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大乗非仏説

大乗非仏説(だいじょうひぶっせつ)は、大乗仏教の経典は釈尊の直説ではなく、後世に成立したものだという説である。もともとは、仏教内部において部派仏教の側から、大乗仏教とは「経典捏造による謗法」や「仏教教義からの逸脱」であるとして、大乗仏教出現以来、現在に至るまで展開されている論説である。日本では、仏教が江戸時代に寺請け制度で権力の一翼を担い堕落していた幕末において、仏教に批判的な思想家等によって展開された。江戸時代の思想家、富永仲基の加上説や、明治期の仏教学者、村上専精による「大乗非仏説論」(だいじょうひぶつせつろん)などが有名である。明治維新以降、言語学などを駆使した近代的文献学研究の方法が日本に流入し、学会などでは大乗仏教が前1世紀以降から作成されたものであるとの結論から、大乗非仏説は近代的学問から裏付けられているとされている。もっとも、文献学的には、大乗仏教の仏典のみならずパーリ経典の大部分も釈迦の死後数百年にわたり編纂されたものであることが明らかとなっている。最古の経典も釈迦の死後100年以内の編纂とみなされているため、近代の文献学上は原始経典さえも釈迦の言説が明確に記録されているか否か明らかでない。大乗仏教の経典は釈尊の般涅槃から数百年後に編纂され、釈尊に仮託された思想文学であるという結論が支持されている。また、大乗の興起を担ったものが何であるかについては諸説あるが、既存の部派内から発生して徐々に成立した仏教思想史の一環として大乗仏典を捉える見方が一般的になっている。経典は、ごく最古の経典を除き、冒頭で「このように私は聞いた」(如是我聞=是くの如く我聞けり)と述べ、釈迦の説法を聞き写したという体裁をとっており、現在の上座部仏教圏(スリランカ、ビルマ、タイ、ラオス、カンボジア等)、大乗圏(インド・ネパール、チベット・モンゴル、中国・朝鮮・日本・ベトナム等)のいずれの伝統教団も、大蔵経 (一切経)として擁する膨大な経典群を、歴史上の釈迦が八十数年の間に説いたものとして扱っている。大乗仏教圏は、経典に使用する言語により、の三つに大別されるが、そのうち、これらインド外の両仏典圏の伝統教団では、経典が釈迦の直説であることは自明の伝統とされ、疑問や否定の対象とはされてこなかった。 近世以降の「大乗非仏説」説では、文献学的考証を土台とし、仏教が時代とともにさまざまな思想との格闘と交流を経て思索を深化し、発展してきたことを、「実際存在する/伝わった経典を証拠に、事実として示す」のが特徴である。大乗経典は元々の口伝による伝承そのものが存在しないという主張がある。すでに紀元前1世紀頃には、上座部(南方分別説部)が布教されたスリランカにおいてパーリ語経典が貝葉に記録されているが、このスリランカに伝承されたパーリ五部と、シルクロードを経て2世紀半ばから中国で漢訳されはじめた阿含経(漢訳四阿含等)とでは、部派が異なるにもかかわらず教えの内容がほぼ一致している。このともにインド文化圏の周辺域で記録された経典が共通性を持つことに注目し、そして紀元前2世紀~前1世紀にかけてインド仏教聖地で建立された碑文に「五部の精通者」云々の語句が認められることを勘案すれば、大乗仏教運動が起った時点ではすでに諸部派において「釈尊の言い伝え」として承認される経典の範囲が確定していた可能性は高い。つまり、大乗経典は四部または五部に分類される経典のどこにも場所を持たなかったと考えられるのである。文献学研究の結果では、時代区分として、初期仏教(原始仏教)の中の仏典『阿含経典』、特に相応部(サンユッタ・ニカーヤ)などに最初期の教え(釈迦に一番近い教え)が含まれていることがほぼ定説になっており、少なくとも「大乗仏典を、歴史上の釈尊が説法した」という文献学者はいない。伝統的な信仰によらず、文献学に根拠を持たない独自の信仰的立場から、釈迦の直説には阿含経に記されていない、より高度な思想があったという主張を行なっている学者もいる。例えば中村元は「サーリプッタに説いたブッダの教えはいったいどこにいってしまったのか」と述べ、増谷文雄も「ブッダがサーリプッタに説いた宗教的深遠な教えは、阿含部経典よりも多かったに違いない」として、"ブッダはサーリプッタに対して、深遠な思想を説いたが、その内容は阿含経典には残されていない"という趣旨の主張を行なっている。しかしながら、中村・増谷らの「阿含経典に見られない、宗教的により深遠な教え」をブッダはサーリプッタに対して説いていたはずであるという主張は文献学的に何の根拠もなく、証明不可能である。またこれらの学者は釈迦がサーリプッタに説いた教えが大乗の経典に含まれているとは主張していない。さらに中村元は、著書の中でという独自の説を述べている。。のに対して、のであり、縁起に真如を見るという思想は、一切衆生悉有仏性という大乗の教えそのものである、といった主張もなされている。大乗仏典は、行者たちが瞑想のなかで出会った仏の教えを記したもの、という主張もなされている。近世以降の大乗非仏説には、宗教に関するインド人の伝統を無視している、との批判がある。それによれば、「インドでは古来、宗教の聖典は口伝によって伝承し、文字にして残さないという伝統があった。よって、釈迦が大乗仏教を説いていたとしても、釈迦の死の直後に文字に記されなかったことはむしろ当然であり、釈迦の死の直後に記された大乗経典の実物が発見されていないことは大乗仏教が仏説ではないことの根拠にはならない」とするものである。ただし、この主張は部派仏教の経典は文字によって伝承され、大乗は口伝で伝えられたというものであるが、これは史実と異なる。実際は上座部のパーリ経典の方が口伝で継承されていた。パーリ経典は口伝で重要な暗記をやりやすくするために、反復や韻を踏む内容となっている。また、僧の大集会などで経典を唱える行為はこの暗記の正確さをお互いに確認しあうという役割があった。パーリ経典が文字として記録されたのは大乗仏教が登場してからである。一方の大乗経典は口伝伝承を前提としていないため暗記を容易にするような、単純な文を反復するという構成ではなく、その内容も哲学的なものも多く、明らかに文伝を前提とする文章構造になっている。文献学的観点からは文伝を前提としているのが大乗で、口伝を前提としているのが小乗である。口伝伝承されており、その発祥時期も大方は明らかになっている小乗の経典に大乗の教えが見られない自体が大乗は口伝で伝承されず、発生時期が小乗以後であるという文献学の根拠ともなっている。この、成立時期の大きな時間差については、根本分裂前の教団が、後に大乗仏教と呼ぶ部分を理解してもらうために方便として広める必要のある物から順に文字化されただけだという意見もあるが、あくまで大乗擁護を結論として作り上げた推論の域を出ない。大乗の経典を否定する中観派の開祖とされる龍樹は、その著書において、たびたび「大乗は仏教にあらず」という主張に対する反論を行なっている。「宝行王正論」においては、「大乗は徳の器であり、己の利を顧みず、衆生をわが身のように利する」として大乗の思想を称賛し、釈迦の根本教説を「自利・利他・解脱」とし、六波羅蜜は「利他・自利・解脱」を達成するものであるから仏説であると主張している。また同書において、大乗を誹謗する者に対しては、忠告を行なっている。日本の仏教界では、いずれかの宗派に属する僧侶でもある研究者は、大乗仏典は価値があり自分の信仰の基盤であることを認めた上で、文献学的考証に基づく仏教思想や経典の歴史的展開から導かれる大乗非仏説の主張内容を一定の事実として受け止めており、教団として出される布教文書にまで仏教思想の歴史的発展について記述する例も見られる。この結果、歴史的人物としての釈尊の教え、大乗仏教の教え、その大乗仏教の日本的発展である宗祖(法然、親鸞、道元、日蓮、一遍…)の教えを、それぞれどのように扱えばよいのかという課題を抱えている。ただし、一般信徒にとっては、宗祖の教えが信仰の中心になるので、特に仏説(釈尊の教え)か否かという点の相違が意識されることはない。詳細については本仏も参照。中国、ブータン、モンゴル(含む内蒙古、ブリヤート、トゥバ、カルムイク)、ネパールなど、他の大乗仏教圏諸国では、大乗非仏説は「信者ではない人々による勝手な営為」として扱われ、信仰をゆるがす問題としては受け取られていない。原理主義色が強い仏教系宗派(特に新宗教教団)では、大乗非仏説を「無知な学者による根拠なき誹謗中傷」として退ける場合が多い。

出典:wikipedia

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