宣王(せんおう、? - 紀元前301年)は、中国の田斉、第4(5)代の君主(在位:紀元前319年 - 紀元前301年)。姓は嬀、氏は田、諱は辟彊。学問を奨励して諸国から学者を集め(稷下の学士)、商工業を糧に富国に成功している。また、孟子の献策で燕を制圧したことがあったが、これは失敗に終わっている。父王威王と並び名君とされ、弟の靖郭君田嬰とその子孟嘗君を重用して覇権を握り続け、西方の雄秦と2大大国時代を現出させた。紀元前342年、韓の南稜が魏に伐たれた際、韓は斉に救いを求めてきた。宣王は、重臣たちを召して謀った。宣王は、「なるほど」と納得し、韓の使者に承知の旨を告げて帰した。韓は、斉はこっちのものと一人合点し、5度戦ったが5度とも敗れ、斉に訴えてきた。そこで斉は軍旅を催して魏を討ち、馬稜で散々に打ち破った。魏は敗れ、韓は弱まり、韓・魏の国君は田嬰のとりもちで、北面して宣王に朝貢した。ところで、靖郭君は斉貌弁をよく待遇した。食客や孟嘗君が諌めたが、「我が家の財を散じても貌弁先生を厚遇するぞ」と激怒し、最上の礼を以って厚遇した。威王が崩御し宣王が立ったが、宣王は大いに靖郭君を嫌い抜いており、靖郭君もそれがわかっていて封邑薛に去った。それからしばらくして、貌弁は暇をもらい、宣王に拝謁しに行かせてほしいと言い出した。靖郭君は貌弁がなにしたいかを理解し、貌弁が宣王に拝謁すると、宣王は大息し、威王の衣冠をつけ、その剣を帯びて靖郭君は赴き、宣王は郊外まで出迎え、亡き父に生き写しの靖郭君をみて、涙を流した。靖郭君に宰相になるよう請うたが、靖郭君は辞退した。しかし、結局やむをえず宰相の印を授かった靖郭君であるが、7日ほどして病と称し、辞任しようとした。宣王は許さなかったが、3日目に聞きいれた。また、宣王はよく学を奨励し、稷下の賑わいは威王の頃同様天下に轟き、有志の士や学者が斉に集まった。孟子も厚遇し、その助言で燕を制圧したこともあった。しかし、この燕制圧策は結果的には失敗し、燕に大きな恨みを植えつけることとなった。靖郭君死後、孟嘗君を宰相にすえ、斉の国を充実させ、国力を高めた。
出典:wikipedia
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