運動会(うんどうかい)は、学校、会社(企業)、地域団体(地域社会)(児童生徒)などの自発的参加者および運営による自主協力により規定プログラムに従って遂行される体育的な活動行事。体育祭(たいいくさい)などと称することもある。イギリスやドイツの職工体育的行事に起源を有するが、日本における運動会の発足は「国威発揚」「富国強兵」「健康増進」を目的として明治末期から社会的に広く普及したものであることから「近代日本独特の体育行事」であるとされる(歴史の節も参照)。運動場で、主に運動能力を用いる競技や遊戯をおこなう。中学校・高校では「体育祭」と呼ぶ場合が多く、また「大運動会」「体育大会」「スポーツ大会」「スポーツフェスティバル」「体育学習発表会」などの呼び名もある。年に1、2回行われることが多く、一番のメインは春(5・6月)、次いで秋(9・10月)である。北海道では秋は気候が悪いので、小学校では5月下旬から6月上旬までの開催が圧倒的に多い。また北海道以外の全国でも、気候が涼しく熱中症などの影響が少ないことや春と比べ天候が不順な秋を防ぐことから春に開催する事例が増加しており、2016年にNHKが調査した結果によると、東京23区と全国20の政令指定都市の約3700の公立小学校では、全体の約66%にあたる2400校が、春の時期に運動会を行っていた。運動会の開催時期が春と秋に分かれている理由の背景には修学旅行や遠足などの行事が他校と重ならないようにしているというのも理由の1つである。学習指導要領における「特別活動」にあたり、学校行事としての「健康安全・体育的行事」に位置づけられ、児童生徒の自主的参加により催される行事である。その目的は、連帯感・協力・調和・団結力などを養う点にあるとされる。なお学校によっては、この体育祭・運動会に代えて球技大会やクラスマッチを開催する例もある。高校の場合は学校の運動場ではなく、地元の陸上競技場や体育館等の施設で行なう場合もある。専修学校においては、体育系の学科やクラブが置かれない限り運動施設を設けないことが多く、運動会を開催する場合は地元の体育施設などを借りる場合が多い。ただし行事としての開催義務はないため、学校によっては運動会自体が開催されないこともある。職場(会社など)や地域(市区町村)などで行われることもあるが、近年は開催を取り止めたり、あるいはその規模を縮小する流れも見られる。それは職場での運動会については企業の経営状況が良好でないこと、地域での運動会については過疎やつながりの希薄化などの影響で中止される場合もある。運動会の起源はヨーロッパにあるとされるが、欧米では体育及びスポーツの分化により、一方では特定種目の競技会やそれを複合させたスポーツ競技会、一方で子供による伝統的な遊戯まつりやピクニック会などへとつながって今日に至っている。そのため、日本の運動会のように参加者が一定のプログラムについて順次全体としてまとまりながら競技・演技を行う形式の体育的行事は「近代日本独特の体育的行事」といわれる。日本に見られる行事形式の体育的催しは日本の他に台湾、朝鮮半島など日本統治時代から盛んになり存続している。しかし、韓国においては近年、いわゆる「日帝残滓」として、運動会を廃止する動きがある。駆け足での集合や隊列を組んだ行進、点呼や声の同期、バンカラ風の応援、軍歌「歩兵の本領」の替え歌による応援など戦時下当時の名残が定着している。運動会が日本で行われだしたのは明治時代である。当初、運動会は「競闘遊戯会」「体操会」「体育大会」などと呼ばれていた。日本で最初に行われた運動会は定説によれば1874年3月21日、海軍兵学校で行われた競闘遊戯会であるとされる(イギリス人英語教師フレデリック・ウィリアム・ストレンジの指導によって行われたとされ、ストレンジは後に異動先の東京大学予備門でも運動会を開催している)。ただし、1868年に幕府の横須賀製鉄所において技術者・職工らによって行われたものが最初であるとする説もある。1878年5月25日には札幌農学校で「力芸会」が開催された。その後、僅か数年で北海道内の小中学校に広がったといわれる。また、1883年からは東京大学で「運動会」が定期開催されている。その後、初代文部大臣・森有礼が体育の集団訓練を薦めるため学校で運動会を行うようになった。日本統治を経験した韓国、北朝鮮、台湾や中国東北部の学校にも日本時代の名残で運動会が存在している。第二次世界大戦中は運動会の種目においても戦時色が強まり、騎馬戦・野試合・分列行進などが行われたが、戦争末期には食糧難から運動場が農地化するなどして実施が不可能となった例も多いとされる。
出典:wikipedia
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