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藤原実頼

藤原 実頼(ふじわら の さねより)は、平安時代中期の公卿。摂政関白太政大臣を歴任した藤原忠平の長男として順調に栄達し、村上天皇のときに左大臣として右大臣の弟・師輔とともに朝政を指導して天暦の治を支えた。しかし、後宮の争いでは師輔に遅れをとり、外戚たることができなかった。冷泉天皇が即位すると、その狂気のために関白職が復活し実頼が任じられた。次いで円融天皇が即位すると摂政に任じられている。また、有職故実に通じ、小野宮流を創始した。延喜15年(915年)正月20日、16歳のときに元服し、翌21日に叙爵(従五位下)。この叙位は、宇多法皇の口添えによって実行されたと『醍醐天皇御記』にある。その後、右衛門佐、右近衛権少将、右近衛権中将などを歴任し、延長8年(930年)に蔵人頭となる。朱雀天皇の延長9年(931年)に参議に任じた。天慶2年(939年)に大納言に任じられ、天慶7年(944年)に右大臣を拝する。実頼が大納言であった天慶年間に一上の宣旨を蒙っていることが、『台記』や柳原家記録中の『砂巌』などによって分かる。村上天皇が即位した天暦元年(947年)に左大臣を拝し、同時に弟の師輔は右大臣に任ぜられた。天暦3年(949年)、忠平薨去のあとをうけて藤氏長者となる。実頼と師輔は左右大臣としてともに村上天皇を輔佐し、天暦の治と評された。実頼は述子を、師輔は安子を村上天皇の女御として入内させ寵を競ったが、述子は皇子を生むことなく死去し、一方、安子は東宮憲平親王をはじめ、為平親王、守平親王を生んでおり、後にこれが双方の家の栄達に決定的な差を生じさせる。天暦4年(950年)には憲平親王が立太子が決定されたが、『九暦』逸文によれば、これは村上天皇・穏子・朱雀法皇・師輔の密談によって決定され、逆に言えば実頼の知らないうちに決定されていたのである。康保4年(967年)、村上天皇が崩御して憲平親王が即位した(冷泉天皇)。冷泉天皇には狂気の病があり、天皇を輔弼する者が必要で、村上天皇時代には長く置かれなかった関白が復活し、藤原氏嫡流で長老の実頼が任じられ、同時に太政大臣に補任された。同じ年に天皇の病気を理由として実頼を准摂政としたが、その宣旨が当時既に死去していた師輔の子である権中納言伊尹・蔵人頭兼家によって準備され、公式に宣旨を発給する任にある実頼の子である左大弁頼忠にすら知らされていなかった。冷泉天皇は師輔の長女中宮安子が生んだ皇子だが、師輔も安子も既に亡くなっており、師輔の子の伊尹・兼通・兼家たちは未だ若年だった。よって実頼が関白太政大臣、源高明が左大臣、藤原師尹が右大臣となり、冷泉天皇のもとの台閣が組織されたが、実頼は関白ながら外戚ではなく、自らの日記で何かと軽んじられ、外戚伯父にあたる師輔の子たちが跳梁していることを嘆き「揚名関白(名ばかりの関白)」と称している。天皇の即位礼は通常大極殿で百官を集めて行うべきだが、天皇の病気が案じられ、実頼は異常事に備えるべく内裏内の紫宸殿で挙行させた。これは実頼の功績であると称賛され、以降、即位礼は紫宸殿で行われるのが通例となった。冷泉天皇に狂気の病がある以上は長い在位は望めず、弟皇子から早急に東宮を定めることになった。同母弟で年長の為平親王が有力だったが、東宮には守平親王と決した。これは為平親王の妃が左大臣源高明の娘であり、実頼と師尹が源氏の高明が将来外戚となることを恐れたためであった。安和2年(969年)失意の高明に突如謀反の嫌疑がかけられ失脚し、大宰府へ流される事件が起きた(安和の変)。実頼はこの陰謀の首謀者とされているが、弟の師尹または師輔の子の伊尹、兼家を擬定する説もある。同年、冷泉天皇は譲位し、守平親王が即位した(円融天皇)。新帝が未だ幼年であったため実頼は摂政に任じられた。だが、翌天禄元年(970年)に病に倒れ、5月薨去。享年71。正一位が追贈され、尾張国に封じ、清慎公と諡号された。実頼は摂関を歴任したものの天皇との外戚関係を結ぶことができず、自らを揚名官(名前だけの名誉職)の関白という意味で「揚名関白」と称している。また、『栄花物語』が師輔を、「一(実頼)苦しき二の人(師輔)」と実頼とを比較して評していることから、実頼の政治的実権が乏しく、村上朝においては師輔、冷泉・円融朝においては両天皇と外戚関係にあった師輔の子伊尹・兼家等が実権を掌握したと捉えられている。しかし、村上朝においては、太政官符・宣旨発給の責任者である上卿の回数が師輔と較べて多いことや、冷泉天皇即位式の際、通常大極殿で行うべきところを、天皇御悩のために紫宸殿挙行に変更させたことなどを考慮すると、実頼の政治的実権は乏しかったとするのは穏当ではなく、更に議論が必要であろう。有職故実に詳しく、父忠平の教命を受け(忠平の教命は、実頼が『小野宮故実旧例』として纏めた)、朝廷儀礼のひとつである小野宮流を形成した。なお、実頼の流派が小野宮流と呼ばれる所以は彼の邸宅名による。また、日記『清慎公記』(『水心記』ともいう)を著していたことが『小右記』等の逸文によって知られる。なお、藤原公任が『清慎公記』の部類記を作成する際に書写せず原本を直接切り貼りしたため、部類記収録以外のものは反故になってしまい、元来の所持者であったと考えられる公任の従兄弟の藤原実資(公任・実資ともに実頼の孫)の憤激を買っている。その部類記も長和4年(1015年)の藤原教通邸焼亡の折に焼失したため現存していない。また、同じく公任の『北山抄』に度々引用されている「私記」も『清慎公記』のことと考えられている。なお、実頼は忠平の『貞信公記』に注釈を加えた際に自己の記述も「私記」と記しているが、『北山抄』引用の「私記」には忠平が第三者として登場することから、実頼自身は『清慎公記』の事も「私記」と称していたと考えられている。和歌に秀で、歌集『清慎公集』があるほか、『後撰和歌集』(9首)以下の勅撰和歌集に34首が採録されている。ほかに笙・箏の名手として知られ、特に箏は醍醐天皇より学んでいる。実頼は多才で趣味も豊富である上に、きちんとした性格で人の模範として引かれるほどであった。一方で、心の奥底が深く気難しい性格であったという評価もある。源能有の女昭子を母とする藤原師輔・師氏・師尹らは異母弟にあたる。※月日は旧暦。特に指示のない限り『公卿補任』の記載による。

出典:wikipedia

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