国道18号(こくどう18ごう)は、群馬県高崎市から新潟県上越市に至る一般国道である。関東地方、長野県北部、新潟県上越地方相互間を結ぶ重要な幹線道路である。全線でしなの鉄道や妙高はねうまライン等と並走している。また、概ね上信越自動車道と並走している。上信越自動車道の開通後はその役割を譲りつつあるが、現在でも主要幹線道路として重要な役割を持っている。群馬県内では碓氷川に沿って走り、碓氷峠を越えて長野県へ至る。長野県内では千曲川沿いに軽井沢や上田、長野、黒姫高原といった高原や盆地を通過し、妙高高原から新潟県に入る。新潟県内では関川沿いに緩やかに下り、妙高市を通って日本海に面した港町である上越市直江津に至る。国道18号は、高崎市から北佐久郡御代田町までは中山道、北佐久郡御代田町から上越市までは北国街道を継承する路線である。前者には、箱根峠とともに難所とされた碓氷峠を含む。碓氷峠は、1878年(明治11年)に行われた明治天皇巡幸にあわせてとりあえずの改良がされたが、雨が降ればすぐにぬかるみになってしまうような簡易なものであった。実際、明治天皇巡幸の前日にも雨が降り、輿を通すことができずに天皇は輿を降りて自らの足で峠を越えることとなった。1883年(明治16年)2月より本格的な改良が行われ、翌1884年(明治17年)5月20日にいったん落成した後、1886年(明治19年)に碓氷新道が完成した。工事に際しては長野県が国庫補助を受けて担当し、工費およそ8万円をかけ、人員は延べ30万3千人に上った。現在の国道18号にあたるこの新道に並行して信越本線跡が通っている。当初は、主要地方道下仁田軽井沢線が通っている和美峠ルートでの敷設が有力視されていたが、新道の開通により資材運搬がしやすいという理由で現ルートに変更されたものである。なお信越本線の開業前の1888年(明治21年)-1893年(明治26年)には、国道18号上に馬車鉄道の碓氷馬車鉄道も敷設されていた。1885年(明治18年)の内務省告示第6号では、国道5号「東京より新潟港に達する路線」(現17号、18号、8号経由)に指定された。1920年(大正9年)施行の旧道路法に基づく路線認定では、高崎-長野は国道10号「東京市より秋田県庁所在地に達する路線」(現17号、18号、117号、8号経由)、長野以北は国道11号「東京市より石川県庁所在地に達する路線(甲)」(現17号、18号、8号経由)となった。1932年(昭和7年)10月から翌年10月にかけて全面的な改良が行われ、工費37万8千円が費やされて延べ21万1千人が工事に従事した。これによって幅員が6.4mに広がったほか、勾配は15分の1以下、曲線半径は12m以上となり、一部の区間について1車線分をコンクリートで舗装している。この工事の記念碑が県境に建てられ、内務大臣・山本達雄が題字を書いている。1952年(昭和27年)12月4日には、新道路法に基づく路線指定で一級国道18号(群馬県高崎市-新潟県中頸城郡直江津町(現・上越市))として指定された。1965年(昭和40年)4月1日、道路法改正によって一級・二級の別がなくなり一般国道18号となった。碓氷峠の区間は1956年(昭和31年)から拡幅や改良・舗装工事が進められていたが、屈曲部が184箇所もある事などから交通量に限界があり、南の入山峠を通る碓氷バイパスの建設が1966年(昭和41年)から始まり、1971年(昭和46年)11月に開通した。日本道路公団管理による有料道路となっていたが、2001年(平成13年)11月11日をもって無料開放された。2011年(平成23年)4月1日に、指定区間の起点が高崎市並榎町457番の1から高崎市並榎町457番6に変更された。ほとんどの区間が2車線で、4車線となっているのは篠ノ井バイパスなどごく一部である。そのため上信越自動車道の開通前に比べ幾分改善されたとはいえ、長野県内は全線に渡って流れが悪く、特に軽井沢町、上田市、千曲市、長野市近辺では渋滞が日常化している。国道18号の混雑を回避する道としては次の道が挙げられる。関東地方整備局管内北陸地方整備局管内
出典:wikipedia
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