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スターリングラード攻防戦

スターリングラード攻防戦(スターリングラードこうぼうせん、1942年6月28日 - 1943年2月2日)は、第二次世界大戦の独ソ戦において、ソビエト連邦領内のヴォルガ川西岸に広がる工業都市スターリングラード(現ヴォルゴグラード)を巡り繰り広げられた、ドイツ、ルーマニア、イタリア、ハンガリー、およびクロアチアからなる枢軸軍とソビエト赤軍の戦いである。スターリングラードは元来ドイツ軍のブラウ作戦における副次的目標の一つに過ぎなかったが、戦略上の要衝の地であったことに加え、時のソビエト連邦最高指導者ヨシフ・スターリンの名を冠した都市でもあったことから熾烈な攻防戦となり、史上最大の市街戦に発展、やがては日露戦争の奉天会戦や第一次世界大戦のヴェルダンの戦いを上回る動員兵力、犠牲者、ならびに経済損失をもたらす野戦に拡大した。緒戦は枢軸軍側の優位に進み、市街地の90%以上を占領したものの、最終的にはソ連軍側の反攻が圧倒し、ついには包囲されるに至ったドイツ第6軍を主軸とする枢軸合同軍が降伏。独ソ戦の趨勢を決し、第二次世界大戦の全局面における決定的な転換点のひとつとなった。死傷者数はソンムの戦いなどの第一次世界大戦の激戦を遥かに超える規模で、枢軸側が約85万人、ソビエト側が約120万人、計200万人前後と見積もられた。街は瓦礫の山と化し、開戦前に60万を数えた住民が終結時点でおよそ9800名にまで激減。第二次世界大戦最大の激戦、また13世紀の「バグダッド包囲殲滅戦」(モンゴル帝国)などと並ぶ人類全史上でも屈指の凄惨な軍事戦であったと目されている。ドイツ軍は、1941年12月に、首都モスクワ攻略タイフーン作戦を試みたが失敗した。このモスクワ前面でのドイツ軍の敗退を過大評価したソ連大本営は、1月にレニングラードからクリミアまでの全戦線で、ドイツ軍を国内から駆逐すべく戦略的攻勢にでたが、戦力や補給能力を超えたものであり、この攻勢は、失敗して、戦線に凸凹をつけた程度で、雪解け期を迎えた。大きな損害を出しつつ後退したドイツ軍だったが、ノブゴロド、スモレンスク、ハリコフを維持し、ハリコフの南方には、ソ連軍の大きな突出部が形成された。雪解け期の間、独ソ両軍は、雪解け期のあとの戦略を検討したが、ソ連軍は、突出部を利用して、南北からハリコフを挟撃・奪還する春季攻勢を立案した。一方、ドイツ軍は、夏季攻勢プランとして、ブラウ作戦を立案したが、その前の準備的作戦として、ソ連軍突出部を切り取ってしまうフレデリクス計画も立案した。先に作戦準備を完了したソ連・南西方面軍(セミョーン・チモシェンコ元帥)は、1942年5月、ハリコフ奪還を狙った春季攻勢を開始したが、ドイツ軍の第6軍と第1装甲軍による突出部後方での南北からの挟撃により、突出部のソ連軍攻勢部隊は壊滅した(第二次ハリコフ攻防戦)。この結果、南部戦域での独ソの軍事バランスは、大幅にドイツ軍有利に傾き、ソ連軍は、ドン河を目指して、撤退を始めることになった。ソ連軍残存部隊の追撃および捕捉、これがブラウ作戦の主目標であった。前年の米国の宣戦布告に伴い、ドイツの戦争指導部中枢にはできるだけ早くソ連を降伏に追い込みたいという思惑があった。彼らはソ連はすでに兵力の限界に達しつつあると判断し、前年に続いての大部隊の包囲殲滅と工業地帯の占領を優先した。さらにコーカサスの占拠により、当時世界最大級だったバクー油田からの石油供給を断ち切り、ソ連の戦争継続能力に大打撃を与え、降伏に追い込むことを図った。作戦準備の最終段階となっていた6月18日、第23装甲師団の首席作戦参謀ヨアヒム・ライヘル少佐は、ブラウ作戦の命令書を所持したまま軽飛行機で敵状偵察を行ったが、敵陣内で撃墜され、機密文書も回収できなかった。これは、師団長はもちろん第40装甲軍団団長および参謀長まで軍法会議にかかるほどの重大事件で、その不首尾にヒトラーは激怒したが、変更する時間的余裕がないため作戦はそのまま進められた。6月28日、フェードア・フォン・ボック元帥指揮の南方軍集団が、ギュンター・フォン・クルーゲ元帥の中央軍集団などから戦力を引き抜いて強化した上で攻勢を開始した。迎え撃つソ連軍は、前年の大打撃から完全に立ち直ってはいなかったが、ウラル以東やコーカサスなどに疎開させた工業設備が生産を再開し、機械化部隊の戦力は急速に再建されつつあった。また、拠点の保持にこだわって包囲され大量の捕虜を出した前年の戦訓に学び、より柔軟な守備戦術がとられるようになっていた。南方軍集団は6月28日にクルスク方面からドン川に向かって南東に攻撃を開始。まず、ドイツ第2軍と第4装甲軍、およびハンガリー第2軍が左翼となってドン川をめざし、30日には第6軍がドネツ川を渡って右翼を担った。第4装甲軍に属する第48装甲軍団は7月3日にドン川に達し、7月6日からイリューシン設計局の航空機工場があるヴォロネジを2個師団の兵力により攻撃した。一方、ソ連軍はドイツ軍が危惧した通りライヘル少佐が携えていた命令書を確保していた。しかし疑い深いスターリンは、ドイツ軍はヴォロネジからオリョール、さらにモスクワにむけて北上するだろうと考え、命令書を罠と判断する。これに基づき、フィリップ・ゴリコフ中将のブリャンスク戦線は、ドイツ軍の予想に反してロシア帝国軍以来の伝統であった後退戦術をとらず、ヴォロネジ市街地に拠点を構えて頑強に抵抗した。その結果、ドイツ第48装甲軍団は市街戦と補給に苦しみ、歩兵部隊の到着を得て7月13日にようやくヴォロネジを占領。このため南方軍集団が足止めされ、ドン川下流の制圧に7月下旬までかかり、その間チモシェンコは残存兵力をドン川湾曲部、さらにその東方スターリングラードまで撤退させた。全体的に見てソ連軍は、広大な領土を敵に明け渡すのと引き換えに軍が再編される時間を確保し、あわせて補給困難な地点まで敵軍を手繰り寄せる伝統的軍事対応に成功した。これにより、ドイツ軍のブラウ作戦は初期段階で修正を余儀なくされる。こうしたおり、ヒトラーはドン川→コーカサスという二段構えの攻勢を想定していたブラウ作戦を、二方面同時攻勢に変更させた。7月7日、南方軍集団はドネツ川沿いに進んでドン川を渡りコーカサス地方の油田地帯を攻める「A軍集団」(ヴィルヘルム・リスト元帥指揮。第17軍、第1装甲軍など兵力100万)と、チモシェンコを追撃・撃破しつつドン川沿いに進みながらスターリングラードでヴォルガ川を封鎖するというブラウ作戦を継承した「B軍集団」(フェードア・フォン・ボック元帥指揮。第2軍、第6軍、第4装甲軍、イタリア第8軍、ハンガリー第2軍、ルーマニア第3軍、ルーマニア第4軍など兵力30万)に分割される。こうした兵力分割は、機動力の確保と補給を困難にさせた。ドン川下流の渡河をめぐるロストフ・ナ・ドヌ周辺でのA軍集団の戦闘は激戦が予想されたが、3日間の市街戦を経て7月25日、ロストフが占領された。その後、エヴァルト・フォン・クライスト上級大将の率いる第1装甲軍とリヒャルト・ルオッフ上級大将の第17軍を主軸にコーカサスへと順調に進撃し、8月10日にマイコープ、13日にはクラスノダールを占領。8月21日には、第1山岳猟兵師団の選抜兵がヨーロッパ州最高峰のエルブルス山(標高5,642m)に登頂し、頂上にハーケンクロイツの旗を立てている。しかし、前面に立ちはだかる険しいコーカサス山脈に加え、鉄道およびカスピ海、黒海の航路から増援を受けたソ連軍の抵抗を受け、その後の進撃は予定通りに進まなかった。また、黒海沿岸の要地にあたるノヴォロシースクも、9月10日になって市街地占領に成功したものの、トルコ国境のバトゥミへの進路どころか、港湾施設に黒海艦隊の水兵が立てこもって激しく抵抗し、最後まで海上からの補給に利用できなかった。さらに、マイコープの油田と製油施設もソ連軍が退却時に修理不能な状態で破壊しており、皮肉にもドイツ軍は燃える油田を前にしつつ燃料が欠乏することとなる。9月に入り、補給の限界とソ連軍の防禦線構築により、グロズヌイから70キロ前面のテレク川に面したモズドクで戦線は完全に膠着した。これに憤ったヒトラーは、9月9日にA軍集団司令官のリスト元帥を罷免し、直接指揮にあたる。後任に第1装甲軍司令官だったクライスト上級大将があてられたのは、後述するソ連赤軍の攻勢で戦局が逆転しつつあった11月22日のことであった。ドン川東岸からヴォルガへ向かう攻勢は南方軍集団の本来の主軸だったが、ヒトラーは7月13日のヴォロネジ占領と同時にB軍集団司令官を兼ねていたボック元帥を解任し、第2軍司令官のマクシミリアン・フォン・ヴァイクス上級大将に後任を命じた。また、ヘルマン・ホト上級大将の第4装甲軍に対し、ドン方面での左翼から離脱し、主力部隊をコーカサスの関門ロストフに向かったA軍集団を支援するため、ノヴォチェルカースク付近のドン川に向わせた。この支援は道路状況の悪い進撃路に大渋滞をもたらし、燃料の欠乏を加速させるだけの余計な結果に終わる。さらに翌14日、ヒトラーは総統大本営を東プロイセンのラステンブルク(現ケントシン)付近に置かれたヴォルフスシャンツェ(「狼の砦」)から、ウクライナ西部のヴィーンヌィツャに設置されたヴェーアヴォルフ(「人狼」)に前進させ、10月31日に至るまでそこで自ら指揮を行う。上述の通り、ドイツ軍がヴォロネジ占領に手こずる間、ソ連赤軍はチモシェンコ元帥の指揮のもと、スターリングラードに向けて計画的に粛々と後退し、前年のような無残な包囲殲滅を回避した。これを追うドイツ軍は、夏の大草原(ステップ)で1年前を彷彿させる快進撃を始めたが、前年と異なり捕虜や重機材はほとんど得られなかった。これをソ連赤軍の潰走と誤認し、「もうソ連軍はいなくなったのか?」と気を良くしたヒトラーは、7月23日に歴史的な錯誤というべき「総統指令第45号」を発した。「総統指令第45号」はA軍集団にバクー占領を、B軍集団にスターリングラードの占領を命じ、さらに二つの軍集団の間隙を牽制するため、別の一隊をプロレタルスカヤからカルムイク自治共和国の首都エリスタを経てヴォルガ河口、カスピ海沿岸のアストラハンに向かうよう命じている。カルムイク人はモンゴル系でヨーロッパ唯一の仏教徒であり、またレーニンもその血を引く。ソ連軍がこの方面の防衛を放棄したため、ドイツ軍は無人に近い草原を難なく突破し、仏教寺院が建つエリスタを占領した。この地域は草原がどこまでも続き、まさに地の果てに来た感があったという。補給は途絶え、彼らは文字通り孤立無援となった。一方、ソ連はバクーからカスピ海を経てアストラハンからヴォルガという水運ルートとは別に、グリエフの港湾と鉄道を整備する別のカスピ海ルートを設定したため、アストラハンやスターリングラードを占拠されても、それがソ連の命脈を絶つことにはならなくなる。ともあれ、これらの命令で第4装甲軍は装甲師団と自動車化歩兵師団の主力が引き抜かれ、さらに燃料補給もA軍集団が優先されたため、スターリングラードへ向けた追撃は、ヴォロネシ攻略に続いて速度が鈍ってしまう。こうした錯綜は、追撃を免れたソ連軍に再編のための時間を提供する結果となった。7月30日にロストフが陥落すると、ヒトラーは第4装甲軍を再びスターリングラード方面に向わせた。また、セヴァストポリの戦いを終えるとともにクリミア半島からケルチ海峡を渡ってコーカサスを支援攻撃する予定だったエーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥の第11軍も、レニングラード攻防戦の支援に向かわせた。8月7日、第4装甲軍の先鋒はスターリングラード南西130kmのコテリニコボに南側から回り込んだ。さらに翌8日、第6軍はドン川のカラチ鉄橋を占領し、攻勢の戦略拠点を確保した。しかし、スターリングラードへの本格的攻略の開始は補給と兵力の集結を待たねばならず、総統指令の乱発は作戦の遂行を大いに混乱させた。そのことは、ドイツ軍からソ連軍を捕捉・包囲する「速度」を喪失させ、逆にソ連軍に防衛態勢を構える「時間」を与えることとなった。後退するチモシェンコ軍のドン川西岸での殲滅というブラウ作戦の本来の作戦目的、さらにコーカサスの油田確保およびバクーとロシア中央部との連絡線寸断はいずれも失敗に終わった。またスターリングラード市の占領は当初、意図されていなかったが、ヒトラーはスターリンの名を冠したこの都市の占領による政治的効果とそれに伴うソ連軍の士気低下を期し、必要以上の執着を抱くようになり、それが大消耗戦をまねくこととなる。フリードリヒ・パウルス大将率いる第6軍は、8月16日までにドン川西岸をすべて確保し、の第14装甲軍団とヴァルター・フォン・ザイトリッツ=クルツバッハ砲兵大将の第51軍団を先頭に、いよいよスターリングラードに迫る。当時人口60万だったスターリングラード市は、ソ連邦最高指導者ヨシフ・スターリンが革命時のロシア内戦においてデニーキン将軍の白衛軍に勝利した記念地を都市名の由来としていたが、地理的にみた場合、ロシア南部でヴォルガ川がドン川にむかって最も西側に屈曲した地点にあり、ここを抑えることはコーカサスや黒海・カスピ海からロシア中心部に至る、水陸双方にわたる複数の輸送路を遮断することにつながった。さらに経済および国防の観点によるならば、スターリングラードは五カ年計画において重点的にモデル都市として整備された結果、国内屈指の製鉄工場である赤い10月製鉄工場、大砲を製造していたバリカドイ(バリケード)兵器工場、さらにスターリングラード・トラクター工場(別名ジェルジンスキー工場)など、ソ連にとって国家的に重要な大工場が存在する有数の工業都市へと発展していた。特にスターリングラード・トラクター工場は、中戦車T-34の主要生産拠点であった。ドイツ軍装甲部隊に対抗可能な2種の新型戦車のうち、中戦車T-34はハリコフ機関車工場、重戦車KV-1はレニングラードのキーロフスキー工場が開発工場であり、主工場でもあったが、これらの工場はドイツ軍の進撃により疎開を強いられていた。その後、新たな戦車生産拠点となるクラスノエ・ソルモヴォ工場(ゴーリキー市)や(ハリコフ機関車工場の疎開先である)ウラル戦車工場(ニジニ・タギル市)の操業が本格化する以前においては、スターリングラード・トラクター工場こそ、最も有力な主力戦車組立工場であった。市内では、これら工場群の男女労働者や、未成年のコムソモール(共産主義青年同盟)団員で編成された、ソ連共産党に忠実な市民勢力による義勇兵のほか、ティモシェンコ元帥とともにドン川方面から組織的に撤退して再編された将兵。さらには前年以来ウクライナから逃れてきた難民も市内に収容されており、スターリングラードはロシア南部最後の拠点という性格を有していた。また、もしソ連赤軍が反撃に転じた場合は、ロストフ奪回の策源地にもなりえた。8月23日、情報を与えられていなかったスターリングラード市民は通常と同じように平穏な日曜日の朝を迎えたが、一瞬にして地獄の世界に直面する。ゲルニカ爆撃以来、絨毯爆撃を主導してきたヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン上級大将の第4航空師団は、市街に対して航空機のべ2000機による、爆弾総量1000トンにのぼる猛爆撃を加えた。続いてB軍集団による総攻撃が開始された。ここに150日におよぶ戦いの幕が開かれる。まず、ヴィータースハイム大将指揮の第14装甲軍団は、早朝にドン川から出撃したハンス=ヴァレンティーン・フーベ中将の第16装甲師団を先鋒に急進し、85mm高射砲を使ったトラクター工場の女性労働者たち(コムソモールの少女たちともいわれる)による抵抗を排除して、午後4時過ぎに市の北郊ルイノクで待望のヴォルガ河畔に達した。しかし、市街地への南下は阻止された。このほか、第6軍と第4装甲軍は連携して徐々に外郭防衛線を突き崩してスターリングラードを包囲していったが、本格的攻撃の再開は、A軍集団の側面支援に向かった第4装甲軍の主力部隊がスターリングラード方面での展開を終えるまで、3週間もずれ込んでしまった。この間、ドイツ空軍は連日のように猛烈な爆撃を加えて市街のほとんどを廃墟にするとともに、ヴォルガ川を航行する船舶にも昼夜にわたり砲撃と航空攻撃を加えている。ヒトラーもパウルスも、スターリングラードは数日の攻撃で陥落できると楽観的に考えていた。8月28日になってスターリンはようやく非戦闘員の退去を許可したが、その間の爆撃で数万人の一般市民が犠牲となった。しかし、激しい爆撃がもたらした廃墟と瓦礫は無数の遮蔽物をもたらし、ソ連赤軍将兵にとっての要塞となっていく。スターリングラード防衛のため、7月12日にスターリングラード戦線が編成され、チモシェンコ元帥が司令官に任命された。ただし、彼は第二次ハリコフ攻防戦での大敗北という失策を引きずっていたため、スターリンの判断によってすぐに安定した北西戦線へ異動となり、ワシーリー・ゴルドフ中将が交代した。しかし、ゴルドフはドン湾曲部の防衛戦で成果があげられなかったために更迭され、8月1日にアンドレイ・エリョーメンコ大将が軍司令官となった。エリョーメンコは、2月に行われたデミャンスク包囲戦の際、第4打撃軍を指揮してトロペツを攻略中に重傷を負って入院中だったが、スターリンに懇願して前線に復帰した。エリョーメンコは着任するや、ドイツB軍集団の集中が遅れているのを活用し、ドン川西岸方面から撤収してきた各部隊を短期間に再編した。さらに市内の工場労働者や市民を部隊編成させ、対岸からも補給を受けて防衛線の構築に努めた。スターリングラード市内における防衛の中心を担ったのは第62軍で、司令官はアントーン・ロパーチン中将であった。ロパーチンは撤退戦で能力を発揮した。しかし、戦線の崩壊で心身ともに消耗し、街の防衛に悲観的になっていたため更迭される。彼に代わり、第64軍司令官代理のワシーリー・チュイコフ中将が9月12日に新たに司令官に任命された。チュイコフは、のちに第8親衛軍司令官としてベルリン攻撃の主力となり、防衛軍司令官ヘルムート・ヴァイトリンク砲兵大将の降伏を受け入ることとなる。また、参謀長には対日参戦で活躍することとなるニコライ・クルイロフ少将が就いている。パウルスが司令部を戦場から離れた地点に置いたのに対し、チュイコフは最前線近くに司令部を置き、文字通り陣頭で指揮を行った。9月13日午前6時45分、第6軍は11個師団の兵力で、猛烈な砲爆撃とともに、ツァリーツァ渓谷から市街地への突入を開始した。攻撃の重点が置かれたのは、官公庁やウニヴェルマーク・デパート、二つの駅とフェリー乗り場のある市街地南部だった。ヒトラーは当初、この戦闘は比較的早期に終結すると予想していたが、爆撃と火災により瓦礫の山と化した廃墟を効果的に使って防衛するソ連第62軍の激しい抵抗に遭う。建物一つ、部屋一つを奪い合う市街戦は冬季にまでもつれ込んだ。ドイツ軍がコンクリートの塊となった廃墟に突入しても、ソ連兵は上階で頑強に抵抗し、完全に占拠しても地下道や下水道を使って逆襲をかけてきた。地下壕は発見されるや、負傷兵や避難民ごと火炎放射器で焼き尽くされたが、後方の建物や窪地、瓦礫の中にはソ連の狙撃兵がいつの間にか入り込んだ。狙撃兵は、なるべく高い階級の敵の将校に照準を合わせ、あるいは伝令や斥候、補給要員、工兵を集中的に狙った。こうした狙撃兵の中からは、シベリアから派遣されたパチェク大佐の第284狙撃師団に属し、149人のドイツ軍将兵を射殺してソ連邦英雄となるヴァシリ・ザイツェフのような人物も現れる。あるドイツ軍将校の手記にはこう記されている。悪臭や煙が充満する中で、虱にまみれ、建物の影や穴、地下壕を這っての戦いは、ドイツ兵によって「ラッテン・クリーク」(ネズミ戦争)と揶揄された。一方、チュイコフたちは、ネズミを罠にかけるチーズの役割に徹することとなる。9月に入って、ルジェフ付近における中央軍集団の正面ではソ連赤軍の新たな部隊が現れて散発的に攻撃を加えては後退するという現象が続き、冬季にむけて大規模な予備兵力が蓄積されつつある兆候がうかがえた。陸軍総司令部 (OKH) 参謀総長フランツ・ハルダー上級大将はかねてよりヒトラーと意見が衝突していたが、上記のようなソ連赤軍の動きへの対応をめぐって両者は決裂し、9月24日にハルダーが更迭される。後任にはハルダーと違ってヒトラーに従順な、西部軍参謀長のクルト・ツァイツラー少将が、ドイツ陸軍史上最年少の47歳で大将に一足飛びに昇格したうえ任命された。スターリングラードに攻め込んだドイツ第6軍は、決戦の勝利が間近であると確信していたヒトラーの命により市街戦に装甲部隊や貴重な工兵部隊を惜しげもなく投入した。装甲部隊は市街地には不向きな部隊である。市街地は死角が多く、速度・機動力が生かせないことから攻撃する側からは格好の的であり、近距離からの攻撃によって小さい火力でも効果的な攻撃を加えることができ、瓦礫で身動きを奪われた戦車の多くが弱点である上面をさらすことによって、上方からの対戦車銃や火炎瓶で攻撃され損害を出した。第14装甲軍団長のヴィータースハイム大将はこうした用兵に最初から異論を唱えていたが、ヒトラーの逆鱗に触れた結果、市街地突入翌日の9月14日に解任された。後任には、ヒトラーお気に入りの第16装甲師団長フーベ中将が当てられている。火炎放射器や爆薬を扱いなれた突撃工兵部隊はこうした市街戦のまさにプロフェッショナルではあるが、もとより数は少ないうえ戦線各所で必要とされる状況において、ヒトラーにとっては決戦の地と思われたスターリングラードに重点的に運用された。市街地戦闘における工兵の戦闘行動はソ連軍狙撃兵にとって格好の標的となり、急速に数を減らしていった。「手榴弾や拳銃の弾丸が届く50ヤード以内で敵と向かい合え」と抱擁戦を命令したチュイコフ中将が意図したように、両軍がきわめて狭い空間に入り乱れて対峙した結果、ドイツ軍は電撃戦の強さの秘訣であったユンカース急降下爆撃機からの効果的な支援が得られなくなった。廃墟と化した都市の瓦礫のなかで敵と味方が極めて近距離に相対する状況という市街戦は、第一次世界大戦の塹壕戦にも似た一大消耗戦となったのである。なお、主力部隊を突出部の先端であるスターリングラードに密集させ、弱体なルーマニア軍に第6軍の両翼を守らせるという戦略の危険性については、第4歩兵軍団長ヴィクトル・フォン・シュベドラー大将がヒトラーに率直に進言したが、「敗北主義者」と罵倒されて10月に解任される。しかし、シュベドラーの危惧は約1ヵ月後に、ものの見事に的中することとなる。シュベドラー大将が枢軸軍側のアキレス腱と指摘したルーマニア第3軍の指揮官であるペトレ・ドゥミトレスク大将も、自分たちが直面している危険性を早い時期から認識しており、特にソ連軍によるドン川橋頭堡強化を何度も警告していたが、ヒトラーがフェルディナント・ハイム中将の第48装甲軍団から予備兵力としてドイツ第22装甲師団をペラゾフスキーに回す決定を下したのは、ソ連軍の本格的反攻が始まるわずか9日前の11月10日のことであった。こうしたドイツ軍内の混乱が続くなか、ソ連赤軍はスターリングラードの防衛に集中し、ドイツ軍を釘付けにすることにより、予備兵力の訓練と展開の時間を稼ぐことが可能となった。共産党中央からは、のちに首相となるゲオルギー・マレンコフ中央委員会書記やニキータ・フルシチョフ軍事会議委員らが派遣され、政治委員として督戦にあたった。また、ラヴレンチー・ベリヤが統括する内務人民委員部(NKVD)は厭戦的な将兵の摘発や逃亡の阻止に努めた。ソ連当局にスターリングラードで処刑された将兵は、1個師団の兵力を上回る1万3千人に達している。ワシーリー・チュイコフ中将の指揮下で、ソ連軍第62軍は徹底した持久戦、接近戦、および白兵戦を行った。経験を重ねた赤軍将兵は、自動小銃や拳銃、ナイフ、刃を入れたスコップなどを携えてドイツ兵に忍び寄り、執拗に近接戦を展開した。また、敵が潜む可能性のある部屋に手榴弾を投げ入れ、爆発直後に自動小銃を構えて突入し、粉じんの中を手当たり次第に乱射して制圧し、さらに次の部屋の制圧に向かうというチュイコフ中将が立てた戦術はドイツ軍将兵に心理的ストレスを与えた。こうした戦術は、戦後に多くの国の特殊部隊で採用されたほど制圧効果があった。ソ連軍最高指揮官代理ゲオルギー・ジューコフ上級大将と参謀総長アレクサンドル・ヴァシレフスキー大将のもとで、9月12日にスターリンの許可を得て極秘裏に2ヵ月にわたり準備された、100万人の将兵と戦車部隊の6割にあたる980両で両側面のルーマニア軍を粉砕し、スターリングラードの第6軍を逆包囲するというウラヌス作戦(天王星作戦)が発動される。各部隊は無線の発信を厳禁され、作戦目的も数日前まで極秘とされた。こうした情報封鎖のもとで、数週間前から第62軍への弾薬補給も理由なしに削減されており、限界に近い戦闘に直面しているチュイコフが苛立つほどだった。くわえて、悪天候が続いたために航空偵察が妨げられたのでソ連軍の大反攻は完全にドイツ軍の裏をかいた。ドイツ軍は、ソ連軍予備兵力の量を甘く見ていたうえ、第二次ルジェフ会戦を予知し、9月以来中央軍集団に威力偵察を加えてきた予備兵力も、モスクワに近いルジェフに充てられると判断していた。予想通りルジェフでもソ連赤軍は11月25日よりジューコフの直率による攻勢を開始し、待ち構えた中央軍集団によって大損害を受けたが、それは中央軍集団の兵力を移動させないための対策にすぎなかった。ドイツ軍および枢軸軍の死傷者は約85万人、ソ連赤軍のそれは約120万人とされている。全体で7万近くのソ連軍捕虜が対独協力者(ヒヴィ)として第6軍に動員されたが、生存者はほとんどいなかったとされる。攻防戦が終結した時点で戦前は60万を数えたスターリングラードの住民はわずか9796名に激減していた。ヴォルガ対岸に疎開したり、ドイツ軍によって後方に運ばれた人々も少なくなかったが、少なくとも20万人程度の民間人が死亡したと見られている。包囲されたドイツ第6軍と枢軸国軍の将兵30万あまりのうち、2万5,000人の傷病兵などが空軍によって救出されたが、パウルス元帥と24人の将軍を含む、生き残りの9万6000人が降伏した。捕虜の運命は過酷で、ベケトフカの仮収容所まで雪道を徒歩で移動する際に落伍した将兵は、そのまま見捨てられ凍死するかソ連兵に殺害された。ソ連軍は自軍に支給される食料の半分を捕虜に回したものの全員には行き届かず、さらに仮収容所で発疹チフスが大流行し、数週間のうちに約5万人が死亡した。生存者はその後、中央アジアやシベリアの収容所に送られるが、ここでも過酷な労働で多くの者が命を落とし、戦後に生きて祖国へ帰国できたのは僅か6,000人であった。しかし、パウルス元帥や将軍たちは優遇された。中にはザイトリッツのように、「ドイツ将校同盟」の議長として反ヒトラー宣伝に積極的に協力する人物もいた。コーカサス地方の制圧を目指したA軍集団はソ連軍の抵抗と補給難からテレク河で前進が止まっていたが、ソ連軍のドン川西岸進出により、退路を断たれて壊滅する危険が生じた。しかし、マンシュタイン元帥の適切な指揮にくわえ、スターリングラード包囲網にソ連赤軍が釘付けとなったため、ソ連赤軍のサトゥルン作戦開始は遅れた。ロストフをソ連軍が奪回したのは、第6軍降伏からわずか12日後の2月14日だった。この間に、クライスト上級大将のA軍集団は、いわば第6軍を生け贄としてハリコフ方面に撤退することができ、二つの軍集団壊滅という最悪の事態をなんとか逃れることができた。以上のように、ドイツ軍は第6軍のすべてと第4装甲軍の主力が包囲殲滅されるという惨憺たる敗北に終わった。戦傷を含めるとスターリングラード攻防戦を通じての人的損害は、ドイツ陸軍総兵力の4分の1にあたる150万人におよび、3500両の戦車・突撃砲、3000機の航空機が失われた。コーカサスからの撤収に成功したクライスト上級大将のA軍集団も、膨大な重火器と車両を遺棄しており、数ヶ月分の生産量に相当する大損失となった。1941年開戦時(バルバロッサ)における戦線全域における攻勢の失敗、1942年(ブラウ)における地域限定の攻勢の失敗、これらはドイツ陸軍にとって戦闘能力についての限界を示す重大な事柄であった。また、工業生産能力の限界から、これ以降、ドイツ軍は東部戦線において広い正面で攻勢をかけられる兵力を持つことができなくなり、決定的勝利を得るための攻勢を起こす機会は二度と得られなかった。ドイツ陸軍の次の夏季攻勢は、バルコンと呼ばれるような極めて狭い地域を巡る戦いへとなっている。もはやナチス・ドイツ軍が開戦前に持っていた優位性は失われていた。にもかかわらずナチス・ドイツ軍およびヒトラーは劣勢を兵器の優劣で補おうとした。そのことが今後の兵器開発に大きな混乱を招いた。枢軸同盟国も、ルーマニア第4軍とイタリア第8軍がほぼ全滅、ルーマニア第3軍とハンガリー第2軍が部隊の大半を失うなど甚大な損失を出している。とくにイタリアは北アフリカ戦線で劣勢になっており、ドイツからの離反を図ったガレアッツォ・チャーノ外相が更迭されるなどムッソリーニ政権に大きな動揺がみられた。くわえて親枢軸国であったトルコとスペインがドイツ側に立って参戦する可能性が失われたため、軍事的のみならず政治的、外交的にもドイツの受けた打撃は甚大だった。緒戦の段階では、ドイツ空軍は第4航空艦隊がメッサーシュミット Bf109戦闘機によって貧弱なソ連空軍戦闘機を一掃し、スターリングラードの制空権を掌握したうえで、陸空協調という戦略のもと、徹底した銃爆撃をソ連軍陣地やヴォルガ川を渡る船舶に加え、多大の打撃を与えていたが、陸軍同様にしだいに消耗していった。包囲されたドイツ軍の脱出をヒトラーが認めなかった背景の一つには、前述のように空軍総司令官のヘルマン・ゲーリング元帥が空輸による食料、弾薬、燃料、および兵員の補給が十分に可能であると見得を切ったことがあげられる。これは、同年春におけるデミャンスク包囲戦の際、包囲された10万のドイツ軍が、輸送機による補給で72日間耐え抜いたすえ、軽微な損害で脱出に成功したという先例が、楽観論の根拠となっていた。しかし、戦地の状況はデミャンスク包囲戦よりはるかに深刻だった。厳冬期という気象的条件、そして要求される物量もデミャンスクより格段に過酷な条件であるにも関わらず、スターリングラードへの航空補給をゲーリング元帥が軽々に請け負ったことは、きわめて大きな代償を負うこととなる。包囲されてしまった味方部隊の総数すら把握できない状況とはいえ、デミャンスクと比較してはるかに大規模であることは確実だった。しかし、全体的に輸送機が不足していたうえに悪天候と気温の低下が続き、航空機の離着陸を大きく妨げていた。さらに、デミャンスク包囲戦の場合と違って強力な予備兵力が後方に存在しないうえ、敵軍の兵力は格段に大規模だった。開戦当初こそ数多くの撃墜数をドイツ空軍に献上したソ連空軍だったが、戦闘機パイロットは次第に空中戦の技量を上げてきており、スターリングラード周辺でも、セルゲイ・ルジェーンコ空軍大将の第16航空軍による邀撃が激しくなってきた。その中には、ドイツ空軍将兵から「スターリングラードの白い薔薇」と注目されたリディア・リトヴァクのような女性操縦士も含まれていた。ドイツ戦闘機の消耗とともに、低速力で軽武装のJu 52輸送機は、ソ連軍戦闘機にとって格好の攻撃対象となっていく。さらに地上では、包囲環外周に1平方キロあたり100門の高射砲という徹底した対空陣地が待ち受け、多くの輸送機が撃墜された。第6軍は1日700トン、最低でも300トンの補給を求めたが、平均到着量は110トン前後にすぎず、純粋な部隊維持用の補給も一度としてなされることはなかった。これにより、機械化されていないドイツ軍が多数保持しなければならなかった馬匹は飼料欠乏により維持不能となり、同時に馬を食料にせざるを得ないという結果がもたらされた。あわせて、撤退時にはすべての重砲や砲弾、車両を放棄することを意味していた。また、タツィンスカヤ、モロゾフスカヤといった飛行場も次々にソ連軍に占領され、輸送機の飛行距離は増大していった。ピトムニクとグムラクの着陸地が奪われた後は、第6軍の維持はパラシュートによる補給品投下に頼らざるをえなかった。もとより、このような方法によって十分な補給ができるはずもなく、さらに投下された補給品の多くは、衰弱しきったドイツ兵がたどりつく前にソ連兵に回収される有様だった。無謀な任務を負わされ、現地で空輸作戦を統括したエアハルト・ミルヒ元帥は、ゲーリングの無知と怠慢に憤った。さらに、実現困難な命令に反発した空軍兵によるサボタージュすら発生した。最終的には、この空中補給作戦を遂行するために488機もの輸送機と1000人を越えるパイロットが失われた。特に飛行学校の訓練機と教官を多数失ったことは、ドイツ空軍が弱体化する要因の一つとなる。そして、「第6軍を養う」という約束を実行できなかったゲーリング元帥の威信も、英米軍によるドイツ本土爆撃の本格化とあいまって大きく損なわれ、ナチス党率いるドイツ政府No.2という地位を実質的に失うことになる。しかしながら、権限を持ったままのゲーリングの存在が空軍の統帥をますます混乱させることになるのである。

出典:wikipedia

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