秩父市(ちちぶし)は、埼玉県北西部、秩父地方にある人口約6.4万人の市。面積は約578km²で、埼玉県内で最も広い市町村である。秩父山地に囲まれた秩父盆地の中央部に、中心市街地が位置している。秩父地方では唯一の市である。市域のほとんどが秩父多摩甲斐国立公園や、武甲・西秩父といった埼玉県立の自然公園に指定されている。荒川が、南西から北東に流れ河岸段丘を形成する。市の南東にそびえる武甲山では石灰石を産出し、露天掘りが行われている。気候は、盆地で内陸型気候である。夏は暑く、時には猛暑日になることもあるが、他の関東地方の主要都市と比べると湿度が低く、熱帯夜になることも少ないためすごしやすい。冬は埼玉県の中でも寒さが厳しく、氷点下5℃を下回ることもしばしばある。埼玉県の自治体では唯一、南隣の東京都と北隣の群馬県の両方に接している。他の4つの都道府県と接する市町村としては、秩父市以外には岐阜県高山市と京都府南丹市のみであり、大変珍しい。708年(和銅元年)に、現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡付近から、和銅(にきあかがね、純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出し、朝廷に献上された事を記念して、「和銅」に改元するとともに、和同開珎が作られたとされる。秩父盆地の中央にあることから古くから物資の集散地として、また秩父神社の門前町として栄えた。そのためかつては大宮郷(おおみやごう)と呼ばれ、自治体名も1915年までは大宮町(おおみやまち)であった。1884年(明治17年)に秩父事件が起こる。同事件は、負債に悩む秩父の農民たちが結成した「困民党」と呼ばれる組織を中心とした武装蜂起であり、最盛期には小鹿野・吉田、さらには郡都大宮郷(現在の秩父市)等を武力占拠した。これに対し政府は、警察・憲兵隊、最終的には東京鎮台まで動員し、徹底的な武力鎮圧を図った。事件後の裁判の結果、死刑7名を含む4000名余が処罰された日本史上最大規模の民衆蜂起とされる。2003年2月に、「秩父はひとつ」をスローガンとして、秩父市と東秩父村を除く秩父郡(小鹿野町・横瀬町・長瀞町・皆野町・吉田町・荒川村・両神村・大滝村)の九市町村で合併検討準備会を設置した。その後、皆野町と長瀞町が準備会から離脱し、残りの七市町村で任意合併協議会後に法定協議会を発足させた。2004年3月に、小鹿野町・横瀬町・荒川村で住民投票を実施し、荒川村では合併に賛成多数だったが、小鹿野町では、両神村との合併が多数、横瀬町では合併に反対多数となった。尚、現市長の久喜邦康は一連の合併の中で、小鹿野町議を中心とした秩父市との合併に反対する運動を支持していた。こうして小鹿野町・両神村・横瀬町も離脱し、秩父市・吉田町・荒川村・大滝村の4市町村で2005年4月に現在の秩父市が誕生することになった。なお小鹿野町は両神村と2005年10月に合併した。なお、旧吉田町に関しては、経済的・文化的に考えれば、旧秩父市よりもむしろ小鹿野町や旧両神村との合併が望ましいが、旧吉田町は「小鹿野や両神のような『小規模な』町村との合併よりも、秩父市のような規模の大きい市との合併が望まれる」と判断し、旧秩父市との合併を決断した。その後、皆野町では2006年4月の町長選挙で秩父市との合併に前向きな石木戸道也が町長に当選し、2008年6月19日に秩父市の栗原稔市長のもとを訪れて、秩父市との合併を申し入れた。栗原市長も「秩父はひとつ」との考えに変化はないことからこれを受け入れ、2009年度中に法定協議会が設置される見通しになっていたがのちに破談している。秩父市立
出典:wikipedia
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