ラファエル・フォン・ケーベル(, 1848年1月15日 - 1923年6月14日)は、ロシア出身(ドイツ系ロシア人)の哲学者、音楽家。明治政府のお雇い外国人として東京帝国大学で哲学、西洋古典学を講じた。ドイツ人の父とロシア人の母のもとニジニ・ノヴゴロドに生まれる。6歳よりピアノを学び1867年にモスクワ音楽院へ入学、ピョートル・チャイコフスキーとニコライ・ルビンシテインに師事し1872年に卒業した。しかし内気さ故に演奏家の道を断念し、ドイツのイェーナ大学で博物学を学ぶが、のち哲学に転じ、ルドルフ・クリストフ・オイケンに師事。30歳で博士号を得た後、ベルリン大学、ハイデルベルク大学、ミュンヘン大学で音楽史と音楽美学を講じた。その後、友人のエドゥアルト・フォン・ハルトマンの勧めに従って1893年(明治26年)6月に日本へ渡り、同年から1914年(大正3年)まで21年間東京帝国大学に在職し、イマヌエル・カントなどのドイツ哲学を中心に、哲学史、ギリシア哲学など西洋古典学も教えた。美学・美術史も、ケーベルが初めて講義を行った。学生たちからは「ケーベル先生」と呼ばれ敬愛された。夏目漱石も講義を受けており、後年に随筆『ケーベル先生』を著している。他の教え子には安倍能成、岩波茂雄、阿部次郎、小山鞆絵、九鬼周造、和辻哲郎、 深田康算、大西克礼、波多野精一、田中秀央など多数がいる。和辻の著書に回想記『ケーベル先生』がある。また漱石も寺田寅彦も、ケーベル邸に行くと深田がいたと記されている。東京音楽学校(現東京藝術大学)ではピアノも教えていた。1901年(明治34年)の日本女子大学校(現日本女子大学)開校式のための「日本女子大学校開校式祝歌」はケーベル作曲という。1903年、日本におけるオペラ初演(クリストフ・ヴィリバルト・グルック作曲「オルフォイス(オルフェオとエウリディーチェ)」の上演)の際、ピアノ伴奏を行った(学生の自主公演だったためオーケストラは使えず)。この際に訳詩を担当したのが教え子の一人である石倉小三郎その他のチームであり、上演資金を農学者・実業家の渡部朔が提供、弟で音楽学校学生の渡部康三や柴田環(後の三浦環)などが出演した。同時に瀧廉太郎のピアノ演奏に深い影響を与え、瀧のドイツ留学時には自らライプツィヒ音楽院あての推薦状を書いている。また幸田延の才能を評価し、欧米留学を薦めた。なお、夏目漱石と幸田延がケーベル邸を訪問した時の昼食レシピから、現在の松栄亭(淡路町)の「洋風かき揚げ」が生まれたというエピソードがある。室内楽奏者としては、当初、ルドルフ・ディットリヒのヴァイオリンとの合奏が最高水準と言われたが、ディットリヒの帰国後、1899(明治31)年に、横浜でアウグスト・ユンケルのヴァイオリンを聴いて彼を東京音楽学校に推挙する。ユンケルはベルリン・フィルやシカゴ交響楽団の要職を歴任するも、風来坊的な性格から長続きせず、日本で役不足の仕事をしていたが、ケーベルに認められて日本楽壇を指導し、太平洋戦争中に生涯を終えるまで日本に永住した。ケーベルとユンケルの合奏も当時の日本で最先端の音楽であった。1904年(明治37年)の日露戦争開戦の折にはロシアへの帰国を拒否したが、1914年になって退職し、ミュンヘンに戻る計画を立てていた。しかし横浜から船に乗り込む直前に第一次世界大戦が勃発し、帰国の機会を逸した。その後は1923年(大正12年)に死去するまで横浜のロシア領事館の一室に暮らした。墓地は雑司ヶ谷霊園にあるが、ロシア正教からカトリックに改宗して生涯を終えた。著作には哲学・美学・音楽分野など専門的なものもあるが、随筆集が最も知られている。晩年、『思潮』などの雑誌に発表し、"(小品集)として大正末期に、深田康算と直弟子の久保勉(1883年 - 1972年)により日本語訳され、岩波書店で『ケーベル博士小品集』、『ケーベル博士続小品集』、『ケーベル博士続々小品集』が出版された。晩年の有島武郎が書評を書いている。1918年に、岩波で出された原文の抜粋『"』は、旧制高校・大学でドイツ語の教科書としても用いられた。久保勉編訳『ケーベル博士随筆集』(岩波文庫)がある。内容は『ケーベル博士小品集』からの再録を軸に、スピーチや書簡など若干の新しい内容を加えたものである。初版は文庫創刊時の1928年に刊行され、1957年に改版され、今日まで重版され続けている。また久保の著書に、回想記『ケーベル先生とともに』(岩波書店、1951年、復刊1994年)がある。
出典:wikipedia
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