G.G.佐藤(ジー・ジー・さとう、本名:佐藤 隆彦〈さとう たかひこ〉、1978年8月9日 - )は、千葉県市川市出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。1978年に千葉県市川市で生まれる。小学校時代から野球を始め、行徳のリトルリーグに在籍。このときのチームメイトには相川亮二がいた。中学時代は野村沙知代がオーナーを務めていた「港東ムース」に在籍し、桐蔭学園高等学校から法政大学に進学。大学時代は内野手としてプレーするがレギュラーの座を奪うことができず、本塁打も通算で1本のみだった。公式戦で外野守備に就いたことは無く、後藤武敏の控えとして後藤が一塁に移動した後に三塁を守った試合が多かったほか、大学3年秋にはシドニーオリンピック予選に出場した阿部真宏の代わりに遊撃手として出場した(4年春にも遊撃手としての出場がある)。この時の体重は104キロで、現在に至るまでの「東京六大学リーグ公式戦に先発出場した遊撃手」として史上最重量。体重は3年春から秋にかけて25キロ増えたが、これはレギュラーを掴めないことに危機感を抱き、「変わりたいんです」と1学年上の根鈴雄次に相談、そして一緒にトレーニングを積んだ結果である。チームメイトに廣瀬純がおり、大学卒業後は廣瀬に追いつき、追い越すことが目標だったという。2008年に廣瀬と再会した時、廣瀬から「お前、すごい選手になったな! 完全に抜かれたわ!」と言われた時は素直に嬉しかったという。卒業後、マイナーリーグ・フィラデルフィア・フィリーズ1Aに入団。大学時代から引き続き内野手としてプレーしていたが、フィリーズ1Aで強肩を見込まれ捕手にコンバートされた。に帰国したのち、ジャニーズ事務所に所属するタレントを警備するアルバイトを経験しつつ受けた西武ライオンズの入団テストで伊東勤に見出され、2003年のプロ野球ドラフト会議では西武が7巡目指名で交渉権を獲得し契約金2000万円、年俸700万円(金額は推定)で入団合意した。1年目のから45試合に出場し、打率.298の数字を残した。プロ初本塁打を含む3本塁打も記録。プロ入り後は捕手登録だったが大学時代に本職だった内野手(一塁手)、指名打者で起用され、捕手登録でありながら捕手としての出場は2軍でも無かった。8月25日には長打力を買われ3番・指名打者でスタメン出場した。は捕手が多いというチーム事情から打撃に専念するため、この年から正式に内野手(主に一塁手)となり、さらに同年後半から外野手に再転向。8月20日に右翼手でプロ初の外野守備に就く。2軍では打率.372・13本塁打と好成績を収めていたが、1軍では打率.214と振るわず、前年より出場機会を減らす結果となった。はシーズン開幕から外野手登録されたため、プロ入り3年目で捕手・内野手・外野手の3通りで登録されたことになる。伊東監督から「キャンプで最も成長した選手」として名前を挙げられるなど実力をつけ、初の開幕スタメンの座を勝ち取り、打率も4割を越え首位打者を争う活躍を見せた。しかし突然の打撃不調に陥り、打率.250付近まで下がってしまい、広島から移籍した福地寿樹の活躍などもあり、6月に2軍降格。外野手登録されたことで守備時の動きを軽くしようとし、趣味のウエイトトレーニングを控えて体重を減らしたことが後半のスタミナ不足につながった。2軍では打率.310でチームトップの11本塁打を放つなど格の違いを見せつけ、9月19日に再昇格されるも活躍できず、10月3日に再降格されてシーズンを終えた。はオープン戦で前年と同じように打ちまくり、5本塁打を放つなど好調ぶりをアピールして、開幕1軍入りを果たした。起用に応えて開幕戦・開幕2戦目と2試合連続本塁打を放ったほか、4月28日の対ロッテ戦でヒーローインタビューを受けた際、2007年における自身のキャッチフレーズを、「ファンを愛し、ファンに愛される選手になりたい」思いから「愛の波動砲 G.G.佐藤」と宣言した。7月にはアレックス・カブレラが離脱したため空位になった4番候補に江藤智・和田一浩とともに名前が挙げられ、調子を上げていたG.G.佐藤が抜擢されて7月11日から4番を任され、カブレラ、和田が不振の時にはクリーンナップを任された。ヒーローインタビューと同時に発売すると予告していた自身の肉体がプリントされた「キモティーシャツ」が7月7日の対ソフトバンク戦でのヒーローインタビュー開始と同時に限定300枚で販売された。後半に少し調子を落としたが右翼手のレギュラーは譲らず、初めて1年を通して1軍に帯同し、規定打席に初到達。本塁打もリーグ5位の25本と量産し、長打率はリーグ4位の.510と5割を越えるなど、中軸打者として活躍した。この年は年間通じて失策を一つも犯さず、守備率10割を達成した。規定打席到達者で年間無失策だったのは、両リーグ通じて大村直之とG.G.佐藤の2人だけだった。補殺数でもリーグ外野手部門4位を記録するなど、肩の強さも見せた。1月の契約更改において、希望額と球団の提示額との間に1000万円程度の開きがあったため折り合いがつかず、年俸調停をパシフィック・リーグ会長に申し立てた。年俸調停の申し立てはの下柳剛以来だったが、申し出は受理されず、再び当事者間で交渉するようパ・リーグから指示を受けた。このため自費での春期キャンプ参加となった。その際、すでに契約している他の選手に出場機会を与えるとの理由で、2月16日から始まる紅白戦で佐藤を参加させない措置が行われたが、選手会から問い合わせがあったことと、若手選手をある程度試したとの理由から20日に解除された。22日に12球団で最後となる契約更改を終了した。納得するまで妥協しないのは「アメリカでの生活で身についたこと」とコメントしている。4月8日に人生初のサヨナラ本塁打を打った。その際、報道で同年1月中旬に一般女性と結婚していたと報じられた。夫人とは2006年オフに知り合ったという。5月の月間成績で打撃3部門すべてリーグトップに立ち(打率.389・9本塁打・23打点)、初の月間MVPを受賞。移籍した和田の穴を完璧に埋める活躍を見せた。4月10日から16日までプロ野球タイ記録(10人目)となる6試合連続二塁打をマークした(翌年に金子誠が更新)。5月22日・23日には3打席連続本塁打を記録した。7月7日発表のオールスターファン投票結果では、セ・パ通じての最高得票数(367,837票)を獲得して初選出、同年から始まった選手間投票でも476票を集め、全選手通じてのトップだった。交流戦に入っても好調さは変らず、北京オリンピック野球日本代表・外野手として追加招集され、その後メンバーに選出される。しかし力を発揮できず、特に守備においては左翼の守備に起用されるも、準決勝の対韓国戦では3失点に絡む2失策を、3位決定戦(対アメリカ戦)でも3失点に絡む落球の失策を犯すなど、3失策により大きく精彩を欠いてしまった。妻に「死にたい」とメールを送るなど強いショックを受け、この精神的ショックから帰国後に球団からメンタルカウンセリングを受けることも検討されたが、最終的には渡辺久信の意向により行われなかった。チーム復帰後の数試合は出場したが、骨膜炎(再検査で疲労骨折と判明)によって9月16日から登録抹消となり、クライマックスシリーズ・日本シリーズ(対読売ジャイアンツ戦)の登録メンバーからも外された。しかし、前半戦に補殺を多く記録しており、9月のJA全農Go・Go賞、強肩賞を獲得した。この年も契約交渉が長引き、結局2年連続で12球団最後の契約更改者となった。は4月27日に第一子(長女)が誕生した。この日は月曜日で試合が無く、生まれたばかりの愛娘を抱く機会があった。両手で優しく抱いていた時に、「ん!? これ、新しいスイングのヒントになるのでは…?」とコメント。前半戦は打率.260とあまり活躍は目立たなかったが、9月にはリーグトップの打率.400・9本塁打で2度目の月間MVPを帆足和幸と同時受賞した。終盤の活躍で成績を一気に上げ、打率.291・25本塁打(リーグ4位)・83打点(同6位)を記録した。は正式に左翼手へコンバートされる。オープン戦首位打者で開幕を迎えたが、打率が2割前後と低迷、三振率の悪化も目立ち、7月2日に2度目の2軍落ちするとそのまま昇格することなくシーズンを終えた。9月には両ひじと左肩のクリーニング手術と苦しい1年だった。は若手起用というチーム方針によって一軍昇格することなく、10月9日に戦力外通告を受けた。からイタリアンベースボールリーグのフォルティチュード・ボローニャ1953と契約し、42試合の出場で打率.319(リーグ14位)、3本塁打(同13位タイ)、22打点(同23位タイ)、OPS.847(同16位タイ)の成績を残すが、8月21日解雇された。「プロ野球選手としては十分な生活を送れたため、プロ野球に戻る気はないが、野球との接点まで絶ってしまいたくはない」という理由で、2012年9月26日に、富山県のクラブチームであるロキテクノベースボールクラブへ選手兼コーチとして入団。選手として対外試合にも出場した。しかし、西武時代の恩師である伊東が、同年のシーズン終了後にロッテの一軍監督へ就任したことから心境が一変。結局、クラブへの在籍期間は、およそ2ヶ月にとどまった。伊東からの誘いをきっかけに、「(中学生時代から所属していなかった)地元・千葉県内のチームで野球人生の最期を送れたら最高」という思いに至ったことから、2012年11月にロッテの秋季キャンプへ参加。キャンプ中の入団テストを経て入団を果たすとともに、1年振りにNPBへ復帰した。背番号は「48」で、登録名は「G.G.佐藤」。には、公式戦の開幕を一軍で迎えると、3月30日の対オリックス戦に代打でNPB復帰後初安打を放った。一時は不振で二軍生活を送ったが、8月24日の対楽天戦では、NPB復帰後の一軍初本塁打を辛島航からの満塁本塁打で記録した。レギュラーシーズンでは一軍公式戦で30試合の出場にとどまったが、チームのシーズン3位で迎えたポストシーズンでは、10月23日に楽天とのクライマックスシリーズ ファイナルステージ第4戦で辛島から3点本塁打を放った。チームはこの本塁打で一時逆転したが、日本シリーズへの進出には至らなかった。には、一軍公式戦への出場がなかった。10月5日に球団から戦力外通告を受けたことを機に、現役を引退した。実父が社長を務める株式会社トラバース(住宅測量・地盤改良会社)に就職。平日に開発営業部のマネジャーを務めながら、休日には社内の軟式野球チームでプレーを続けている。末からは、西武時代のチームメイトだった梅田尚通・林崎遼・前川恭兵(いずれも同年限りで戦力外通告 → 現役引退)が入社したため、再び3人の同僚になっている。これまでにテレビ朝日のバラエティ番組に出演しており、2016年には東日本放送野球解説者としての活動も開始する(#出演参照)。右手でしっかりとボールを押し出しているため、左右に強い打球を運ぶことができる長打力を持ち味とする。ファーストスイング時の打率が2010年に.310、2009年に.394と初球に強い。走塁でも本塁から一塁到達まで4.27秒と平均レベルであり、右翼守備では前述のように、2007年に年間無失策を記録したこともある。登録名の「G.G.」の由来は、中学生時代に同級生から「猫背で顔がジジくさい」と言われたためである(ジジ→爺→G.G.)。なお、登録名にアルファベット表記を採用したは、日本人選手としては同じく2004年よりのSHINJO(新庄剛志)と共に初めてである。西武時代のヒーローインタビューでは「キモティーーーッ!」と絶叫するパフォーマンスを行っていた。2007年に放送された『プロ野球握力王決定戦』という企画では右手58.0kgを記録。妻は元CAである。
出典:wikipedia
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