高山 郁夫(たかやま いくお、1962年9月8日 - )は、秋田県大館市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。秋田商業高校では、2年夏の選手権大会に出場。3年春の選抜大会では140km/h近い速球を投げ、1回戦では玄岡正充を擁する鹿児島商工に4安打1失点で完投勝利した。チームにとって19年ぶりとなった準々決勝では帝京の伊東昭光と投げ合い、5安打2失点で完投したものの0対2で敗れた。一方で対帝京戦の途中で右足に激痛が走り、大会終了後に診察を受けたところ親指つけね付近の骨が砕けている事がわかった。手術が必要なものの従来通りの投球ができなくなる可能性もあって悩み、1年生の頃から面識のあった根本陸夫に相談したところ、プリンスホテルに入社して手術とリハビリを行なう事を勧められた。何年でも待つという根本の言葉に感銘を受け、同年のドラフト会議前には西武以外から指名を受けた場合はプリンスホテルに進む事を明言している。3年春の県大会はこのケガのため出場しなかったが、夏の県大会には復帰し、選手権大会に2年連続で出場。本大会では最高149km/hの速球を投げ、大会屈指の好投手と評された。ドラフト会議では日本ハムから1位指名を受けたが、事前の発表通り入団を拒否し、11月30日に三沢今朝治スカウトらに正式に断りをいれてプリンスホテルに入社した。入社後は右足の手術を受けて3年間をリハビリに費やし、に西武の練習生となり、1A・カリフォルニアリーグのサンノゼ・ビーズに野球留学して24試合に登板している。同年オフのドラフトで3位指名を受けて正式に選手登録された。手術後は球速が140km/hに届かず技巧派を目指し、1年目のは初先発となった8月29日の対南海戦で完封勝利を挙げている。翌は1試合の登板に終わったものの、には5月8日の対ロッテ戦で3年ぶりの完投勝利を記録した。は先発ローテーションの谷間を埋め、自身最高の5勝を挙げる。大一番となった10月12日の対近鉄戦ではダブルヘッダーの第2試合に先発したが、ラルフ・ブライアントに第1試合から続き日本タイ記録となる4打数連続本塁打を達成されるなど4失点でノックアウトされ、チームも連敗を喫してリーグ5連覇を逃した。1月9日に高木宣宏との交換トレードが発表され、広島に移籍。サイドスローに転向したものの登板機会は少なく、オフには160万円減の年俸1,440万円(推定)で契約を更改している。にダイエーへ移籍するも同じく出番が少なく、に現役を引退した。引退後は三鷹市の不動産会社に勤務し、その傍らで少年野球の指導を行なっていた。またマスターズリーグでは博多ドンタクズに所属している。に西武時代の同僚だった石毛宏典に誘われて四国アイランドリーグ・愛媛マンダリンパイレーツの投手コーチに就任した。制球力に難のあった西山道隆のフォームを矯正し、西山は同年のドラフトでソフトバンクに指名を受けて入団した。また、指名に先立って自身のソフトバンク2軍投手コーチへの就任も決まり、10月27日にマンダリンパイレーツの退団を発表している。シーズンからは1軍投手コーチ(ブルペン)となり、はリーグワーストの救援防御率だった。からは解任された杉本正の後任として一軍投手コーチ(ベンチ)に就任。同年は馬原孝浩につなぐセットアッパーの整備を課題として掲げ、シーズンに入るとSBMという継投のパターンが確立された。同年はチーム防御率はリーグ5位から2位になった。には勢いのある投手を起用する方針を打ち出し、森福允彦の登板機会増加につながった。現役時代から西武、ダイエーで同僚だった秋山幸二と親交が深く、監督と投手コーチという関係で円滑な連携を見せている。はチーム防御率を12球団トップの2.32(チーム防御率2点台前半は1971年の大洋以来40年ぶり)としてチームの連覇、日本一に貢献した。は先発のチーム防御率が4.14とリーグワーストの2位に低迷し、同年10月11日に退団することが発表された。2013年10月30日にソフトバンクコーチ時代同僚だった森脇浩司が監督を務める、オリックス・バファローズの一軍投手コーチに就任することが発表された。2015年6月2日に森脇の監督辞任が発表された際、高山も進退伺を出し球団から慰留されていたが、10月3日に来年度の契約更新を行わない旨を通告された。2014年から2年間コーチと選手の関係だったブランドン・ディクソンは「日米を通して、僕が指導を受けたなかで、彼は最も素晴らしいコーチのひとりです。まず、すごく頭のキレがいいんです」と述べている。2015年10月17日、2016年から中日ドラゴンズの2軍チーフ投手コーチに就任することが発表された。
出典:wikipedia
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