブルーインパルスは約1ヶ月ほど飛行停止となり、事故調査の結果を受けて安全対策が整えられた。この事故を契機として、それまで第1飛行隊と第2飛行隊から選抜されていたパイロットの所属をすべて第2飛行隊とすることによって、パイロットのスケジュール調整を容易にした。この時期まで、ブルーインパルスに使用されている機体はスモーク発生装置を装備していること以外は通常の塗装デザインであったが、編隊飛行でのポジション取りのための目印が少ない上、派手さにも欠けていた。このため、隊員から塗装デザイン案を募集した上で、初代となるブルーインパルス塗装が採用されることになった。これと並行して、カラースモークを発生させる研究も進められ、1961年10月22日の展示飛行で初めて特別塗装機とカラースモークが披露された。1963年9月には、東宝の映画『今日もわれ大空にあり』の撮影に第1航空団とブルーインパルスのパイロットが協力することになった。この撮影期間中に東宝からブルーインパルスの塗装デザイン案の提供の申し入れがあり、プロのデザイナーが新塗装のアイデアを提供した。これが正式に2代目となるブルーインパルス塗装として採用されることになった。この新デザインを施した機体は、1963年10月5日に美保基地で行われた航空祭において披露された。これより少し遡る1963年1月、東京オリンピック組織委員会 (OOC) よりブルーインパルスに対して、1964年10月10日の東京オリンピック(東京五輪)開会式における祝賀飛行の要請があった。ただし、当時航空幕僚長だった源田は1961年から1962年にかけて、自民党議員団や財界人、さらにはアマチュアレスリング協会の会長も浜松基地に呼んで展示飛行を行わせていた。また、東京五輪の準備に際しては防衛庁も「オリンピック準備委員会」を設けており、自衛隊も協力することになっていた。陸上自衛隊は祝砲を放ち、海上自衛隊は五輪旗を掲げて行進を行うことになっていたが、航空自衛隊の協力できる部分がなかった。源田は1962年の参議院選挙に出馬して政界入りしているが、その直前に「開会式の上空に五輪を描く」ことを発案し、航空幕僚長から退官する際に業務引継ぎ事項の中に加えた。さらに、源田は政界入りした後も、オリンピック開催準備委員長でもあった参議院議員の津島壽一に対して、空に五輪を描くことを提案していたのである。こうした事情から、このOOCからの要請は源田の根回しの結果であるといわれている。この結果、当初は単なる航過飛行(フライバイ)の要請であったが、第1航空団の飛行群司令からブルーインパルスに対して「五輪を描け」というオーダーが入ることになった。同年5月23日にはOOCの事務局から数名のスタッフが浜松基地を訪れ、ブルーインパルスのアクロバット飛行を見学した後、スモークで五輪を描く任務が具体化することになった。この準備に際して、まずブルーインパルス側である程度の案を作成し、これをたたき台にしてOOCが開会式典の構成を策定した結果、OOCから航空自衛隊への要望は「五輪マークを15時10分20秒から描き始め、位置は昭和天皇が座るロイヤルボックスの正面で、全景が見えること」という細かいものとなった。それに合わせて高度や円の大きさなどの方針を固めていった。しかし、何度訓練してもなかなか上手く描くことは出来なかったという。また、カラースモークも青・黄・黒・緑・赤の5色で五輪を描くように準備したが、黒の発色がうまくいかず、ようやく完成したのは開会式の10日前であった。開会式の前日は土砂降りの雨で、もし開会式当日の10月10日も雨の場合は開会式は中止されることになっていた。このため、ブルーインパルスのパイロットも明日は雨だと早合点して、酒を多く飲んでしまった。しかし、開会式の当時は快晴で、ブルーインパルスのパイロットは二日酔いのままで本番に臨むことになった。開会式当日、ブルーインパルスは、入間基地の航空管制官から "Any altitude OK."、つまり「どの高度で飛んでもよろしい」という離陸許可を得た。予定通り離陸したブルーインパルスは、神奈川県の上空で航空無線機器でNHKラジオを受信しながら開会式の状況を確認しつつ待機し、聖火ランナーが国立競技場に入場すると同時に江の島上空を通過し国立競技場へ向かった。赤坂見附の上空にたどり着いたブルーインパルスは、直ちにスモークで五輪を描き始め、30秒後には東京の空に五輪が描かれた。展示飛行を終えたブルーインパルスは、銀座の上空を低空で通過したり、上野・池袋・新宿・渋谷・品川の上空をスモークを引きながら「凱旋飛行」し、入間基地に帰投したとされている。これはオリンピック史上でも前例のないアトラクションであり、開会式が全世界に衛星生中継されていたこともあって、ブルーインパルスは日本国民のみならず、世界的にも大々的に知られることになった。当初は訓練空域が今ほど飛行場から遠くはなく、錬度の維持が行いやすかった。そのため演技の精度は高く、さらに規制も緩やかだったために展示飛行での高度が低かった。その高度の低さは、課目「ハイスピード・ローパス」を例にすると高度35フィート(約11メートル)というもので、「草をむしりとった」という逸話さえある。1965年1月に築城基地から第33飛行隊が浜松基地に移転の上第1航空団所属となり、さらに同年11月20日には第2飛行隊が解隊となったため、ブルーインパルスのパイロットは全員が第1飛行隊所属となった。また、チーム制式名も「特別飛行研究班」から「戦技研究班」に変更となった。この年はパイロットのメンバー交代や補充もあり、各ポジションに2名ずつパイロットを配置することが可能となった。同年7月25日には松島基地の航空祭において、ブルーインパルスとしては通算100回目の展示飛行が行われた。しかし、同年11月24日にはアクロバット飛行訓練中に1機が失速して墜落、パイロットが殉職するという、ブルーインパルスでは2度目の事故が発生した。その後も活動は続けられ、1969年9月7日の丘珠航空祭において、通算200回の展示飛行を達成した。この頃になると航空自衛隊の航空祭以外にも、1966年11月6日に入間基地で開催された「第1回航空宇宙ショー」において展示飛行を行うなど、イベントにおいて展示飛行を要請されることが増え、自衛隊のイメージアップという当初の目的は実を結びつつあった。その一方、1967年頃からは浜松基地周辺における宅地化の進展に伴い、騒音問題が発生していたため、訓練空域を海上に移さざるをえなくなった。1969年12月、日本万国博覧会協会からブルーインパルスに対して、日本万国博覧会(大阪万博)の開会式上空における展示飛行の要請があった。当初、展示飛行の内容についてはブルーインパルス側に任されていたが、この当時のブルーインパルスは飛行技術面や組織面でも安定した時期で、実力のあるパイロットも揃っており、自主的な研究によって "EXPO'70" という文字を描くことになった。早速訓練を行ない、万博協会の関係者が浜松基地を訪れた際に訓練中の文字を見せた結果、本格的にプロジェクトとして進められることになった。これは五輪を描くよりも困難であったが、1970年1月12日には浜松基地上空で "EXPO'70" の文字を描くことに成功した。一方、万博の会場からわずか8マイルの地点に大阪国際空港があるため、大阪航空局からは「飛行の承認は出来ない」と通告を受けた。これに対し、万博協会からも陳情を行なった結果、1970年2月中旬には飛行許可を得ることが出来た。開会式当日の1970年3月14日、浜松基地を出発したブルーインパルスは、万博の会場で4課目のアクロバット飛行を行なった後、2分30秒かけて会場上空に "EXPO'70" の文字を描いた。その後、同年6月29日にも同様に文字を描いている。1971年に入ってからも、ブルーインパルスは順調に展示飛行を重ねていたが、同年7月30日に全日空機雫石衝突事故が発生したため、展示飛行を自粛する事態になった。展示飛行が再開されたのは、同年11月3日に名古屋空港(当時)で行なわれた「国際航空宇宙ショー」からである。この事故の影響で、1973年までの展示飛行の回数が減少した。また、この事故を契機として航空路と訓練空域の見直しが行なわれ、アクロバット飛行訓練にも大きな制約が加えられることとなった。このため、ブルーインパルスのメンバー養成に要する期間が2倍になってしまった。1972年11月4日には入間基地を離陸した直後に3番機がエンジンのフレームアウトにより墜落する事故が発生したが、この事故による活動への大きな影響はなかった。ここまでのブルーインパルスの展示飛行は5機体制であったが、1976年9月26日に行われた「第1航空団創立20周年記念式典」においては、6番機を加えた単独機2機による演技が公開された。しかし、実働部隊ではF-86Fどころか、その後継機であったF-104Jにも後継機としてF-4EJが導入されるようになり、高等練習機としてもT-2が導入が開始されていた。先に述べたようにブルーインパルスのパイロットは教官が兼任しているが、この時期のブルーインパルスは1年間に30回以上の展示飛行を行なっていた。これは、F-86Fを使用した飛行教育が減少していたため、その分展示飛行の機会が増えていたということである。こうした事情の中、1978年3月には、航空幕僚長から松島基地の第4航空団に対して、T-2によるアクロバット飛行について研究するように指示が出され、同年からは松島基地でアクロバット飛行を行うT-2が目撃されるようになった。既に航空自衛隊では1980年度中にF-86Fを全て退役処分とする予定が決まっており、F-86Fを使用したブルーインパルスの展示飛行も1980年度で終了することが制式に決定した。なお、1979年1月にF-86Fのパイロット養成が終了したことに伴って第1飛行隊が解隊されたため、ブルーインパルスは第35飛行隊所属の戦技研究班となった。1981年2月8日に入間基地で実施された展示飛行が、F-86Fを使用したブルーインパルスとしては最後の展示飛行になった。F-86Fを使用した展示飛行の実績は545回であった。その後、浜松北基地で3月3日に行われた飛行訓練が最後の訓練となり、同年3月31日限りで第35飛行隊の戦技研究班も解散となった。F-86Fの後継機については、日本で製造した「国産機」によってパフォーマンスを行うことが、自国の防衛力や航空産業のレベルを誇示する上で大きな意義があると考えられた。このため、前述したように後継機としてT-2によるアクロバット飛行について研究の指示が出されていた。T-2は超音速機であることから、飛行速度の高速化に伴いターン(旋回)やループ(宙返り)の半径が大きくなり、会場上空へ戻るのに時間がかかるため、課目の間の時間が長くなる。このため、「T-2では単独機を1機増加させた6機体制での展示飛行が効果的である」という研究報告がまとめられた。これに伴い、1979年にはブルーインパルス用として6機のT-2が予算として計上された。つまり、編隊飛行による演技の間隙を単独機による演技で埋めるという工夫である。1980年10月には次期ブルーインパルスの塗装デザインの一般公募が行なわれ、2,055作品が集まった。1981年1月には、女子高校生4名による合作デザイン案が最優秀賞として採用された。1982年1月12日には松島基地の第4航空団第21飛行隊内に戦技研究班が設置され、同年3月10日までに新造された6機のT-2がすべて引き渡された。機種の変更と同時に、パイロットと地上要員の制服についても新しいデザインとなり、さらに地上でのパフォーマンスも変更された。こうして、F-86Fブルーインパルスの最終展示飛行から約1年半が経過した1982年7月25日、松島基地航空祭において、T-2を使用したブルーインパルスでは初の展示飛行が実施され、同年8月8日に行われた千歳基地の航空祭からは本格的なアクロバット飛行による展示飛行が開始された。ところが、同年11月14日に行われた浜松基地航空祭での展示飛行において「下向き空中開花」という演技を行っていた時、4番機の引き起こしが間に合わず、会場近くの駐車場に墜落するという事故が発生した。これはブルーインパルス史上では初めてとなる展示飛行中の事故であり、墜落機のパイロットは殉職、地上の民間人にも負傷者が出た上、航空祭には報道のカメラも入っていたことから、事故の一部始終を録画した映像が夕方以降のニュースで繰り返し流される事態になった。多くの報道では「危険な曲技飛行」として扱われ、ブルーインパルスは発足以来最大の危機を迎えた。事故原因の究明が行なわれたが、編隊長のブレイクコールは通常より約3秒遅れ、墜落か生還かの分岐点から0.9秒遅れであった。この短い時間を過失に問えるかどうかが問題となった。当初は事故調査に対してどのパイロットも非協力的であったが、静岡地方検察庁の杉本一重が「0.9秒の遅れがどのようなものかが分からないと公訴事案とするかの判断が出来ない」と考え、実際にアクロバット飛行訓練に体験搭乗した後は、一転してブルーインパルスのパイロットは調査に協力的になったという。また、この事故より前に、やはり「下向き空中開花」の訓練中に隊長機のブレイクコールの遅れが発生しており、この教訓からブルーインパルスのパイロットにおいては「リーダー機(編隊長機)の指示が遅れたと判断した場合、そのままリーダー機に追従するように」という申し合わせ事項が作成されていたが、事故機のパイロットはその申し合わせに「編隊長の命令である以上は従う」という理由で拒否しており、申し合わせ事項を明文化した「思想統一事項」が作成された際にも最後まで署名をしなかったという。ところが、事故調査報告書においては、最終的には編隊長のブレイクコールの遅れが原因と結論付けられたものの、「危険を感じたのであればブレイクせずに編隊長についていくべきであった」として、事故機のパイロットの過失をも問うものになった。「思想統一事項」の存在が、事故機のパイロットの責任をも問うことになってしまったのである。その一方、事故機のパイロットは本来の飛行予想ルートからは外れた場所に墜落していたが、本来のルートの延長線上には住宅地や東名高速道路があったことから、事故機のパイロットは「墜落しても被害の少ない場所」を選んでいたのではないかと推測されているが、事故機にはフライトデータレコーダーやボイスレコーダーは搭載されていなかったため、真相は不明である。この事故の後、ブルーインパルスは徹底的に活動を自粛していた。松島基地のある周辺自治体でも「ブルーインパルスは出て行け」という雰囲気で、とても訓練が出来るような状況ではなかった。しかし、航空自衛隊にとっても広報活動の大きな柱を失うわけには行かなかった。実機の飛行とシミュレーターによる徹底的な検証が行われ、安全対策を検討した結果、1983年10月30日の朝霞駐屯地における自衛隊観閲式での展示飛行から活動を再開することになった。しかし、この時点での活動は航過飛行のみで、アクロバット飛行についてはその後も慎重に検討された。最終的に、展示飛行の際の飛行高度引上げ、「下向き空中開花」の課目からの除外などを条件にして、1984年7月29日の松島基地航空祭からアクロバット飛行を含む展示飛行が再開された。展示飛行を再開した1984年には8回、翌1985年には年間18回の展示飛行を行うなど、事故後のブルーインパルスは順調に展示飛行を繰り返していた。1990年4月1日には国際花と緑の博覧会の開会式上空で会場の上空に全長20kmにも及ぶ巨大な花のマークを描き、同年6月3日の岐阜基地航空祭ではT-2ブルーインパルスとしては100回目となる展示飛行を行い、表面的には順調であった。一方、ブルーインパルスは広報活動の一環ではあったが、この頃までは隊員と一般市民が接する機会があまりなかった。これは「パイロットは映画スターでも何でもない」「いい気になっていたら事故を起こす」という考えがあったことによる。しかし、1986年からは市民との交流に前向きな取り組みが開始され、航空祭ではパイロットのサイン会も行なわれるようになった。しかし、こうしてブルーインパルスとしての活動が活発になるにつれて、問題が発生していた。ブルーインパルスのパイロットは教官を兼務しており、これはF-86F時代と変わっていなかった。このため、アクロバット飛行訓練の時間が十分に確保できず、結果的にブルーインパルスへの在籍期間が長くなった。これは実働部隊(TAC部隊)から長期間離脱するということになり、戦闘機パイロットにとっては好ましい状況ではなかった。また、航空祭の時期ともなれば「木曜日か金曜日に展開のため他の基地に移動、土休日に航空祭の展示飛行をこなして松島基地に帰還」というスケジュールとなり、残る月曜から水曜の3日間でアクロバット飛行の訓練ともに教官としての業務もこなさなければならなかった。さらに、T-2ブルーインパルスが活動を開始する少し前の1981年12月17日には、より実戦的な空中戦教育を行うための組織として、築城基地で飛行教導隊が発足していた。このような状況では、「戦技研究班」と称しつつアクロバット飛行専門であるブルーインパルスを希望するパイロットは少なくなっていた。その一方で、1980年代後半には、自衛隊を中途退職して民間航空会社へ転職するパイロットが増え、あまりに退職者が多いためにスクランブル待機の勤務間隔が短くなるなど、実任務にも支障が出る状況になっていた。ブルーインパルスでさえ、1990年3月にはパイロットの半数が転出や退職となり、9ヶ月ほどの間は6機体制での演技が不可能になっていた。こうした問題を背景として、1989年ごろから現在のT-2によるブルーインパルスの後継チームの検討が始まっており、防衛庁の1991年度予算案では「戦技研究班向け」として6機のT-4が含まれていた。しかし、1991年7月4日、金華山沖で訓練をしていた4機のうち2機が墜落するという事故が発生した。原因は海霧の中で編隊長機が空間識失調(バーディゴ)に陥り、編隊が左に傾いたのが原因とされた。しかし、この当時の編隊長は曲技飛行チームの中で孤立した状態にあったこと、また編隊長は1979年10月に第21飛行隊に異動となってから12年もの間異動がなかったこともあり、前述の任期の問題が顕在化した事故とも考えられた。ブルーインパルスは約1年間ほど飛行自粛となり、訓練および運用規定の見直しを行なった上で、1992年8月23日の松島基地航空祭から展示飛行を再開したが、この時点では4機での展示飛行であった。この時期には既にT-4による新しいブルーインパルスの導入は確定しており、同年10月には第4航空団第21飛行隊内に「T-4準備班」が発足していた。このため、航空自衛隊の中でも、ソロ要員の養成が間に合わず、機体の補充も難しいという理由から、6機体制へ戻すことについては消極的であった。しかし、ブルーインパルスの関係者は「T-2によるブルーインパルスの最後は6機で飾りたい」と考え、訓練時には通常仕様のT-2を使用するなどして6機体制での展示飛行を実施することがあった。新規に要員の養成も行われ、1994年には通常通りの展示飛行が再開された。同年8月10日には三沢基地航空祭においてサンダーバーズとの競演も実現した。一方、T-4による新しいブルーインパルスの準備も進められ、T-2によるブルーインパルスは1995年で活動を終了することになった。最後の展示飛行となったのは1995年12月3日に行われた浜松基地航空祭で、T-2ブルーインパルスとしては通算175回目の展示飛行であった。訓練飛行は同年12月8日が最後となり、同年12月22日付で第4航空団第21飛行隊内の戦技研究班は解散した。1989年ごろから進められていた新しいブルーインパルスの準備にあたって、関係者は「展示飛行を専門とする独立した飛行隊」を設けることを考えた。T-2の時代まで、ブルーインパルスのパイロットは教官と兼務する形態で、パイロットの負担が大きくなるが、独立した飛行隊とすることによって、航空祭などのイベントがある週末は忙しくなるものの、週明けには休暇が取得可能となる。また、ブルーインパルスのパイロットになることによって戦闘機パイロットとしての生涯飛行時間を削ることになるという問題についても、任期を3年と約束し、任期終了後はもとの部隊に戻る体制とすることによって、ブルーインパルスの任務に対して士気が保たれる。さらに、教官と兼務ではブルーインパルスのメンバー養成にも支障をきたすことがあり、これを解決するためにも独立した飛行隊にすることが必要と考えられた。展示飛行専門の飛行隊を新規に創設することは容易ではなかったが、折りしも1990年代は災害派遣や国際貢献などで自衛隊が活動する機会が増加しており、自衛隊に対しても国民からの理解が深まっていた時期で、自衛隊は広報活動に対して、より積極的になっていた。こうした背景から、前述の問題点を解決して安全で効率の良い運用を行うため、展示飛行専従の部隊として独立することが認められた。1992年11月6日にはブルーインパルスの塗装デザインの一般公募が行なわれ、2,135作品が集まった。その中から、精神科医で飛行機ファンとしても著名な斎藤章二のデザイン案が採用された。また、展示飛行の課目についてもT-4の性能を生かした内容が検討された。1994年10月1日には松島基地第4航空団に「臨時第11飛行隊」が編成され、翌1995年7月30日には研究飛行と称するアクロバット飛行が松島基地航空祭において一般公開され、T-2のブルーインパルスと競演した。同年11月12日には百里基地で一般公開された航空訓練展示でもT-2のブルーインパルスと競演したが、この時はブルーインパルス塗装のF-86Fも展示されたため、3世代のブルーインパルスが同時に展示されることになった。同年12月22日、第4航空団第21飛行隊内の戦技研究班が解散すると同時に、「臨時」のない第11飛行隊が制式飛行隊として発足した。こうして、1996年4月5日の防衛大学校入学式で航過飛行(フライバイ)による展示飛行、1996年5月5日に岩国基地で開催された「日米親善デー」ではアクロバット飛行による展示飛行を皮切りに、新しいブルーインパルスの活動が開始され、この年度は22回の公式展示飛行が行なわれた。第11飛行隊として発足した翌年の1996年、アメリカ空軍からブルーインパルスへ、アメリカ空軍創設50周年を記念してネバダ州のネリス空軍基地において行なわれる航空ショーである「ゴールデン・エア・タトゥー」 (GOLDEN AIR TATTOO) での展示飛行の招請があった。これに対して検討を行なった結果、1億数千万円を投じて、ブルーインパルス史上初となる国外への展開が決定した。しかし、アメリカでは観客の方向に向かって飛ぶことは禁じられており、高度制限もアメリカの方が厳しいなど、日本とアメリカでは展示飛行の基準が異なっていた。アメリカ連邦航空局 (FAA)の係官が来日し、松島基地でアクロバット飛行の内容をチェックしたが、さまざまな懸案が指摘された。これに伴い、課目についても進行方向を変えたりするなど、部分的な変更を迫られた。ブルーインパルスが運用するT-4には太平洋を横断するだけの飛行能力はなく、輸送船に船積みした上で海上輸送することになり、1997年3月4日からアメリカ本土への移動が開始された。まず陸上自衛隊の木更津駐屯地まで機体と機材を輸送し、そこで輸送船にクレーンで船積みされ、同年3月10日に木更津港を出港した。パイロットが渡米するまでは訓練に使用できる機材がないため、第1航空団と第4航空団の教育集団から通常仕様のT-4をリースして訓練を行なった。機体は同年3月28日にカリフォルニア州サンディエゴのノースアイランド海軍航空基地に到着し、同年3月26日に成田を出発した整備員が受領し、整備が行われた。パイロットは4月5日に松島基地を出発し、4月6日に成田から出発、現地で整備員と合流し、4月10日にネリス空軍基地へ向かった。ネリス空軍基地ではサンダーバーズが使用する空域を使用した訓練が行なわれたが、標高が高いことから気圧が低く、空気密度が低いためエンジンのパワーが落ち、編隊を組むのも容易ではなかったという。また、砂漠での訓練飛行は地上目標物が少なく苦労したという。「ゴールデン・エア・タトゥー」は1997年4月25日・26日に開催され、アメリカ空軍のサンダーバーズのほか、カナダ空軍からはスノーバーズ、ブラジル空軍からはエスカドリラ・ダ・フマサ、チリ空軍からはアルコネス、そして日本からブルーインパルスと、5カ国のアクロバット飛行チームが競演することになった。サンダーバーズのような迫力はなかったものの、正確で緻密なパフォーマンス、日本とは全く異なる環境であるにもかかわらずトラブルのなかったブルーインパルスの整備・支援体制は、参加した軍関係者からも高い評価を得られた。この時に披露された課目のうち、ブルーインパルスのオリジナル課目である「スター&クロス」については、最初のうちは5機がバラバラの方向にスモークを引いているようにしか見えず、ほとんどの観客は意図が分からなかったという。しかし、スモークが伸びるにつれ、会場にいた子供の「スター!」という声があちこちから聞こえだした。アメリカ空軍のみならず、アメリカ合衆国そのものの象徴でもある星が空中に描かれると、観客からは絶賛されたという。会期終了後、4月28日にネリス空軍基地からノースアイランド海軍航空基地へ移動し、そこで再度船積みを行なって5月6日に出港、松島基地に帰還したのは5月28日であった。このアメリカへの展開は3ヶ月に及んだため、この1997年の展示飛行回数は15回にとどまった。なお、この年には松島基地に新しい隊舎が完成した。1998年には長野オリンピック(長野五輪)の開会式上空における航過飛行(フライバイ)の要請を受けた。東京五輪とは異なり「五輪を描く」ことはなかったものの、開会式の会場が冬期の山岳地域であり、会場が冬期迷彩のように視認性に劣るため、会場の脇には移動式TACANが設置された。また、開会式当日は第11飛行隊の飛行隊長が会場から無線で編隊に直接指示を送る体制をとった。開会式当日、ベートーヴェンの交響曲第9番第4楽章の演奏・合唱が終了すると同時に、会場上空で5色のスモークを引きながらレベルオープナーを披露した。同年7月には松島基地にブルーインパルス専用の格納庫と「ブルーインパルス・ミュージアム」が完成、同年7月27日の松島基地航空祭において「お披露目式典」が行なわれた。1999年からはカラースモークは使用されなくなった。一方、1982年の事故以来、浜松基地の航空祭では水平系の課目しか行われていなかったが、この年の11月14日には浜松基地で行われた「エアフェスタ浜松」においては、17年ぶりに垂直系の課目を含めた展示飛行が行われた。飛行隊として独立してから、部隊運用や管理はスムーズに行なわれており、全国の航空自衛隊隊員にとって、ブルーインパルスは魅力的な部隊となった。ブルーインパルスが40周年、第11飛行隊も5周年となる2000年は、岩国基地で行われたフレンドシップデーなどで、「2000」という文字を描くなど、ブルーインパルスが得意とする「描きもの」が展示飛行に採りいれられた。ところが、同年7月4日、金華山沖での訓練を終えて帰投する途中、5番機と6番機が宮城県牡鹿郡牡鹿町(当時・2005年以降は石巻市)の光山山頂付近に墜落、3名が殉職するという事故が発生した。この事故直後からブルーインパルスは活動を停止、同年7月末に予定されていた松島基地航空祭も中止となった。事故原因は海霧の中で高度を下げすぎたのが原因とされたが、1991年の同じ7月4日にも墜落事故が発生しており、その日がどんな日であるかはブルーインパルスのメンバー全員が分かっていたにもかかわらず発生してしまった事故であった。しかも、この事故では墜落地点が女川原子力発電所に近い地域で、女川原子力発電所の半径3.6kmに設定されていた飛行禁止区域をかすめて飛んでいたことが問題視され、周辺自治体の一斉反発を招いてしまった。このため、航空自衛隊では、訓練空域や松島基地への進入経路を一部見直した上で飛行最低高度を設定するなどの安全対策を実施し、自治体との話し合いを続けた結果、2001年2月9日から訓練飛行を再開した。単独機である5番機と6番機の要員を失ったブルーインパルスの建て直しのため、第11飛行隊発足当時のメンバーであったパイロットが一時的にブルーインパルスに教官として復帰し、パイロット育成を実施した。また、機体も2機が失われてしまったが、通常2機が川崎重工でIRAN(定期検査)に入っているため、6機での展示飛行は出来なくなってしまった。それでも、同年8月26日の松島基地航空祭から展示飛行が再開された。同年9月9日の三沢基地航空祭ではアクロバット飛行を含む展示飛行も行われたが、同年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件の発生により、その後の展示飛行はすべて中止となった。2002年4月5日に行われた防衛大学校入校式から活動を再開したが、これがT-4ブルーインパルスとしては通算100回目の展示飛行となった。また、6月4日に行なわれたFIFAワールドカップ会場の埼玉スタジアム2002上空でも航過飛行(フライバイ)を行なった。同年中には2001年度予算案で2機の調達が認められたことから、9月までに2機のT-4が引き渡され、再び6機での展示飛行が可能となったのは同年12月1日の岐阜基地航空祭からであった。この期間はパイロットのローテーションが変則的となり、3年という本来の任期を越えて在籍したパイロットもいたが、2003年にはほぼ以前と同様の状態に戻すことが出来た。その後は新しい課目の研究や開発を行う余裕も生まれ、2004年には航空自衛隊発足50周年を記念した「サクラ」などの新課目も加わった。2006年には第11飛行隊が創設されて10周年になることを記念し、同年2月17日・18日に記念行事も行われた。この記念行事では、第11飛行隊で天候偵察用に使用されている通常仕様のT-4に対して特別塗装が施されたほか、2000年の事故で殉職したパイロットの慰霊行事も行なわれた。翌2007年5月27日の美保基地航空祭で、T-4によるブルーインパルスとしては通算200回目となる展示飛行を達成した。2009年10月18日には三沢基地航空祭においてサンダーバーズとの競演が実現した。2010年はF-86Fでブルーインパルスが活動を開始してから50周年を迎え、パッチや帽子のデザインが変更されたほか、同年8月21日には松島基地で50周年記念式典が行われ、1982年以降に事故で殉職したパイロットの慰霊祭が行なわれた。また、2011年1月23日に那覇基地で行なわれた「エアーフェスタ2010」では、F-86F・T-2時代を通算して1,000回目となる展示飛行が行われた。2011年3月、ブルーインパルスは同年3月12日の九州新幹線全線開通を記念した展示飛行のため、3月10日芦屋基地への展開を行なった。ところが、同年3月11日に九州新幹線全線開通記念の展示飛行予行を行なった直後に東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生し、3月12日の九州新幹線全線開通記念の行事全てとともに展示飛行は中止された。そればかりか、ブルーインパルスのベースである松島基地が津波の被害を受けたため、帰還することも出来なくなってしまった。松島基地に配備される航空機で無事だったのは、展開中だったブルーインパルスの機体だけであった。このため、ブルーインパルスの機体は九州に残したまま、隊員だけが同年3月14日に松島基地および周辺地域の復旧作業のために帰還した。基地の機能復旧や津波対策を行う関係から松島基地での受け入れ態勢が整わず、その都度松島からクルーが芦屋基地へ出向く「移動訓練」という形態を余儀なくされたものの、同年5月23日から訓練飛行が再開され、同年8月7日に千歳基地で行なわれた航空祭から展示飛行を再開した。仮のベースとなる芦屋基地では第13飛行教育団の隊舎内にある会議室に間借りすることになったが、芦屋基地では環境問題の関係からアクロバット飛行の訓練を行うことは出来なかった。このため、地元との調整の結果、同年8月26日からは築城基地上空においてアクロバット飛行の訓練が再開されたが、整備員が移動しなくて済むように、芦屋基地から築城基地上空まで飛来して訓練を行う「リモート訓練」形式となった。この他、日本海側にある見島分屯基地でも洋上訓練を行なっていた。なお、松島基地が所在する東松島市では同年8月に避難者の応急仮設住宅入居が完了し、全避難所が8月31日に閉鎖されたが、ちょうどこの時期(8月20日)に東松島市で行なわれた「ありがとう!東松島元気フェスタ」で展示飛行が行なわれた。この時は三沢基地からのリモートショー形式であった。震災による訓練中断と、その後の不安定な天候により、この時期のブルーインパルスでは要員練成にも遅れが生じ、半年ほど第11飛行隊からの転出が遅れる事態になった。このような事情から、要員練成をメインとして、2012年の展示飛行は通常の年の半分以下である12回に減らされた。その後、松島基地の復旧と津波対策が進んだことにより、ブルーインパルスは2012年度内に松島基地へ帰還することになった。2013年3月15日には、移動訓練の記念として、築城基地に配置される第6飛行隊のF-2・第304飛行隊のF-15との編隊飛行訓練が行なわれたが、ブルーインパルスがTAC部隊の戦闘機と編隊飛行を行なった事例はほとんど前例がないといわれている。同年3月25日には芦屋基地において移動訓練終了を記念して「ブルーインパルスお別れフライト」と称した展示飛行と帰還記念式典が行なわれたが、展示飛行は平日の午前中であるにもかかわらず3,500人の観客が訪れたという。この時の課目には、本来なら2011年3月12日に披露するはずであった「サクラ」も含まれていた。ブルーインパルスは同年3月28日に芦屋基地を出発、百里基地を経由しながら3月30日に松島基地に帰還し、3月31日には小野寺防衛大臣や地元の自治体関係者も集まって帰還行事が行なわれた。また、同年4月6日には東松島市商工会によって帰還イベントが開催され、悪天候のため訓練飛行は行なわれなかったが、タキシングやブルーインパルスジュニアの展示が行なわれた。帰還時点では、ブルーインパルスの格納庫はかさ上げ工事中のため、津波対策として新たに整備された退避用の格納庫とエプロンを使用する状態であるが、同年4月4日からは再び金華山沖でアクロバット飛行の訓練が再開された。2013年6月1日、東日本大震災からの復興を後押しするために福島県福島市で開催された「東北六魂祭」で、パレード会場の国道4号線上をショーセンターとして、ブルーインパルスの編隊連携機動12課目が行われた。前述の通り、ブルーインパルスは当初は「飛行隊の中で曲技飛行(アクロバット飛行)を担当する1セクション」という扱いで発足している。このことを踏まえ、本節では第11飛行隊として設立された1995年12月以降の体制について記述する。第11飛行隊の内部組織は、飛行隊長を頂点とし、その下に飛行班・整備小隊・総括班という3つの部署が設置されているが、これは他の航空自衛隊の飛行隊と同様である。第11飛行隊特有の特徴として、パイロットと整備員については任期が3年と定められていることが挙げられる。これは、実戦部隊を離れたがらないパイロットが多い事に配慮し、3年間という条件をつけることによって第11飛行隊への選出を行ないやすくするためである。また、飛行班・整備小隊においては階級が「空士」の隊員は存在しない。これは、空士は二等空士・一等空士・空士長とも任用期間が3年に限られており、第11飛行隊の3年という限られた任期の中では、他の部隊で行われているような新人養成や空曹への昇進試験などに時間を割く余裕がないための配慮である。通常の制服のほかに『展示服』と呼ばれる、展示飛行の際に着用するための専用の制服や飛行服が用意されていることや、整備員とパイロットの連帯感が強いことも特徴である。相互の理解を深めるため、訓練時にパイロットが他のポジションの後席に同乗する機会を設けている。飛行班長以下、1機あたり1〜3人のパイロットが在籍する。パイロットは「ドルフィン・ライダー」と呼ばれており、パイロットスーツの左腕に装着するパッチにも "DOLPHIN RIDER" と記されている。1番機については飛行隊長と飛行班長の両方が担当する期間もあるが、2番機から6番機までは交代要員としてのパイロットは存在しない。第11飛行隊は展示飛行の任務しか行なわないため、日常のミッションはアクロバット飛行やウォークダウン・ウォークバックの訓練となる。前述のように3年間という任期が定められており、任期の3年の内訳は以下の通りである。限られた期間内で訓練と展示飛行をこなす必要があるため、途中での担当ポジションの変更は一切なく、また第11飛行隊に選出されたパイロット自身が担当ポジションを希望することも出来ない。左胸のネームタグもポジションナンバー入りとなっている。パイロットの選出にあたっては、操縦技量が優れていることのほか、高度なチームワークが要求されるために協調性があることが求められている。また、広報活動が主な任務であり、航空自衛隊の代表として多くの観衆と接するため、社交性も要求される。なお、手当ては普通のパイロットと同様である。ブルーインパルスへの異動は「本人の希望による異動」と「命令による異動」があり、2003年時点ではどちらかといえば後者の方が多かったが、2010年時点では本人が希望することが多くなっている。それまでのTAC部隊では全くやったことのない操縦技術を習得せねばならず、最初はどのパイロットも戸惑いがあるという。また、TAC部隊で戦闘機を自在に操っていたパイロットにとっても、訓練内容は高度で厳しい内容であるといわれる。一方、訓練の中で編隊飛行の操縦技量等が著しく向上し、3年の任期を終了してTAC部隊に戻ると、空中集合の早さに同僚のパイロットから驚かれたり、「どうしてこんなに編隊が上手いの?」と質問されたりするという。これについて第11飛行隊の初代飛行隊長は「高度な操縦技術を3年間みっちり行なえば、一般の部隊に戻った後にフィードバックできることも多いはず」と述べている。なお、展示飛行は日中にしか行われないが、技量維持のため1ヶ月に数回ほど夜間飛行訓練を行なっている。基本的に過去の在籍者の再在籍は行われないが、事故による要員不足時に教官要員としての再在籍があった他、それ以外でも、要員の都合上異動から数年後に担当ポジションを変えて再在籍した例がわずかながらある。※T-4ブルーインパルスの歴代隊長は部隊を去る際に、飛行隊に込めた思いの言葉を残していく。地上クルーのうち整備を担当するのが整備小隊で、整備小隊長以下20人前後が在籍。整備員は「ドルフィン・キーパー」と呼ばれ、整備服の左腕に装着するパッチにも "DOLPHIN KEEPER" と記される。1機につき3名の機付整備員が配置され、そのうち1名が機付長として受け持つ機体についての作業を任されている。他の部隊と異なり、機体を磨く作業が重要視されているのが業務内容の特徴である。航空祭などではエンジンスタートや地上誘導などを担当するだけではなく、展示飛行の際にはウォークダウン・ウオークバックを披露する。観客に背中を見せる機会が多いため、展示服の背中にはブルーインパルスのロゴも入っている。パイロットと同様、任期は3年間を原則としており、通常は1月に着任して実務訓練を受ける。総括班長は2006年4月までは5番機のパイロットが兼務していたが、2006年4月以降は展示飛行を行なわないパイロットが選任されている。パイロットであるため、ネームタグは飛行班と同じデザインで、7番機のポジションナンバーが入っている。総括班は、飛行スーツやヘルメット、酸素マスクなどの維持管理を行う「救命装備員」(LIFE SP)、飛行計画(フライトプラン)を管理する「飛行管理員」(DISP)、物品調達を行う「補給員」(SUPPLY)、その他の庶務を行う「総務員」(ADMIST)という業務内容で、航空祭の時にもパイロットや整備員と同行して展示飛行の準備を行うため、展示服が用意されている。格納庫(ハンガー)は1998年7月に建設された。緩やかなアーチ形状の屋根で、正面には "Home of The Blue Impulse" という文字が入れられており、ハンガー内部の床面中央には直径10mほどの大きさでブルーインパルスのエンブレムが描かれている。飛行隊舎は格納庫に隣接しており、1階には資料展示室があるほか、屋上には訓練を見学するための観客席が設けられている。なお、同隊舎と格納庫は2011年3月の東日本大震災による津波で水没し損傷したが、駐機場と格納庫を約3,6メートルかさ上げし、格納庫には防水扉を設置。滑走路との間に長さ約200メートル、幅約23メートルの誘導路も新設した。業務用車両として、現地クルーの移動支援用にトヨタ・ランドクルーザーとホンダ・アクティを導入していたが、2010年に日産・エクストレイルを導入した後、ランドクルーザーは使用されていない。いずれもブルーインパルスの機体と同じイメージの塗装が施されている。この他、ブルーインパルス専用のトーイングカーと電源車を保有する。なお、給油車については飛行群ではなく整備補給群の所属であるが、そのうち1台は「スモークオイル専用の給油車」で、松島基地にしか存在しない。ブルーインパルスの訓練は、以下の場所で行なわれる。松島基地の整備員有志によって、改造バイクを使用した活動が行われている。初代機体F-86Fは、航空自衛隊創設に当たり、アメリカから供与された当時の主力戦闘機である。使用機体は全機改修にて取得されており、ブルーインパルス向けとして新造された機体は存在しない。原則として浜松基地に配備されていた機体の中から以下の条件がそろった機体を選び出し改修していた。主な改修点は、後部胴体にある燃料タンクのスモークオイル(発煙油)タンクへの転用、スモーク発生装置のエンジンノズル後方への設置で、一部の計器の配置変更や置き換えも行われている。スモークオイルのタンク容量は105ガロンで、約50分の連続発煙が可能であった。しかし、この改造に伴い、本来は飛行に使用する燃料の搭載量が少なくなった。ドロップタンク(増槽)を装備しない場合のF-86F許容G(重力加速度)は7.0Gであるのに対し、ドロップタンクを装備した場合はドロップタンク内の燃料が空でも許容Gは5.5G、燃料満載時には許容Gは5.0Gで、演目によっては許容Gに余裕がなくなる。このため、当初はドロップタンクを外した「クリーン形態」で展示飛行や訓練を行なっていた。しかし、展示飛行の課目の増加に伴って燃料タンクの容量不足が問題化、1966年頃からは安全上の見地からドロップタンクを常時装着することとなった。機体の塗装は、当初は通常塗装(無塗装)機が使用されていたが、第1航空団の部内で募集されたデザイン案の中から、1961年に金属の地肌に青とピンクとライトブルーの斜めストライプを配した専用デザインが施された。なお、編隊長機のみ青の部分を金色としていた。ピンクやライトブルーの部分は褪色が激しく、白色に近い状態となったため、後から追加改修された機体ではこの部分の色を濃くして対応した。その後、1963年頃にチーム内で塗装案を検討し、東宝映画『今日もわれ大空にあり』への撮影協力をきっかけに、東宝デザイナーが協力することになった。1963年10月には92-7872号機が試験塗装を施され、これを手直しして1963年11月に正式に新塗装が決定した。使用された計34機のうち、ブルーインパルス所属のまま事故で失われたのは4機。そのうちの一機はブルーインパルスとは関係のない学生訓練中に発生した空中接触事故で失われている。この34機の中には米軍からの供与機も含まれており、それらの機体は用途廃止後に米軍に返還されている。一部は無人標的機QF-86Fに改造され、空中標的として使用された。2代目機体T-2は、国産初の超音速高等練習機である。パイロットからはF-4EJをブルーインパルス用として推す意見もあったが、大型過ぎることや燃料消費量が大きいことから実現に至っていない。最終的には国産機であるこ
出典:wikipedia
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