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B-29 (航空機)

B-29は、アメリカ合衆国のボーイングが開発した大型爆撃機。愛称はスーパーフォートレス("Superfortress")。第二次世界大戦末期から朝鮮戦争期まで主力爆撃機として活躍した。アメリカ陸軍航空軍機であったが、1947年にアメリカ空軍の独立とともに空軍へ移管された。B-29は、中型爆撃機から発展したB-17と異なり、最初から長距離戦略爆撃を想定して設計されている。B-29による日本本土空襲は、日本の継戦能力を喪失させた要因の1つとなった。高空を飛ぶ場合、従来の飛行機では機内の気圧・気温が低下するため、対策として乗員・乗客に酸素マスクの装備、防寒着の着用が必要であった。しかしB-29は現在の旅客機のように、室内を高度約1,000mと同等の空気圧に保ち快適に飛行できる与圧室を装備しており、乗員は通常酸素マスクなしで15時間搭乗していた。前部居住区画と後部居住区画との往来を確保するために設置された爆弾倉の上の連絡用パイプは本機の特徴のひとつとなっている。ボーイングは第二次大戦直前の1938年に登場した旅客機のボーイング307ですでに与圧客室を採用しており、他にもロッキード社のコンステレーションなどでも与圧室は採用されている。また防寒用の空調も完備され、防寒着の着用も不要であった。撃墜されたB-29乗員の遺体を日本側が回収した際、上半身Tシャツしか着用していないものもあったほど空調は完備されていた。それを知らない日本側は、搭乗員に防寒着も支給できないとして、アメリカもまた困窮していると宣伝を行った。与圧室の採用により、機体に旋回機関銃の射手(銃手)が乗る銃塔が装備できなくなったため、集中火器管制射手が新たに機体後部に独立して取付けられた円蓋から、機銃だけが装備された2つの銃塔を遠隔操作する方式を採用した、これにより、射手が銃塔内から窓越しに見える敵迎撃機に向かって機銃を操作することはなくなり、独立した円蓋から死角なく全方位の接近機を視認することが可能となった。その結果銃塔が非常にコンパクトになっている。また敵機を照準器のレティクル内に捉えるだけで自動的に弾道計算して発砲するという優れたゼネラル・エレクトリック社製の火器管制装置の搭載により、それまで非常に高い練度を必要とした見越し射撃を誰でも行なえるようになった。この結果従来の爆撃機に搭載された防御火器と比較して命中率が驚異的に向上し、敵機はうかつに接近することもできなくなった。B-29に搭載された最新鋭のライト R-3350エンジンには問題も多かった。B-29はひとつのエンジンに2基の排気タービンを装備したエンジンを4つ搭載していた。(B-17は1基の排気タービンを装備した4つのエンジンである。)B-17、B-24に続き過給機として排気タービンを装備。排気タービンは現在乗用車に使用されているターボチャージャーと同じ原理で、排気のエネルギーを利用してエンジンに圧縮された空気を送り込む装置。空気が希薄な高空でのレシプロエンジンの性能を確保するため、各国で開発が進められていたが、大戦中に実用化したのはアメリカのみだった。この他、高高度での出力を確保する手段として、アメリカとイギリスでは機械式の2段2速過給機が実用化されていたが、ドイツや日本では1段2速過給機を装備していた。このタービンには排気ガスと回転による高温高圧がかかるため、高度な合金・冶金技術が要求されるものであった。しかしながらアメリカは消耗品と割り切って設計した事により、他国にさきがけて排気タービンを実用化できた。戦時中、日本では「超空の要塞(ちょうくうのようさい)」と呼ばれていた。当時の報道で、B-17が「空の要塞(そらのようさい)」と呼ばれ、B-29がそれを超えるものとして伝えられている。アメリカ軍が対日戦において付けた愛称には、トウジョウズナイトメア、タナカターマイトがある。他にもチョットマッテ(第98爆撃群第344爆撃隊所属、機長ウォルター・リーチ大尉)、カグツチ、トウキョウローズ、ヨコハマヨーヨーの愛称が名前がある。アメリカ陸軍の航空部門は、第二次世界大戦が始まる5年前の1934年5月に超長距離大型爆撃機開発計画「プロジェクトA」を発足させた。これは1トンの爆弾を積んで8,000km以上を飛ぶことができる爆撃機を作る計画で、ヘンリー・ハップ・アーノルド将軍を中心とし長距離渡洋爆撃を想定していた。B-29はこの構想の中から生まれた機体で、1938年に完成した試作機(ボーイングXB-15)から得られた種々のデータや、新しい航空力学のデータをもとに設計製作された。そして1939年9月1日のナチス・ドイツ軍によるポーランド侵攻が行われた同日、アメリカのキルナー委員会は、陸軍は今後5年間で中型・若しくは大型の戦略爆撃機の開発を最優先とされるべきとの勧告を行っている。1940年6月27日、XB-29が発注され、1942年9月21日に試作第一号機であるXB-29-BOがエディ・アレンと彼のチームによって初飛行した。エディ・アレンは試作二号機(製造番号41-003)のテスト飛行も担当したが、1943年2月18日のテスト飛行中に発生したエンジン火災によって機体が失われた際、事故死した。なお、41-003はB-29最初の事故による喪失機である。その後改良が施され、試作三号機(製造番号41-8335)が量産モデルとして採用された。1944年4月にヨーロッパ経由でインドへ向かう途中、イギリス本土に立ち寄ったB-29はドイツ空軍偵察機に偶然発見された。高性能で迎撃が極めて困難な新型爆撃機B-29実戦投入の事実はドイツ空軍を狼狽させ、高々度戦闘機の導入や更に革新的なジェット戦闘機Ta183を新規開発をすることとなった。しかし、B-29はすでに1943年8月のケベック会談で対日戦専用とされ、ドイツ空襲には使用されなかった。同年4月26日、ビルマ戦線(ビルマ航空戦)にて、単機移動中であった第444爆撃航空群所属のB-29が中印国境にて日本陸軍(陸軍航空部隊)飛行第64戦隊の一式戦闘機「隼」2機と交戦。双方ともに被弾のみで被撃墜機はなかったが、これがB-29の初戦闘となった。インドからさらに中国内陸部成都へ移動し、6月半ばから満州国、東南アジアそして日本本土の九州方面に爆撃を行なった。B-29は当初、軍事工場などに対する高々度からの精密爆撃に用いられた。昼間迎撃には、単発単座の二式戦闘機「鍾馗」、三式戦闘機「飛燕」、四式戦闘機「疾風」、五式戦闘機、零式艦上戦闘機、雷電、紫電改などが使用された。しかし、日本の単発戦闘機は性能面で高高度飛行を苦手とし、また大戦後期になって材料や工員の質が低下した上、高オクタン価の航空燃料や高品質潤滑油の入手も困難になっていたため、排気タービン・インタークーラーを装備しているB-29の迎撃は困難であったと言われている。1万mもの高空を巡航速度が乗った状態で飛行するB-29に対しては追いつくのも困難であり、またかろうじて一撃をかけたとしても、高度を回復できずにその後の攻撃が続かないという有様であった。このため陸軍の震天隊・回天隊や、海軍は厚木基地所属の雷電による体当たり攻撃も行われた。夜間の双発複座戦闘機による迎撃も行われ、B-29の日本本土初来襲(八幡空襲)である1944年(昭和19年)6月16日から終戦まで、二式複座戦闘機「屠龍」で北九州の夜間迎撃に参加した飛行第4戦隊の樫出勇陸軍大尉はB-29の26機撃墜を報告している。6月16日、八幡製鐵所を主目的とする日本本土初空襲たる八幡空襲にはB-29 75機が参加、喪失損害は事故を含め7機喪失(うち被撃墜は2機)、6機被弾であった。8月20日に行われた再度の八幡爆撃では、飛行第4戦隊は80機のうち23機撃墜を報告、これに対して損害は3機未帰還、5機が被弾であった。米軍側の損失記録では出撃61機中14機損失、うち対空火器によるもの1機、航空機攻撃によるもの4機、空対空爆弾によるもの1機、衝突によるもの1機、日本機撃墜17を報告している。11月5日、第468超重爆撃航空群のB-29の53機はシンガポールを爆撃、日本陸軍からは第1野戦補充飛行隊8機・第17錬成飛行隊7機からなる一式戦「隼」15機が邀撃にあたり、B-29は一式戦「隼」1機を撃墜するも最高指揮官搭乗機である1機を喪失(第468超重爆撃航空群指揮官フォールカー大佐機)。B-29が膨大な燃料を必要とするゆえに成都への燃料輸送に必要とした労力もまた膨大であり効率的なものではなかった。東京など日本の主要部への本格的な参戦は1944年11月からで、11月1日にトウキョウローズ(機体番号#42-93852、第73爆撃航空団所属)が東京偵察を行ったのが始まりである。このB-29は派生形のF-13であり、この型には他に第2回東京偵察行を行い、のち戦時公債募集キャンペーンにも用いられたヨコハマヨーヨー(#42-24621)など、偵察任務に使用された。その後11月24日以降はマリアナ諸島のサイパン島、テニアン島およびグアム島から日本本土のほぼ全域に対する戦略爆撃を開始した。当初は爆撃対象を軍施設や軍需工場に限定して高高度からの精密照準爆撃を行なったが、当時ジェット気流の影響がアメリカには知られておらず、その影響で目標から外れることも多かった。1944年11月29日には第73航空団所属の29機が初めて東京の市街地へ無差別爆撃を行い、ハロルド・M・ハンセン少佐の指揮する機体番号#42-65218機が帰路、海上で墜落しハンセン少佐以下搭乗員全員戦死したものの、この1機の損失のみで作戦を遂行した。1944年12月18日、三菱重工名古屋機体工場を爆撃したレオ・E・コンウェイ中尉の指揮する機が損傷し、編隊から脱落したところを陸軍飛行第55戦隊遠田美穂少尉らが集中攻撃をかけて撃墜。サイパンのB-29を指揮する第21爆撃集団司令官であるヘイウッド・S・ハンセル准将は、1944年11月23日から出撃命令を出していたが、マリアナ基地の未完と天候に恵まれず戦果を上げることができなかった。そのため、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルドは、中国からのB-29の爆撃をやめさせてその部隊をマリアナに合流させ、1945年1月20日、ハンセルの後任としてカーチス・ルメイ少将を司令官に任命した。アーノルドはルメイが中国から行った高い精度の精密爆撃の腕を買い、1944年11月13日の時点でルメイの異動を検討していた。ルメイはすでにハンセルによって準備、実験された無差別爆撃の方針、戦術を基本的に踏襲したが、ルメイの独創性は進入高度の変更にあった。従来は高度8500mから9500mの昼間爆撃を行っていたが、高度1500mから3000mに変更した。理由はジェット気流の影響を受けないこと、エンジン負荷軽減で燃料節約し多くの爆弾を積めること、爆撃が正確に命中すること、火災を密度で合流し大火災にできることであった。しかし低空では敵の迎撃機、対空砲があるため夜間爆撃にした。また機銃、弾薬、機銃手をB29から取り除き一機当たり爆弾を200キロ増やせるようにし、編隊ではなく単機直列に変更した。ルメイの変更に乗員は恐怖したが、結果的にB29の損害は軽微であった。それ以降続けられた東京・名古屋・大阪をはじめ、日本各地の都市に対する爆撃は効果を発揮した。夜間は、センチメートル波の小型機上レーダーはおろか、各機を管制する防空システムすら不十分な日本側は効果的な迎撃を行うことができず、斜め銃・上向き砲を装備した双発の月光、二式複戦「屠龍」の夜間戦闘機が爆撃の火災に照らし出されるB-29を発見・攻撃する状態であり、灯火管制の中止を要求する飛行隊もあった。日本軍戦闘機の機上レーダーの不備と防空管制システムの不十分さに気づいたカーチス・ルメイは、東京大空襲の際には高度7,000-8,000ft(2,100-2,400メートル)の低高度から焼夷弾を投下する作戦を採った。その際B-29の尾部銃座以外の防御火器(旋回機関銃)を撤去し爆弾搭載量を増やした機体を運用した。この改造作業はベル社生産機体で主に実施された。日本陸軍は高度1万mの高高度を飛行する爆撃機を迎撃可能な三式十二糎高射砲や五式十五糎高射砲を制式化し日本劇場や両国国技館の屋上などに設置した。実際に三式十二糎高射砲はB-29を10機以上撃墜するなど一定の戦果を挙げたが、生産数は三式十二糎高射砲が120門、五式十五糎高射砲に至っては2門と極めて少なく、全国各地の都市に対して100-500機以上の編隊で行なわれる無差別爆撃に対してほとんど機能しなかった。日本高射砲部隊の主力装備はB-29に対しては射高不足の八八式七糎野戦高射砲と九九式八糎高射砲であり、当時の国民から「当たらぬ高射砲」と悪口を言われた。しかし、戦後にアメリカ軍が発表した損害記録では、日本上空で撃墜あるいは損傷を受けたアメリカ軍機(主としてB-29)のうち高射砲によるものは1,588機で全体の65%を占めており、本土防空の主力として活躍したのは防空戦闘隊ではなく高射砲部隊である。また、首都防空を担当する高射第1師団にいた新井健之大尉(のちタムロン社長)は「いや実際は言われているほどではない。とくに高度の低いときはかなり当たった。本当は高射砲が落としたものなのに、防空戦闘機の戦果になっているものがかなりある。いまさら言っても仕方ないが3月10日の下町の大空襲のときなど、火災に照らされながら低空を飛ぶ敵機を相当数撃墜したものです」と発言している。8万人以上の一般市民が焼死し、100万人以上が被災した東京大空襲や、1万人が焼死したとされる大阪大空襲は、B-29の重要な「戦果」とされる。さらに日本各地の港湾・航路に空中投下機雷を散布して海上封鎖を行い、国内航路に大打撃を与えた(飢餓作戦)。特に関門海峡はじめ主要な港湾や海峡に多くの機雷が投下された。当初は数十機編隊で、1機あたり爆弾の搭載量も2-3トンであったが、1945年になると防御火器を撤去し5-6トンを搭載するようになり、最盛期にはB-29約400-500機の大編隊で来襲するようになった。同年春以降は、東京・大阪・名古屋などの大都市をほぼ焼き尽くしたので、地方都市を目標とし、数十機から百数十機で爆撃した。また、アメリカ軍は同年6月以降、爆撃予告ビラを作成し、B-29によって全国32の都市へばら撒いたとされ、約半数の都市を実際に爆撃した。日本国民に向けた声明とB-29が爆撃をする予定の都市を記したもの、爆撃後の日本国民の惨状を文章と絵で示したものなどがあった。B-29がばら撒いた爆撃予告のビラは「内務省令第6号 敵の図書等に関する件」により、拾っても中身を読まずに警察・警防団に提出することが国民の義務とされ、「所持した場合3か月以上の懲役、又は10円以下の罰金。内容を第三者に告げた場合、無期又は1年以上の懲役」という罰則が定められていた。住んでいる都市が爆撃予定にされていることを知っていたとしても、役所から「避難者は一定期日までに復帰しなければ、配給台帳から削除する」などと告知され、避難先から帰還する者が多くいたため、実際に爆撃された場合、被害が広がることになった。被弾・故障し帰還および帰還後に喪失するB-29が多いため、不時着用と護衛戦闘機の基地として硫黄島が選ばれ、アメリカ軍は多大な犠牲を払って日本軍からこの島を奪取した(硫黄島の戦い)。同島までたどり着けないB-29のために、東京湾近辺に潜水艦が配置されて乗員の救助にあたった。1945年3月に硫黄島がアメリカ軍に占領され、護衛機としてP-51Dが随伴するようになると、空中戦における運動性能が低い双発戦闘機は使用できなくなり、単発戦闘機の迎撃も一段と困難になった。それでも300機以上に達するB-29の日本本土作戦による喪失機の半数以上(硫黄島陥落前の大半)は日本軍戦闘機の通常攻撃(体当たりではない)によるもの、高射砲よるもの、またはそれらの攻撃を受けての損傷により飛行不能となって不時着したものであった。特に京浜地区の防衛を担う立川陸軍飛行場や調布陸軍飛行場に配備されていた二式戦「鍾馗」・三式戦「飛燕」、海軍厚木基地・横須賀基地に配備されていた雷電はB-29にとっても危険な存在で、爆撃後背後から襲いかかられ一度に十数機が被撃墜・不時着の憂き目に合うこともしばしばであった。同年8月、広島市・長崎市に、原子爆弾(新型爆弾)を投下し、広島・長崎あわせて30万人以上の市民を殺戮した。広島市に原子爆弾を投下したB-29はエノラ・ゲイ、長崎市に原子爆弾を投下した機はボックスカーと呼ばれる。広島にはウラン型の「リトルボーイ」が、長崎にはプルトニウム型の「ファットマン」が投下された(詳細は広島市への原子爆弾投下、長崎市への原子爆弾投下参照)。アメリカではこれらの戦果により、日本の終戦を早め「本土決戦」(日本上陸戦・オリンピック作戦)という大きな被害が予想される戦いを避けることができたと評価している。原爆機の搭乗員は「ヒーロー」として戦後各地で公演を行い、広島市に原子爆弾を投下したエノラ・ゲイは、退役後、分解されて保存されていたが復元されスミソニアン博物館に展示されることとなった。また、ボックスカーは国立アメリカ空軍博物館に実機が保管されている。香淳皇后は、ポツダム宣言を受託した1945年8月15日から数日後、疎開先の皇太子(今上天皇)に手紙を送っている。その中には「毎日B-29や艦上爆撃機、戦闘機などが縦横無尽に大きな音を立てて朝から晩まで飛び周っています。この手紙を書きながら、頭を上げて外を見るだけで、何機大きいのが通ったのかわかりません。B-29は残念ながら立派です」と書き記している。大戦後も冷戦構造が顕在化した1948年のベルリン封鎖の折には、ソビエト連邦の西ベルリンへの包囲網に対抗して西側諸国が空輸作戦を展開し、B-29もその作戦に参加した。当時、イギリス本土に展開したB-29には原子爆弾が搭載されていると騒がれ、ソビエト連邦軍には脅威に映った。しかし実際にはB-29には原子爆弾は搭載されておらず、西ベルリンを包囲するソ連軍に対する威嚇と牽制が目的であった。1950年6月に始まった朝鮮戦争の初頭、ソビエト連邦の支援を受けつつも北朝鮮軍(共産軍)はジェット戦闘機を主体とする本格的な航空戦力を持っていなかった。アメリカ軍を主とした国連軍は、朝鮮戦争初頭には朝鮮半島の制空権を有し、B-29は自由に高高度爆撃を行なった。洛東江(ナクトンガン)戦線で、1950年8月釜山を攻略すべく攻勢を準備中だった北朝鮮軍に向け、98機のB-29が26分間に960トンの爆弾を投下し絨毯爆撃を加えた。平壌に対しても昼夜にかけて爆撃を加えた。1994年に死去した金日成は生前、「米軍の爆撃で73都市が地図から消え、平壌には2軒の建物だけが残るのみだった」と述べた。しかし1950年10月19日に中国人民志願軍が参戦すると、同軍に所属するソ連製戦闘機MiG-15が戦闘空域に進出し、形勢が逆転した。ジェット戦闘機MiG-15の最大速度は1,076 km/hに達し、また装備している37mm機関砲も強力であり、MiG-15の性能は、朝鮮戦争初頭にはアメリカ軍ジェット戦闘機を凌駕するものであった。アメリカ軍はこの戦況に対し、急遽後退翼を持つ高速の最新鋭機であるF-86Aセイバーを投入、朝鮮半島の制空権の回復に努めた。北朝鮮軍の脆弱な防空体制により、低空から悠々と爆撃していたB-29にMiG-15が襲い掛かり、それまで戦闘での損失が殆どなかったB-29が撃墜破されることもあった。1951年4月12日には、中朝国境にかかる鉄橋を攻撃するため出撃した48機のB-29に数十機のMiG-15が襲い掛かり、3機のB-29が撃墜され7機が撃破されている。B-29は危険を回避する為、低空爆撃を止め、20,000フィートからの高高度からの爆撃を行ったり、開発された近距離ナビゲーションシステムを使用しての夜間爆撃を行った。当初はMiG-15に苦戦したB-29であったが、その後は損失も減り、中朝国境の多くの橋や北朝鮮の発電施設の90%を破壊し化学工場を一掃した。朝鮮戦争休戦までにB-29は延べ21,000回出撃し、約167,000トンの爆弾を投下したが、MiG-15などの戦闘機に撃墜されたのはたった16機であった。逆にB-29は搭載火器で17機のMiG-15を撃墜し、11機を撃破している。その他B-29は4機を高射砲で撃墜され、14機がその他の理由で失われたが、合計損失数は34機に過ぎず損失率は0.1%にもならなかった。これは太平洋戦争での損失と比べると軽微な損失ではあったが、もはやジェット戦闘機には対抗できないことが明らかとなった。B-29の後継機は、改良型のB-50およびB-36だが、上述のジェット戦闘機による撃墜が増えたことやB-52などのジェット爆撃機が戦略爆撃機の主力となったことなどで、朝鮮戦争後は次第に旧式機とみなされ主力から離れていった。しかし、1954年頃の対ソ連核攻撃シナリオでは、B-29も主力と見なされていた。一方、ソビエト連邦でも日本爆撃後に不時着したB-29を分析し模倣した爆撃機Tu-4を製造し、Il-28やTu-16などその後の爆撃機に引き継がれた。1950年代に超音速機の開発の際にX-1などの超音速機を吊り下げて上空で切り離す役目を果たしたことが末期の活躍であり、この様子は映画ライトスタッフに登場する。その後1960年代に入る頃には退役した。1953年にテックス・アヴェリーにより、B-29を擬人化し妻子を持たせた米国製アニメ『ぼくはジェット機』が製作され、日本でもテレビ放映された(主にトムとジェリーとの併映)。そこではプロペラ機がジェット機に世代交代して衰退する、その当時予測された将来図(そして実際に現実となる)が描かれている。アメリカにおいてはその搭乗員と共に英雄的存在であり、搭乗員が亡くなった際に「父は父のB-29でクルーと一緒に天国へ飛んで行っただろう」との言葉を残した遺族も知られている。陸軍航空軍が作成したマニュアル類は全て公開されており、日本語翻訳が出版されている(B‐29操縦マニュアル ISBN 978-4769809272)。グリーンランドには1947年に不時着したB-29キーバードが20世紀末まで存在していた。1994年、アメリカの有志が機体を修理し本国に帰還させるプロジェクトを実施したが、離陸のため滑走中に機体後部から発火し、喪失している。B-29所属部隊の戦績と損失損失原因が判明している147機についての損失原因の構成比率アメリカ軍爆撃機の機種別損失率B-29の損失数は資料によって異なり、損失合計714機(延べ数での出撃した全数は33,000機)で、延べ出撃数に対する損失率は2.2%程度という資料や、また、配置数3,740機、出撃回数31,387回、戦闘損失414機、事故損失119機、輸送損失10機で、延べ出撃数に対する損失率(Combat LossesとBomb Sorties比較)は1.32%程度だとする資料もある。太平洋戦争中アメリカが生産し作戦に投入したB-29の機体数約3,900機対して喪失数は774機で、生産数からの損失率は約20%であった。1980年代までの書籍などではほぼ損害はゼロ、もしくは極めて少数であったように書いているものもあるが、実際にはかなりの数が日本軍の戦闘機や高射砲によって撃墜ないし撃破されている。上表の通り、アメリカ軍の他の爆撃機と比較してもB-29の損失率は決して低くはなかった。B-17は18万ドル、B-24は21万ドル、B-25が12万ドルであったのに対し、B-29の調達価格が63万ドルと高価な機体であった為、損失の増加に業を煮やした陸軍航空軍司令官アーノルドは、「私はB-29がいくらか墜落することは仕方ないと思っている。しかし、空襲のたびに3機か4機失われている。この調子で損失が続けば、その数は極めて大きなものとなるだろう。B-29を戦闘機や中型爆撃機やB-17フライング・フォートレスと同じようにあつかってはならない。B-29は軍艦と同じように考えるべきである。原因を完全に分析もせずに軍艦をいっぺんに3隻、4隻と損失するわけにはいかない。」という手紙を出しハンセルを叱咤している。ハンセルが第21爆撃集団司令官を更迭されると、後任のルメイは部下の搭乗員に「諸君、酸素マスクを捨てろ、ルメイここにあり」と訓示し、低空からの市街地無差別爆撃を多用するように作戦を変更した。また、投入するB-29の機数も増やし、爆撃の効果は飛躍的に増大する一方でB-29の損失も増加した。1945年5月25日には東京大空襲を上回る464機で東京を空襲したが、26機のB-29を損失している。これは一回の作戦で失われた最多のB-29となった。また、最多の564機のB-29が投入された5月23日の東京空襲でも17機のB-29を損失している。B-29の搭乗員にとっても日本本土空襲は厳しい任務であった。特に東京への空襲については高射砲の弾幕も濃密で『地獄の業火』とある搭乗員は形容し、無事でいるためには『奇跡が必要だった』と述懐している。日本軍戦闘機による迎撃も執拗で、激戦の中では護衛のP-51と日本軍機との識別も困難で、B-29の機影以外の航空機に対しては反射的に機銃の引き金を引く習慣がついていた。しかし、アメリカ軍が沖縄に達し、日本本土決戦が現実味を帯びてくると、日本軍は航空機を温存する方針を決定した。逆に本土に来襲するB-29は増加していたため、B-29が日本軍の戦闘機から攻撃される回数が減少し、損失も減っていくこととなった。対日戦でB-29が最後に失われたのは1945年8月8日で、3つの作戦に合計381機が出撃したが7機を失っている。B-29の出撃総数と第21爆撃集団のB-29出撃1回に対する日本軍戦闘機の攻撃回数推移戦死や行方不明となったB-29の搭乗員は合計3,041人であった。B-29搭乗員に対して「万一日本国内に不時着した場合でも、日本の一般市民の捕虜に対する取り扱いは至極人道的なものなので抵抗しないように」との指示があった。実際、軍事目標のみを爆撃した精密爆撃の搭乗員は正式な捕虜として捕虜収容所に送られた。しかし1945年3月10日以後、非戦闘員への無差別爆撃が開始されると事情は変わる。彼ら無差別爆撃を実施したB-29搭乗員に対して、爆撃を被った一般市民の理性を期待することはほとんど不可能で、私刑の上虐殺される危険があった。このため憲兵隊や警察は第一にB-29搭乗員の身柄確保に努めた。しかし身柄確保されても暴行を受けることもあり、軍人や軍関係者が関与し殺されたB-29搭乗員もいた。老人や女子供ら都市民に対する無差別爆撃をおこなったB-29搭乗員の捕虜は戦時国際法上の捕虜の扱いを受けず、人道に対する戦争犯罪者とされて略式裁判にかけられ戦時重要犯として処刑された。敗戦後、第13方面軍司令官兼東海軍管区司令官であった岡田資中将は、1945年5月14日の名古屋大空襲とそれ以後の空襲をおこなったB-29搭乗員の捕虜38人を処刑した責任を問われ、B級戦犯として横浜の連合軍裁判所で絞首刑の判決を受け翌1949年9月17日に処刑された。群馬県邑楽町の清岩寺、丹沢山や青梅の山中には墜落し死亡したB-29搭乗員の慰霊碑がある。日本軍は撃墜ないし墜落したB-29を分別しジュラルミンを再利用した。1945年5月、福岡県太刀洗陸軍飛行場を爆撃するために飛来したB-29が第三四三海軍航空隊戦闘四〇七飛行隊の紫電改による攻撃によって撃墜された。その時の搭乗員11人中7人が捕虜となった。後にその捕虜のうち6人は死刑とされ、同年5月17日から6月2日にかけて九州帝国大学医学部において、彼らに対する生体解剖実験が行われた。(九州大学生体解剖事件(相川事件))なお撃墜されたり墜落して日本軍の捕虜となった搭乗員は、広島や長崎など主要都市に置かれた俘虜収容所や陸軍刑務所に収容された。広島と長崎ではB-29による原子爆弾投下の時、収容されていた米軍搭乗員の捕虜からも被爆して死亡した者が出ている。他の都市でも空襲の時、収容されていた多くの米軍搭乗員の捕虜が焼死した。スターリンは再三再四にわたりアメリカに長距離戦略爆撃機の供与を要望していた。しかし、アメリカとしては対日戦重点投入という目的もあった上に、ソビエトが戦略爆撃機を持つということに難色を示していた。そんな折、1944年7月29日の「トランプランプ」、8月の「ケイトポーマット」、及び11月の「ジェネラル・H・H・アーノルドスペシャル」、「ディングハウ」の4機のB-29が日本及び満州を爆撃した後、機体の故障などによりソ連領内に不時着した。ケイトポーマットの機長リチャード・M・マクグリン少佐らパイロット達は抑留された後にアメリカに送還されたが機体は没収され、ジェネラルH・H・アーノルドスペシャルはスターリンの命によりモスクワで解体調査された。トランプランプは飛行試験に供された。そしてアンドレイ・ニコラエヴィッチ・ツポレフらにより解体した部品に基づく設計が行われて1946年夏に完成したのがツポレフTu-4(NATOコードネーム:ブル)である。その後1947年8月3日にモスクワで行われた航空記念日パレードで初披露されたTu-4はその後もエンジンやプロペラなどの改良が行われ、1949年半ばにはソ連戦略爆撃軍で本格的に運用された。1950年代の終わりまでに約1,200機が製造され、そのいくつかは中華人民共和国の人民解放軍に引き渡された。一方、アメリカ空軍はTu-4にアメリカ本土への攻撃能力があることを理解してパニックに陥り、レーダーや地対空ミサイルなどの防空設備の開発を急ぐこととなった。また、アメリカ人はB-29のあからさまなコピーであることを揶揄し「ボーイングスキー」と呼んだという。

出典:wikipedia

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