西武所沢車両工場(せいぶところざわしゃりょうこうじょう)は、1946年(昭和21年)から2000年(平成12年)まで存在した、主に西武鉄道に在籍する鉄道車両の保守管理業務、および鉄道車両の製造業務を行う工場である。池袋線・新宿線の所沢駅に隣接して立地する。西武鉄道に在籍する鉄道車両の定期検査など通常の保守管理業務のほか、1954年(昭和29年)より鉄道車両の製造業務を開始、西武鉄道のみならず中小私鉄を中心に日本国内の私鉄各社へ納入したほか、他の車両メーカーの下請けとして他社が受注した車両の製造業務を担当した。また、西武鉄道において廃車となった鉄道車両はもちろんのこと、他事業者において廃車となった鉄道車両の譲渡に際しても積極的に関与し、各種改造を実施した上で中小私鉄へ譲渡したことも特筆される。当工場は鉄道車両関連事業以外にも、自動車整備業務・ダンプトラックなど特殊車両の製造業務、遊園地遊戯施設の製造業務、砂利採取機械の製造・整備業務などを幅広く手がけ、日野自動車製ダンプトラックのダンプ部分の装架や、系列会社である西武バスの車両整備なども担当した。設立当初は西武鉄道の傘下企業の一つである復興社(後の西武建設)が運営する工場であったが、1973年(昭和48年)12月の組織改組に伴って西武鉄道の直営工場に変更された。以降の当工場は、大手私鉄が直営する日本国内唯一の鉄道車両の量産製造工場となり、鉄道車両製造専業メーカーと同等の技術力・生産能力を備える、日本の電鉄業界においては極めて特異な存在の工場であった。1969年(昭和44年)に西武初の特急形車両である5000系電車が日立製作所に発注されるまで、西武鉄道が保有する鉄道車両は全車とも当工場で新製された。また通勤形電車については1979年(昭和54年)に新101系電車が東急車輛製造(現社名・横浜金沢プロパティーズ、事業は総合車両製作所に継承)に発注されるまでの期間、全ての車両が当工場で新製された。1983年(昭和58年)以降は鉄道車両の製造業務を段階的に縮小した末、1999年(平成11年)3月をもって終了した。定期検査業務についても翌2000年(平成12年)6月をもって終了し、池袋線武蔵丘信号場付近に新設された武蔵丘車両検修場へ業務を引き継ぐ形で、同月15日に当工場は閉鎖となった。本節においては、主に鉄道車両製造事業者としての所沢車両工場について述べる。終戦後、西武グループの創始者・堤康次郎による「自らの力で電車を動かせる工場を作れ」との指示の下、1946年(昭和21年)9月に復興社保谷車輌工場が、同年11月には復興社所沢車輌工場がそれぞれ発足した。前者は電気関係の部品の補修を、後者は車両の補修をそれぞれ担当し、所沢車輌工場は当初所沢駅の東側、後に所沢車両管理所の敷地となった場所に仮設の工場を新設し業務を開始した。同時期には旧日本陸軍立川航空工廠所沢支廠跡の敷地払い下げを連合国軍 (GHQ) 側に働きかけ、翌1947年(昭和22年)1月より建物・設備を借り受け、所沢車輌工場は正式に操業を開始した。当初は戦中の酷使によって極度に疲弊した従来車の整備を主な業務としたが、後に西武鉄道が車両不足対策として空襲によって被災焼失した日本国有鉄道(国鉄)の車両、いわゆる「戦災国電」を大量に購入して復旧の上で導入するに際して、当工場も復旧工事を担当し、1948年(昭和23年)4月に当工場が担当した復旧車両第一号が落成した。1950年(昭和25年)2月には保谷車輌工場を当工場へ統合、鉄道車両の製造および保守管理業務は当工場へ一本化された。その後は戦災国電の復旧工事のほか、1950年(昭和25年)以降は並行して木造国電の台枠のみを流用して車体を新製する業務を開始したが、業務開始に際しては戦前の国鉄大井工場(現・東日本旅客鉄道東京総合車両センター)および大宮工場(現・同大宮総合車両センター)においてモハ50形・クハ65形電車の車体新製に関わった技術者を大量に雇い入れ、技術習得に努めた。それらによって培われた技術力を元に、1954年(昭和29年)7月には完全新規設計による新型車両、501系電車(初代)モハ501・502およびサハ1501・1502の4両が落成した。以降、西武鉄道に在籍する車両の新製は全て当工場によって行われたが、1950年代から1960年代にかけて新製された西武鉄道向けの鉄道車両各形式については、前述した戦災国電復旧車両の導入と同時に大量に購入した国鉄制式の主要機器が標準装備された点が特徴であった。また1952年(昭和27年)7月より西武鉄道以外の鉄道車両の受注業務を開始、木造車体の鋼体化改造車から台枠から新製した完全新製車の製造業務を始めとして、西武鉄道において廃車となった車両を地方私鉄へ譲渡するに際しての各種改造業務、および他事業者において廃車となった車両を購入し各種改造の上で地方私鉄へ転売する業務まで幅広く手がけ、各社へ納入した。その間、1953年(昭和28年)12月には土地・建物および付帯する設備について正式に払い下げを受け、名実ともに所沢車両工場の所有物件とした。西武鉄道向けに1959年(昭和34年)に納入した451系電車より、1基のドアエンジンで両開客用扉の開閉動作を行う戸閉装置を開発・搭載した。従来の両開客用扉においては、左右の扉に1基ずつ計2基のドアエンジンを必要とし、開閉動作の同期など調整・保守管理上の欠点とされていたが、所沢車両工場が開発した同戸閉装置においては、客用扉鴨居部に環状のゴムベルトを渡し、左右の扉の上部をベルトの上下にそれぞれ固定して連動させることによって、1基のドアエンジンのみで開閉動作を可能としたものであった。「ST式戸閉機構 (ST = Seibu Tokorozawa) 」と命名され、翌1960年(昭和35年)に特許を取得した同戸閉装置は、西武鉄道の車両のみならず国鉄103系電車など、国鉄・私鉄を問わず両開客用扉を採用する鉄道車両に広く普及した。株式会社復興社は1961年(昭和36年)10月に西武建設株式会社へ社名を変更、それに伴って当工場も西武建設所沢車輌工場と改称された。同時期には旧日本陸軍施設の払い下げによる木造建物の鉄骨建造物への建て替えなど各種設備の近代化が進められ、それに伴って鉄道車両の生産能力も向上し、最盛期の1965年(昭和40年)には年間製造数60両(月産平均5両)を記録した。また1968年(昭和43年)7月には、汽車製造の下請け業務としてコンゴ共和国向けの客車8両を製造、当工場においては最初で最後の輸出車両の製造を担当した。1973年(昭和48年)12月に当工場は西武建設株式会社から西武鉄道株式会社へ移管されて西武鉄道の直営工場となり、西武鉄道所沢車輌工場(西武所沢車両工場)と改称された。その後1979年(昭和54年)に新101系が東急車輛製造へ発注されて以降、西武鉄道においては同社と当工場へ新製車両を分散して発注する形態が取られたが、同一形式であっても東急車輛製造製の車両と当工場製の車両では主要寸法こそ同一ながら構体設計および工作方法には差異が生じた。1981年(昭和56年)より、所沢駅西口周辺の再開発計画の進展に伴って当工場の移転が検討され、最終的に埼玉県日高市西台山(池袋線東飯能 - 高麗間・現在の武蔵丘信号場付近)への移転が決定した。以降、再開発事業による周辺道路拡幅工事などによって工場敷地の縮小が段階的に進められ、1983年(昭和58年)には年間最大生産能力が16両に低下した。1989年(平成元年)には日高市台地区の住民との間に検修場(武蔵丘車両検修場)建設に関する協定を締結、翌1990年(平成2年)より造成工事が開始された。その間、西武鉄道の新製車両は6000系電車以降において外部発注が主となり、設備と人員の維持管理の観点から9000系電車(計80両)については当工場において新製することとなったものの、同時に同系列の増備完了をもって車両新製業務を終了することも正式決定された。1999年(平成11年)3月に落成した9000系9108編成の中間車6両(サハ9408-モハ9508-モハ9608-サハ9708-モハ9808-モハ9908)の出場をもって車両新製業務を終了、翌2000年(平成12年)6月1日に出場した新2000系電車2459編成の検査業務完了をもって、当工場における全ての業務が終了した。同年6月15日付で当工場は閉鎖となり、鉄道車両の保守管理業務は武蔵丘車両検修場へ継承された。当工場跡地については、2008年(平成20年)10月に西武鉄道が実施した土壌調査によって、敷地の一部から土壌汚染対策法で定められた基準値の110倍のテトラクロロエチレンおよび基準値の3.5倍の鉛が検出されるなど土壌汚染が明らかとなり、また地元自治体である所沢市の財政事情などから跡地の再開発計画は進展せず、工場の建造物は閉鎖当時のまま現存する。所沢市では2014年(平成26年)度に土地区画整理事業の区域を決める都市計画決定を行い、早期の事業実現に向け、事業計画の検討を進めている。主要な改造車両のみを記し、各形式内における改造(冷房化改造・更新修繕など)については割愛する。譲渡車両については、当工場が西武鉄道の車両譲渡に関与した1957年(昭和32年)7月以降に譲渡された車両のみを示す。
出典:wikipedia
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