鈴木 健(すずき けん、1970年1月13日 - )は、埼玉県越谷市出身の元プロ野球選手(内野手)。業務提携先はTCP-ARTIST。中学校時代は「越谷リトルシニア」に所属し、高校時代は浦和学院高校に在学。高校通算本塁打83本は当時の日本最多記録。の第68回全国高等学校野球選手権大会は準決勝に進出。翌の第69回全国高等学校野球選手権大会で2回戦で敗退。オフにドラフト1位で西武ライオンズに入団。当初は早稲田大学進学を示唆していたために、逸材ながらも他球団からはノーマークであったが、地元埼玉県出身の強打者として鳴り物入りでの入団だった。自身と同い年、同じく1987年に1位指名された、同じ右投左打の内野手で中日ドラゴンズへ入団した立浪和義からもライバル視されていた。ルーキーイヤーの1988年は1軍出場はなかった。2年目の6月20日のオリックスブレーブス戦で1軍初出場を果たした。同年は8試合の出場に終わったが、初安打を記録し、オフに米1A・サンノゼビーズに留学。は2軍で打率.364を記録した。1軍の出場は11試合にとどまった。翌は打率.401を記録し、2年連続でイースタン・リーグ首位打者に輝いた。同年は1軍でプロ初打点、初本塁打を放った。1992年は69試合に出場し、打率.261の成績を残した。この年まではプロ入り当時の西武は黄金期の真っ盛りであり、一塁には清原和博、三塁には石毛宏典、指名打者にもオレステス・デストラーデら不動のレギュラーがおり、なかなか出場機会に恵まれなかった。翌年は主に指名打者として起用されて、規定打席不足ではあったものの初めて100試合出場を超え、打率.270、13本塁打を記録した。は102試合の出場でこの年も規定打席不足だったが打率.350、12本塁打をマークした。に三塁手のレギュラーを奪取した、前年より打率を大きく落としたが、プロ入り初の規定打席到達を果たした。なお、この年のチームは阪神淡路大震災から復興を目指して一丸と戦うオリックスの快進撃の前に3位で終わった。優勝を逃したのは1989年以来となった。は自身初の規定打席に到達しての3割となる打率.302を記録し、21本塁打をマークした。は巨人に移籍した清原和博の後を継いで四番打者に抜擢され、10月3日のダイエー戦では、吉武真太郎からサヨナラ本塁打を放ち、リーグ優勝を決めた。打率.312、19本塁打、94打点と自己最高の成績を残した。出塁率.431はリーグ最高記録で、最高出塁率のタイトルを獲得。ベストナイン受賞にプロ入り初の135試合フル出場を果たし、2年ぶりに本塁打が20発を超え、リーグ連覇に貢献した。1999年は前年より打率とホームラン数は下がったが、打点は前年より上回った。2000年はシーズンを通して不振で100安打にも到達しなかった。また本塁打も1992年以来8年ぶりに2桁に達しなかった。2001年も前年同様不振で100安打に到達しなかった。また18本塁打を打ったものの打率.252とアベレージは低かった。そして、1994年以来7年ぶりに規定打席に到達しなかった。なおこの年限りで西武を黄金期に導いた東尾修監督が辞任した。は伊原春樹が新監督に就任したが、伊原監督に気に入られなかったこともあり、65試合の出場にとどまった。同年は3年ぶりにリーグ優勝を果たし、自身も巨人との日本シリーズに出場したが、第1戦の7回に伊東勤の代打で三振に倒れた。結局この1試合の出場に終わった。チームはストレートの4連敗で日本一を逃した。ここ数年の自らの成績不振や首脳陣との確執の影響もあり、オフに戦力外通告を受けた。その後金銭トレードでヤクルトスワローズへ移籍。清原和博ら黄金期のレギュラーメンバーが次々にチームを去った後は、高木大成や松井稼頭央、大友進、小関竜也らと共に、東尾修監督率いる新生ライオンズの主力として活躍した。は、岩村明憲の故障を受けて三塁手のレギュラーに定着。春先から打撃が絶好調で、夏場まで首位打者争いを独走。終盤に打率こそ落としたものの、打率.317、20本塁打、95打点と自己最高の成績を更新し、リーグ最多の36二塁打を記録。ベストナインおよびカムバック賞を受賞。は岩村が復帰したのに伴い一塁手へ転向した。この年は3割は逃したが、打率.289、15本塁打、65打点と安定した成績を残した。オフにFA宣言をした後に残留。しかし、は故障と後半戦のアダム・リグスの好調もあり、打率.252、6本塁打、32打点と成績を落とし、年俸5300万円の大減俸となった。は開幕二軍スタートで、7月に漸く昇格。専ら左の代打要員として起用されたが 34試合で僅か4安打、1本塁打、打率.167の成績に終わった。しかし、11月24日の契約更改では減俸はなかった(推定2000万円)。9月20日に、現役引退を表明。持病の腰痛が悪化し、歩くことすら辛い状態であった。引退セレモニー・現役最終打席は10月4日の横浜ベイスターズ戦(神宮)で、8回裏1死の場面で宮本慎也の代打で出場。横山道哉からファウルで粘りながらも15球目をセンター前にヒットを放った。同年11月30日に自由契約公示された。2008年からスカイ・A sports+で東北楽天ゴールデンイーグルス戦の解説者に。同年4月、友人であるプロゴルファー小山内護のキャディーに転身(解説業も引き続き担当している)。高校時代は当時日本最多記録となる通算83本塁打を記録していたが、這い上がるため本塁打を捨ててミートを心がけた。1997年には優れた選球眼からリーグトップの四球数、出塁率を記録している。
出典:wikipedia
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