椎名 誠(しいな まこと、1944年6月14日 - )は日本の作家、エッセイスト、写真家、映画監督。1944年、東京都世田谷区三軒茶屋に5人兄弟の三男として生まれる。父親は公認会計士。1950年より千葉県印旛郡酒々井町と千葉市幕張に転居。1956年、父が死去。翌年に中学校入学。「父親が死ぬとグレなければならないという奇妙な使命感」から不良を目指し始める。中学時代は喧嘩に明け暮れる。1960年、中学校を卒業し千葉市立千葉高等学校に入学。1963年、千葉市立千葉高等学校卒業。同人誌『幕張じゃーなる』創刊。1964年、東京写真大学(現・東京工芸大学)に入学。同人誌『斜めの世界』創刊。1965年、友人の車に同乗中の事故により重傷を負う。東京写真大学を中途退学。代々木の演劇学校に脚本の勉強に通う。同人誌『フモリスト』創刊。1966年、流通業界の専門誌『ストアーズレポート』を刊行しているデパートニューズ社(現・ストアーズ社)に入社。デパート業界を対象とした業界誌『調査月報』の編集を任せられる。1968年、渡辺一枝と結婚、東京都小平市に転居。ガリ版誌『月刊おれの足』創刊。1969年、デパートニューズ社より『ストアーズレポート』を創刊。編集長に就任。1974年、8ミリにてドキュメンタリー作品『神島でいかにしてめしを喰ったか…』を製作。小金井市の8ミリ同好会に参加し、8ミリ映画の製作にのめり込む。1976年、『本の雑誌』創刊号発行。1977年、『本の雑誌』5号の巻頭エッセイとして「さらば国分寺書店のオババ』を執筆。7月、同誌の編集権が目黒考二から椎名に移る。1977年ごろ、『本の雑誌』の経費を稼ぐために、「エロ漫画の原作」のアルバイトを目黒と共同で行っていた。椎名がストーリーを考え、目黒が台本化する形式で、月4、5本は書いていたという。1979年、『さらば国分寺書店のオババ』でエッセイストとしてデビューする。1980年、7月に株式会社本の雑誌社を設立。12月、ストアーズ社を退職しフリーになる。その後は私小説、SF小説、エッセイ、ルポルタージュ、写真集などを多数発表。1987年、株式会社椎名誠事務所設立。1989年、『犬の系譜』で第10回吉川英治文学新人賞受賞。1990年、『アド・バード』で第11回日本SF大賞受賞。映画『ガクの冒険』公開。1991年、映画製作会社ホネ・フィルム設立。1992年、長良川河口堰反対カヌーデモに参加。1993年、映画『あひるのうたがきこえてくるよ』で第10回山路ふみ子映画文化賞受賞。1993年から2007年まで、「週刊金曜日」編集委員を務めた。1996年、映画『白い馬』で日本映画批評家大賞最優秀監督賞、95年度JRA賞馬事文化賞を受賞。1997年、映画「白い馬」でフランス・ボーヴェ映画祭グランプリ受賞、ポーランド子ども映画祭特別賞受賞。2005年3月、「マガジン9条」発起人となった。2011年8月からネット・ミュージアム「椎名誠 旅する文学館」が開館。妻の渡辺一枝はエッセイストで、チベットについての本など、多数の著書がある。娘の渡辺葉は翻訳家でエッセイスト。弁護士の木村晋介は親友であり、妻の渡辺一枝は木村の高校時代の友人である。イラストレーターの沢野ひとしは高校時代の同級生。高校卒業後に、江戸川区小岩のアパート克美荘で、沢野・木村らと共同生活をした。中学生のとき、1枚の写真に出会った。兄が購読していた写真雑誌「アサヒカメラ」の1ページだった。陽のあたる農家の縁側で竹のような籠「いづめ」に入れられてゆったり眠っている赤ちゃんの写真に心が奪われた。このいづめに赤ちゃんを入れてあげた親の心の温かさがその1枚の写真から伝わってきた。ふいに今いる、がさつに閉塞した空間にそうそういつまでも付き合っていなくていいのだと気付き、気持ちを切り換えて、じわじわとその狭い世界から脱出していくように努力した。思いがけない「写真の力」を初めて感じ、写真との関係が密接になっていき、「いつしか将来は写真を仕事としたいと思うようになった」という。写真と文章とを収録した著書は多数あり、写真雑誌『アサヒカメラ』の連載などを受け持っている。デビュー前から8ミリ、16ミリでの自主制作映画を撮っていた。「ガクの冒険」で映画監督としてデビューした後に映画製作会社「ホネ・フィルム」を設立した。他多数
出典:wikipedia
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