猪俣 隆(いのまた たかし、1964年6月25日 - )は、新潟県長岡市出身の元プロ野球選手(投手)。新潟県長岡市出身。高校から野球留学で上京し、堀越高校に進む。夏の甲子園西東京予選準決勝に進出するが、日大二高に6回コールド負け。卒業後は法政大学へ進学。1年春の新人戦(対明大戦)では新人戦史上初のノーヒットノーランを達成した。東京六大学リーグでは在学中4回優勝、の全日本大学野球選手権大会では決勝で東洋大を相手に完封勝利。1985年から2年連続で日米大学野球選手権大会日本代表に選出される。リーグ通算43試合登板し、20勝7敗、防御率1.87、180奪三振。大学同期に石井丈裕、高田誠がいる。、阪神からドラフト1位指名を受けて入団。新潟県出身の選手がドラフト1位指名を受け入団したのはこれが史上初のことである(1位指名選手としても1980年に阪急の1位指名を拒否した川村一明以来通算2人目)。140km/h台のストレートとナックルボールを武器に即戦力として期待された。大卒同期入団の阿波野秀幸(亜細亜大学 - 近鉄)、西崎幸広(愛知工業大学 - 日本ハム)らと並んで“トレンディエース”と謳われた一角。当時巨人に在籍していたウォーレン・クロマティに引っ掛けて「イノマティ」というニックネームも頂戴した。しかし、プロ入り後は伸び悩んだ。大学時代から変化球のキレと制球の良さが売りだったが、プロ入り後は度重なる故障と幾たびにも亘るフォーム改造で逆に制球力が著しく低下。その後山本和行の背番号25を受け継ぎ、先発に中継ぎに救援にと様々な形で登板したものの、に唯一の2桁勝利となる11勝(12敗)を挙げたのをピークに以後は相次ぐ故障などで低迷。コントロールの不安定で四球が多い投球内容から「ミスターB」という不名誉なニックネームまで付いた。を最後に阪神を戦力外となり、翌中日に入団。しかしここでも故障に泣かされ、結局一軍公式戦の登板はゼロ。結局、この年限りで引退した。マイナーリーグ、独立リーグなどにチャンスを求めて渡米したものの結局現役は断念。なお、岩瀬仁紀のプロ入り前に中日で背番号13をつけていた最後の選手である。猪俣は、現役時代を振り返って「2桁勝利が一番の思い出。シーズン通じてまともな状態だったのはあの年だけだった」と述べている。DH制ではない東京六大学野球からの入団ながら、プロ入り以来79打席連続無安打という珍記録もマークしている(これは当時のセ・リーグ記録である)。現在は工藤公康の84打席が記録(日本記録は嵯峨健四郎の90打席)であるが、初打席以来の記録では現在でも猪俣が最多。なお、工藤は西武ライオンズ所属時に日本シリーズでサヨナラ安打を記録している。中日退団後、渡米中にふとしたきっかけで寿司職人の口を紹介され、三重県津市内での修行を経て渡米。ワシントンD.C.で腕を振るった。猪俣は大学時代、日米大学野球で渡米した時以来「いつか、アメリカに永住したい」という夢を持っていたが、こうして意外な形ではあるものの、実現させることができた。その後、寿司職人からは引退したとされていたが、2014年9月15日放映の日本テレビ系番組『明石家さんまの転職DE天職3』では「野球選手から転職した寿司職人」として紹介され、年収500万円(程度)を稼いでいることを猪俣本人がコメントし、店舗で寿司を握っている姿も放映された。因みに、元々左利きであったため修行中は右利きに矯正するなど努力したことについて、ワシントンの地元紙で「寿司界のジミ・ヘンドリックス」と評されたことがある。猪俣を主役とした漫画作品として、中山ラマダ作「泣くな!イノマティ」(未単行本化)がある。
出典:wikipedia
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